著者
安井 愛美
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.22, pp.7-14, 2003

自閉症者の認知のしくみを理解する研究は、近年めざましく進歩を遂げている。その認知の特徴が明らかになるにつれ、TEACCHプログラムなどに代表されるような、わかりやすいコミュニケーションの手段も開発されてきている。しかし、その一方で、自閉症者の認知のしくみに興味が集中することで、彼らが受ける心の傷の問題が置き去りにされはしないかという危惧がある。自閉症の障害を、断片化によるものであるというフリスの仮説をもとに、自閉症の傷つきにくい心と,傷つきやすい心のしくみを探り、トラウマになりかねない「心の傷」の存在について、実際に関わった事例から考えた。更に、一般にトラウマを被った心のケアの方法論をヒントにし、傷ついた心を癒していくための、要因として「安心できる場」を確保することの必要性についてを述べた。
著者
明庭 和行 大場 公孝 寺尾 孝士
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.20, pp.139-144, 2001

星が丘寮において,障害の重い自閉症者であっても,我々の実践からTEACCHプログラムやジョブコーチモデルのアイデアを応用すれば,地域の一般事業所等においても働いていけるのではないかと考えた。そこで,平成7年度からジョブコーチ(専任の実習担当職員)を配置して,地域の職場等での実習を開始し,平成11年度までの5年間の取り組みから,自閉症者に対する実習支援プログラムについて考察する。
著者
石黒 一次
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.13-20, 1999

平成6年4月,11年ぶりに一般学級の担任となり,5年生38名との期待あふれる出会いがスタートした。数日間がたち,子供たちに二つの気掛かりなことを感じた。一つは,教室中に交錯している「金切り声・怒鳴り声」である。一人の女児に「疲れない?」と尋ねたら,「はい!でも,こうしなければ話が通らないの!」という返事であった。あわせて授業に先立って「注視・傾聴」の声掛けが,児童個々に必要であった。もう一つは,身体すれすれに乗用車が近付いても,クラクションの合図があるまで「身の危険を回避する」「運転者に進路を譲る」などの行動に気が向かないことであった。これらの子供たちの変化は,授業不成立,学級崩壊などの事象に無関係ではないように思える。私は,教育の基盤8割が感情交流の醸成であると実感している。本論は,これまで様々な子供たちとの出会いを振り返り,教育と感情の相互機能について一考する。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-12, 1994-03

菅季治(1917〜1950)は,若くして生涯を閉じた,ひとりの忘れられた哲学者であり,北海道が生んだ教師でもある。その残したしごとは,25才から26才にかけて執筆されたものであるが,自由のない,不毛な時代にもかかわらず,その哲学,思想,文学,人間にむけた関心は,知識人としてのたしかな思索のあとをしめしており,その稀有な思想と生き方は,いまに生きつづけている。その核心は,自己同一性がいかにして成りたつか,という自己と他者との関係性,相互関係(はたらきかけ,相互活動)にむけられている,と同時に,同一性における,一人ひとりの内面のうごき,欲望(そのあらわれとしての快と不快)のあらわれ方にたいする,心理・行動の観察(記録)にむけられているのが特質である。菅の遺著「哲学の論理」は,人間のあり方のうちでも「他者」との関係性を追求しているが,これにたいして「人生の論理-文芸的心理学への試み」は,獲得されるべき自己,同時に,そとにあるものをつつみ,みずからをつくりだしていくなまの自己実現のプロセスをえかきだして,感清-情念の世界を基本に一個の人間学の構築をめざしている。本稿は,その成りたち,内容と方法,ならびにその先駆としての意義をあきらかにした。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.225-234, 1998-02

菅の「人生の論理」の執筆は,1943年9月,戦時である。本論では,菅の論述のもとになっている,キエルケゴールならびにアミエルに焦点をあて,その整理と解釈を試みた。菅がうけたキエルケゴールやアミエルの影響についは,これまでも指摘があったが,誤解にもとづくと思われるものがある。これまでみてきたことからあきらかなように,菅の,豊かな感性のうえに築かれた,哲学的土台は,戦時にあって人間的価値をもった教養をしめていて,その心理の論述も,冷静な観察の眼を生かした考察となっている。とりわけ,絶対的,一元的な哲学の伝統のなかで,他者との自由な,人間的な社交と交際,それによるさまざまな問題の解決につなげていくことを見通した「相互承認論」の展開は,じつにあらたな人間関係の転換点をしめしている。すべての人が「自由な人」になることが,人間の根本のありかただというのが,菅の哲学の基本である。「自他」「相互承認論」を基礎づけているのが,この人間観であり,その原点となっているのが,人間を縛するものからの自由ということである。その批判のキーワードは,「世間」である。戦時の全活全般が,「他者抹消」(戦時がこの死生観のうえに築かれていたし,哲学がそうであったことに注目したい)が公の論理とされていただけに,菅がいまわれわれによびかけていることの意味は,時代を超えて重い。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.20, pp.265-274, 2001

これまで菅季治(1917〜1950)の生活思想,哲学思想の意義をあきらかにしてきた。その主要著書は「人生の論理」(1950年,草美社)「哲学の論理」(1950年,弘文堂刊)である。本稿は,遺稿「語られざる真実」(1950年,筑摩書房)にふれながら,戦後における菅のシベリア抑留体験をあきらかにするとともに,抑留者引揚問題が国内政治の最大の問題になるなか,証人としての菅の,国会における意見陳述,ならびにその意見表明にしめされた立場,内容について解析を行なったものである。それ自体,菅の生活・哲学思想の論理の展開でもある。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.263-270, 2000

本稿の目的は,ひきつづき菅季治(1917〜1950)の戦中における生活思想,哲学のもつ意義をあきらかにすることである。菅の哲学研究の命題は,「ものははたらくはたらきは矛盾的自己同一 関係 関係のろんり」の追求であり,「なる 動く はたらく」,または「生成・運動」論の探求である。では,その「論理」は,どのような「はたらき」を対象化して,みちびかれたものかが,重要な,菅の哲学研究の課題となる。本稿では,とくに「人生の論理」(1950)「哲学の論理」(1950)のなかから,学問研究のあり方として,なにを探求し,なにを方法・内容としているか,をあきらかにするとともに,彼の戦中における研究・実践の一つの到達点をしめした。また,菅の西田幾多郎にむけられた批判点,ならびにコミュニケーション(交わり)論も,あらためて着目すべきものとしてとりあげた。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.217-230, 1996-03

「天の下にあるものはすべて,同じ法則,同じ運命のもと,すべては同一の自然の相の下に現れるにすぎない。人間を縛って,この秩序の棚の内に拘束しなければならない」菅季治(1917-1950)の「人生の論理-文芸的心理学への試み」の「前かき」に,モンテーニュからかりたこのことばがある。地上にあるすべてのもの,そして人間すべて上も下もなく同一であり,「宇宙における人間の位置」についての,このただしい自覚がいまや必要だという。現実の人間の,この理念とはなんとひどくかけ離れていることだろうか,たがいに傷つけあい倒し合う人間,かがれ歪んでいる人間,争いのなかの傷つけあう人間を見聞きするくらいかなしいことはない,と菅はいう。本稿では,ひきつづき戦中におけるひとりの哲学徒の,人間心理の内面をとらえた思索と行動(観察と記録)をあきらかにしたが,その文学,哲学,思想,文芸をかりた臨床的な研究方法のなかに,今日のあらたな教育的人間学の構築への手順も期待できると思われる。とくに今回は,菅のキエルケゴールの考察から多くとった。末尾に,「人生の論理」から「孤独」「弱い魂」「たいくつ」の各節を資料掲載とした。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.138-152, 1995-03

菅季治(1917〜1950)の主としてスピノザ(B. Spinoza 1632〜1677)哲学による「心理学への試み」の特質と,その心理学的論述について考察するのが,本稿のねらいである。人間が他の人(他者)をみとめ,他者からみとめられる相互の人間関係がなりたつには,なによりも自由で平等な,たがいの人格がみとめられるということがあってのことである。自分と他者とを一体のものとみなし相互にはたらきかけあうことのなかに,自分(他者も自分)を見出していくというのが,人間のあり方である。菅が,戦争・国家・権力・支配という総力戦のなかで,人間どう生きるかを問いながら,その哲学の課題としたのも,この相互の関係の基本についてのものだったのである。(「哲学の論理」にくわしく展開されている)私の手もとに,菅が使用したスピノーザ「哲学体系」(原名倫理学)(小尾範治訳,昭和2年発行岩波文庫)がある。これには,菅がつけたいくつもの傍線のもと,赤鉛筆で三ヶ所,つよくうったものが目をひく。その一ヶ所は,概括するならつぎのものである。「われわれの存在を維持し,その活動能力を増大するものを善といい,これにたいしてわれわれの存在の維持を妨げ,阻害するものを悪という。こうしてわれわれは,あるものが,われわれの喜びとなり,あるものが悪となるものであることを知るのである」(第四部人間の屈従,或いは感情の力について下線は菅のもの)戦争真ただ中の菅の哲学ならびに心理学的論述の前提は,このなかにいいつくされているといってより。人間,どうあるべきか,同生きるべきか,の目標をかかげるとうよりか,まず人間,どう生きているか,どうあるかのほんとうのあり方(欲望,感情-よろこびとかなしみ)をあきらかにすることが,根本と考えられたのである。人間のあり方とは,なによりも自分をまもることであり,自分を維持し,肯定されることをのぞむものであり,けっしてきずつけられ,屈従すること,否定されることをのぞむものではないということである。菅の遺著「人生の論理」は,戦中に書かれたことを基本にしているが,人間,どうあるかのありのままのあり方と,その生き方を凝視し,観察・記録(主として文学・哲学・思想と菅自身の人間観察による)したものであり,同時に,その日常性,通俗性にたいする,するどい批評をとおして,人間,どう生きるかをふかく問うものとなっている。末尾には,資料として「愛」「競争意識」「世間」「卑屈」の各節を採った。
著者
湯藤 端代 瀬川 真砂子 中保 仁 山本 雅恵 古川 宇一
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.20, pp.209-216, 2001

本論は子どもと積極的にかかわりたいと願いながらも,ためらい迷っていたかかわり手が,子どもの感じ方に気づいていくために「遊び」を大切に考える意識を持つことにより,「迫いかけっこ」遊びで子どもとの関係を深めることができたという報告である。またその「追いかけっこ」遊びになるまでのプロセスを追っていくことで,「遊びの技術」について検討した。