著者
小笠原 博毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.35-50, 2016-03-25 (Released:2017-03-24)

イギリスのカルチュラル・スタディーズはどのようにサッカーというポピュラー文化に着目し、それを真剣に研究の対象やテーマにしていったのか。サッカーのカルチュラル・スタディーズがイギリスで出現してくる背景や文脈はどのようなものだったか。そして、現在のカルチュラル・スタディーズはどのようなモードでサッカーを批判的に理解しようとしているのか。本論はこのような問いに答えていきながら、過去50年に近いサッカーの現代史とカルチュラル・スタディーズの関係を系譜的に振り返り、その概観を示すことで、これからサッカーのカルチュラル・スタディーズに取り組もうとする人たちにとって、サッカーとカルチュラル・スタディーズとの基礎的な相関図を提供する。 その余暇としての歴史はさておき、現代サッカーの社会学的研究は、サッカーのプレーそのものではなくサッカーに関わる群衆の社会学として、「逸脱」と「モラル・パニック」をテーマに始まった。 地域に密着した男性労働者階級の文化として再発見されたサッカーは、同時に「フーリガン」言説に顕著なように犯罪学的な視座にさらされてもいた。しかし80年代に入ると、ファンダムへの着目とともにサッカーを表現文化として捉える若い研究者が目立ち始める。それはサッカーが現代的な意味でグローバル化していく過程と同時進行であり、日本のサッカーやJ リーグの創設もその文脈の内部で捉えられなければならない。 それは世界のサッカーの負の「常識」であり、カルチュラル・スタディーズの大きなテーマの一つでもある人種差別とも無縁ではないということである。サッカーという、するものも見るものも魅了し、ポピュラー文化的快楽の豊富な源泉であるこのジャンルは、同時に不愉快で不都合な出来事で満ちている。常に変容過程にあるサッカーを、その都度新たな語彙を紡ぎながら語るチャンネルを模索し続けることが、サッカーのカルチュラル・スタディーズに求められている。
著者
小笠原 博毅
出版者
神戸大学大学院国際文化学研究科
雑誌
国際文化学研究 (ISSN:13405217)
巻号頁・発行日
no.30, pp.101-114, 2008-07

Synopsis: Drawing upon five ways that could provide a better understanding of contemporary Japanese society, this paper attempts to tentatively construct views that clarify how specific cultural currents affect our lives under the neo-liberal political and economic condition. These five ways do not regard the field of culture as self-evident. Culture should not be prioritised in social analysis. Even if culture could be considered as relatively autonomous, in what condition can we say so? What force can make it possible to represent culture as relatively autonomous? The important task I would like to propose here is to re-address contemporary Japanese culture as an ensemble of uncertain practices. First, the 1980s is considered as the period that has generated a particular pattern of cultural nationalism among intellectuals. Second, the global trend of 'made-in-Japan' worked as a potential campaign for promoting the neoliberal fashion of cultural production. Third, ai, sorrow/love, is valuable to analyse who is 'in' and who is 'out' of a community that can enjoy a specific kind of love, that is, nationalism. Love without sorrow to others, I suggest, could inevitably lead to drawing a rigid line between 'in' and 'out'. Fourth, ido, moving/sameness-difference makes it possible for us to see the way that the irresistible trend of migration has long been a part of Japanese society. However, this obvious history of moving is submerged by the recent cultural nationalism into the logic of sameness-difference. Those who do not move are 'same' while moving generates difference. Then, the communality among those who do not seem to move is expected and presumed. Fifth and last, the warning words of the African-American savant W.E.B.DuBois in 1930s remind us that Japan has been ceaselessly involved in the global modern geopolitics of 'colour line', the racialised division, since her modernisation. Although this history is not properly recognised, DuBois is useful to reexamine this historical negligence. It is particularly true to those who believe that contemporary Japan has little to do with race and racism. Instead, they are keen to problematise 'race' as exception, the thing that rarely matters in the traditionally tolerant cultural environment. Introducing the Tokyo municipal governor Ishihara Shintaro's deliberately racist speech, I examine the ways in which 'race' comes to occupy the central part among political relations rather than to be an occasionally discussed, peripheral and simple political issue.
著者
塚原 東吾 三浦 伸夫 小笠原 博毅 中島 秀人 隠岐 さや香
出版者
神戸大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は科学機器の歴史について、主に望遠鏡と顕微鏡に光をあて、イタリア・オランダ・イギリスのケースに加え、フランスの事例の研究を行った。この研究では哲学機器とも呼ばれた数学機器や、望遠鏡と四分儀を組み合わせた測地機器、また物理教育に使われた一連の力学機器などを検討したその際、科学機器自体の歴史を基礎に、科学の組織化、いわゆるアカデミーなどの制度化についても検討を行った。科学機器の歴史を通じて、科学史をより広く、また深い観点から検討するための基礎的な作業である。
著者
小笠原 博毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.35-50, 2016

<p> イギリスのカルチュラル・スタディーズはどのようにサッカーというポピュラー文化に着目し、それを真剣に研究の対象やテーマにしていったのか。サッカーのカルチュラル・スタディーズがイギリスで出現してくる背景や文脈はどのようなものだったか。そして、現在のカルチュラル・スタディーズはどのようなモードでサッカーを批判的に理解しようとしているのか。本論はこのような問いに答えていきながら、過去50年に近いサッカーの現代史とカルチュラル・スタディーズの関係を系譜的に振り返り、その概観を示すことで、これからサッカーのカルチュラル・スタディーズに取り組もうとする人たちにとって、サッカーとカルチュラル・スタディーズとの基礎的な相関図を提供する。<br> その余暇としての歴史はさておき、現代サッカーの社会学的研究は、サッカーのプレーそのものではなくサッカーに関わる群衆の社会学として、「逸脱」と「モラル・パニック」をテーマに始まった。 地域に密着した男性労働者階級の文化として再発見されたサッカーは、同時に「フーリガン」言説に顕著なように犯罪学的な視座にさらされてもいた。しかし80年代に入ると、ファンダムへの着目とともにサッカーを表現文化として捉える若い研究者が目立ち始める。それはサッカーが現代的な意味でグローバル化していく過程と同時進行であり、日本のサッカーやJ リーグの創設もその文脈の内部で捉えられなければならない。<br> それは世界のサッカーの負の「常識」であり、カルチュラル・スタディーズの大きなテーマの一つでもある人種差別とも無縁ではないということである。サッカーという、するものも見るものも魅了し、ポピュラー文化的快楽の豊富な源泉であるこのジャンルは、同時に不愉快で不都合な出来事で満ちている。常に変容過程にあるサッカーを、その都度新たな語彙を紡ぎながら語るチャンネルを模索し続けることが、サッカーのカルチュラル・スタディーズに求められている。</p>