著者
工藤 雅樹
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.139-154, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
122

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化を劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすこができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのがアイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。
著者
工藤 雅樹 樋口 知志 熊田 亮介 辻 秀人 榎森 進 甘粕 健 村越 潔
出版者
福島大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1993

(1) この研究を推進するために岩手県岩手郡岩手町の横田館遺跡と西根町の子飼沢山遺跡、暮坪遺跡の発掘調査を実施した。その結果横田館遺跡は周囲に多重の土塁をめぐらすこと、発掘した2基の竪穴住居の構造や集落全体の構造から、常時居住した集落ではなく、13世紀以後の防御性の高い集落であろうとの結論を得た。子飼沢山遺跡は海抜500メートルを越える高地の尾根上に存在する。大型と小型の竪穴住居各1基を発掘調査し、土師器、多量の鉄器、炭化した穀物粒などが出土した。遺跡の年代は土師器の形態から10世紀後半ころと考えられる。暮坪遺跡は海抜430メートルの暮坪山の頂上一帯に広がる遺跡で、集落の主要部は堀と土手に囲まれている。住居跡二基を発掘した結果、集落は大形と小形の二つのタイプがあることが確認された。遺跡の年代は出土した土師器から考えて10世紀後半ころのものである。(2) 実地踏査の結果によれば、東北北部には学界に知られていない多くの平安時代高地性集落が存在する。それらは立地や構造などによりa,平地との比高差数十メートル以上の高地に立地し、特に濠や土塁などを持たないもの、b,丘陵の突端部に存在し、基部が濠で切断されているもの、c,周囲に濠や土塁をめぐらすもの、などに大別される。また年代ではそしてこのような特徴を有する集落は、低地に立地し、濠や土塁を有しない一般の集落とはことなる、きわめて防御的色彩の濃い集落であると考えられる。平安時代高地性集落の研究をさらに推進できることで、北海道のチャシとの関係も明らかとなるであろうし、防御的色彩の濃い集落を生み出した古代蝦夷社会の性格にもせまることができるであろう。
著者
工藤 雅樹
出版者
プラスチック成形加工学会
雑誌
成形加工 (ISSN:09154027)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.47-52, 2006-01-20