著者
前川 要 千田 嘉博 高橋 浩二 村越 潔 酒井 英男 モリス マーティン 宇野 隆夫
出版者
富山大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

研究成果の慨要を下記の3つに分けて記す。(1)遺跡の年代われわれの唐川城跡における3年間の測量・発掘調査の最大の成果は、中世城館ではなく古代環壕集落であることを明らかにしたことである。いままで、中世城館として考えられ、環境集落の研究史では全く採り上げられなかった。それは、第1次調査における土塁の盛り土から出土した土師器碗破片と土塁の上から検出された鍛冶炉跡SX02の埋土基底部から出土した土師器甕口縁部より明らかとなった。遺跡の存続年代は、従来の土器編年観から10世紀半ばから11世紀初頭頃で、年代的には、50年から60年ほどの期間である。(2)規模・機能と集住唐川城跡については、従来略測図のみ公表されていたが、今回トラバース測量を実施して正確な測量図を作成した。その結果、面積が約8万2千m^2、浅い空堀状の遺構,2条の空堀跡と外土塁、竪穴住居跡あるいは鉄生産関連遺構と考えられる窪みを多数確認した。これらのことから、唐川城跡は,二条の空堀と浅い空堀状の遺構によって,北から3つの郭で構成され、そして中心の郭が最も大きく高いことが判明した。また城城内に竪穴住居跡,鍛冶関連遺構が41箇所存在することを確認した。また、小鍛治の関連と想定される小型の窪みは16箇所以上存在する。第2次発掘調査では、2軒の住居跡を検出したが、いずれも新旧2時期存在した。そのことから、41箇所の2倍程度、つまりすくなくとも百軒弱の集落であることが推定できる。井戸は、井戸は北側郭と南側郭に各1基確認した。どちらの井戸も上端幅約10m,深さ約2.5mを測る。第1次調査では、南側郭の井戸を半分断ち割りしたが、湧水層が確認できず溜井戸の可能性がある。また、井戸周辺に竪穴住居跡あるいは,鍛冶関連遺構と推察する円形の窪みを確認した。鉄生産の際の水を溜める遺構の可能性がある。(3)手工業生産今回の大きな成果の一つは、精錬炉が盛り土をした階段状遺構の頂上から2碁見つかったことである。付章の深澤・赤沼論文によると、鯵ヶ沢町杢沢遺跡と同様の竪型炉であり、関連性が考えられる。従来、環壕集落からは、小鍛冶炉を検出した例はあるが、精錬炉を検出したのは初めてである。北側井戸周辺では直径約2m前後の窪みが約7箇存在しており鉄滓が地表面採集できる。さらに南側井戸東側平坦面にも10基以上の窪みがあり、ここでも鉄滓が地面採集できる。これらのことは、少なくとも北郭と南廓では、精錬と小鍛冶を一連の工程で、土木工事を含めて、大規模かつ組織的に行っていたことを示している。また、内面漆塗りの土師器甕が出土したことは、漆容器として使用された可能性がうかがわれ、漆生産工房があったことを推測させる。
著者
工藤 雅樹 樋口 知志 熊田 亮介 辻 秀人 榎森 進 甘粕 健 村越 潔
出版者
福島大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1993

(1) この研究を推進するために岩手県岩手郡岩手町の横田館遺跡と西根町の子飼沢山遺跡、暮坪遺跡の発掘調査を実施した。その結果横田館遺跡は周囲に多重の土塁をめぐらすこと、発掘した2基の竪穴住居の構造や集落全体の構造から、常時居住した集落ではなく、13世紀以後の防御性の高い集落であろうとの結論を得た。子飼沢山遺跡は海抜500メートルを越える高地の尾根上に存在する。大型と小型の竪穴住居各1基を発掘調査し、土師器、多量の鉄器、炭化した穀物粒などが出土した。遺跡の年代は土師器の形態から10世紀後半ころと考えられる。暮坪遺跡は海抜430メートルの暮坪山の頂上一帯に広がる遺跡で、集落の主要部は堀と土手に囲まれている。住居跡二基を発掘した結果、集落は大形と小形の二つのタイプがあることが確認された。遺跡の年代は出土した土師器から考えて10世紀後半ころのものである。(2) 実地踏査の結果によれば、東北北部には学界に知られていない多くの平安時代高地性集落が存在する。それらは立地や構造などによりa,平地との比高差数十メートル以上の高地に立地し、特に濠や土塁などを持たないもの、b,丘陵の突端部に存在し、基部が濠で切断されているもの、c,周囲に濠や土塁をめぐらすもの、などに大別される。また年代ではそしてこのような特徴を有する集落は、低地に立地し、濠や土塁を有しない一般の集落とはことなる、きわめて防御的色彩の濃い集落であると考えられる。平安時代高地性集落の研究をさらに推進できることで、北海道のチャシとの関係も明らかとなるであろうし、防御的色彩の濃い集落を生み出した古代蝦夷社会の性格にもせまることができるであろう。