著者
廣田 浩治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.11-33, 2013-09

「政基公旅引付」は、戦国期に家領和泉国日根荘に在住した前関白九条政基の日記である。当該期の村落研究に頻繁に使用される史料であるが、ここでは公家日記としての「旅引付」の性格を考察した。「旅引付」は在荘直務時の自筆本の日記で、政基は在荘中に入手した文書(反故紙)の紙背を日記に再利用していない。政基は在荘した「旅所」を離れず、「旅引付」の記事の多くは伝聞情報であるが、政基の家僕や村の報告や情報に基づく正確な記事である。「旅引付」には「後聞」として後日知ったことを記した箇所があり、政基は「後聞」のことも含めて情報を整理して何日分かずつまとめて書いたと考えられる。政基は直務に関する事項を家僕に周知するため、「旅引付」を読み聞かせたこともある。「旅引付」は政基にとって実用的な日記で、常に引用・参照されるべき「旅所」の「引付」であった。「旅引付」には虚偽や改竄の記述があることが知られるが、これは政基が荘園経営の先例・「後例」とするにふさわしくない事柄の記述を避けたのである。しかし政基はこのような場合でも事実を記した文書を残し、「旅引付」に改竄の経緯や理由を書き残した。政基は後世に備えて作為や改竄の事実も含めて事件を克明に「旅引付」に記録した。「旅引付」には政基が手元に置いた文書が筆写され、直務支配の賦課台帳や証拠文書も引用されている。政基は日根荘の村や外部勢力(和泉守護・根来寺僧)と頻繁に文書を授受し、日根荘の脅威である守護・根来寺に対しては村を通して文書を授受した。そしてこの文書を保管するか「旅引付」に筆写した。「旅引付」は、政基の子息九条尚経の雑記集「後慈眼院殿雑筆」や九条家家僕の日記とも記事や内容が一致しており、政基は九条家を通じて京都政界の情報収集も怠らなかった。家領下向・在荘直務支配の日記であり、村落の世界を描いた「旅引付」は特異な公家日記であるが、公家の在荘が常態化した戦国期には「旅引付」のような日記は多数書かれていたと考えられる。
著者
廣田 浩治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.48, pp.11-33, 2013-09-30

「政基公旅引付」は、戦国期に家領和泉国日根荘に在住した前関白九条政基の日記である。当該期の村落研究に頻繁に使用される史料であるが、ここでは公家日記としての「旅引付」の性格を考察した。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-247, 2003-03-31

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-248, 2003-03

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。