著者
山下 清海 小木 裕文 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.1-26, 2012

中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑きょう郷きょう」とよんでいる。本研究では,浙江省の主要都市である温州市に隣接し,伝統的な僑郷であった青田県が,新華僑の送出により,僑郷としての特色がいかに変容してきたかについて,現地調査に基づいて考察することを目的とした。 山間に位置し貧困であった青田県では,清朝末期には,特産品である青田石の加工品を販売するため,陸路でシベリアを経てヨーロッパに出稼ぎする者も少なくなかった。光緒年間(1875 ~ 1908 年)には,ヨーロッパよりも日本へ出稼ぎに出る者が増加した。しかし,関東大震災の発生後,日本への出稼ぎの流れは途絶え,青田人の主要な出国先はヨーロッパになっていった。 中国の改革開放政策の進展に伴い,海外渡航者が急増し,青田県では出国ブームが起こった。その主要な渡航先はスペイン,イタリアを中心とするヨーロッパであった。海外在住者からの送金・寄付・投資などにより,僑郷である青田県の経済は発展した。ヨーロッパ在住者やヨーロッパからの帰国者の影響は,僑郷の景観や住民のライフスタイルにも現れている。
著者
山下 清海 張 貴民 杜 国慶 小木 裕文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.33, 2011

1.はじめに<BR> 中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑郷」(華僑の故郷という意味)とよんでいる。報告者らは,すでに在日華人の代表的な僑郷の一つである福建省北部の福清市で調査研究を行った(山下ほか 2010)。<BR> 今回の一連の発表(1)~(3)では,現地調査に基づいて,僑郷としての青田県の変容とその背景について考察する。現地調査は,2009年12月および2010年8月において,青田県華僑弁公室,青田県帰国華僑聯合会,青田華僑歴史陳列館,郷・鎮の華人関係団体などを訪問し,聞き取り調査,土地利用調査,資料収集などを実施した。<BR> 本発表(1)では,とくに在日華人の伝統的な僑郷としての青田県の地域的特色について考察するとともに,今日に至るまでの僑郷としての変容をグローバルな視点から概観する。<BR> 研究対象地域の青田県は,浙江省南部の主要都市,温州市の西に隣接する県の一つで,1963年に温州市から麗水市に管轄が変わったが,歴史的にも経済的にも隣接する温州市の影響を強く受け,温州都市圏に属しているといえる。青田県の中心部である鶴城鎮は温州市の中心部から約50km離れており,高速道路を使えば車で1時間あまりである。青田県は,面積2484km2,人口49.9万(2009年末)で,そのうち83.4%は農業人口という農村地域である(青田県人民政府公式HP)。<BR> 本研究の研究対象地域として青田県を選定した理由としては,青田県が在日華人の伝統的な僑郷であったこと,中国の改革開放後,青田県から海外(とくにヨーロッパ)へ移り住む「新華僑」が急増していること,海外在住の青田県出身華人との結びつきにより,青田県の都市部・農村部が大きく変容していることがあげられる。<BR><BR>2.青田県からヨーロッパ,日本への出国<BR> 青田県出身者の出国は,青田県特産の青田石の彫刻を,海外で売り歩くことから始まった。清朝末期には,すでに陸路シベリアを経由して,ロシア,イタリア,ドイツなどに渡った青田県出身者が,青田石を販売していた。第1次世界大戦中の1917年,イギリスやフランスは不足する軍事労働力を補うために中国人(参戦華工という)を中国で募集し,多くの青田県出身者もこれに応じ,終戦後,多数が現地に残留した。ヨーロッパの伝統的な華人社会においては,浙江省出身者が多いが,その中でも青田県出身の割合は大きく,改革開放後の青田県出身の「新華僑」の増加の基礎は,同県出身の「老華僑」が築いたものといえる。<BR> 一方,日本への渡航をみると,光緒年間(1875~1908)には,出国者はヨーロッパより日本に多く渡っている。初期には日本でも青田石を販売していたが,しだいに工場などで単純労働に従事するようになった。日本の青田県出身者は東京に多く,関東大震災(1923年)および直後の混乱時の日本人による虐殺により,青田県出身者170人が犠牲となった。<BR> ちなみに福岡ソフトバンクホークス球団会長の王貞治の父,王仕福は,1901年,青田県仁庄鎮で生まれ,1921年に来日した。1923年,関東大震災に遭遇し,一旦帰国したが,1924年に再来日した。<BR><BR>3.改革開放後の新華僑の動向と僑郷の変容<BR> 今日の青田県は,都市部においても農村部においても,僑郷としての特色が,人びとの生活様式にも景観にも明瞭に反映されている。<BR> 青田県の中心部,鶴城鎮には外国語学校のポスターが各所に貼られている。ポスターに書かれている学校で教えられている外国語は,イタリア語,スペイン語,ドイツ語,英語,ポルトガル語であり,この順番は出国先の人気や出国者の多さを示している。また,最近ではワインを飲んだり,西洋料理を食する習慣が浸透し,ワイン専門店や西洋料理店・カフェなどの開業が続いており,ヨーロッパ在住者が多い僑郷としての特色が強まっている。<BR> 農村部においても,イタリアやスペインから帰国した者や,出国の準備をしている者が多く,帰国者や在外華人の留守家族などによる住宅の建設が各地で見られる。<BR><BR>〔文献〕<BR> 山下清海 2010. 『池袋チャイナタウン-都内最大の新華僑街の実像に迫る-』洋泉社.<BR>山下清海・小木裕文・松村公明・張貴民・杜国慶 2010. 福建省福清出身の在日新華僑とその僑郷.地理空間 3(1):1-23.<BR>
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23[含 英語文要旨], 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。 1980年代後半~1990年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。 1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。 在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。Based on field research in Fuqing City (Fujian Province, China), this paper is aimed to investigate the living situation of Chinese newcomers in Japan, as well as the regional characteristics of this representative emigrant area for both Chinese oldcomers and newcomers, and how the newcomers affected their hometown. During the period from late 1980 s to early 1990 s, most of newcomers from Fuqing City came to Japan in groups with easily acquired "Pre-college Student Visa". Learning in Japanese schools, such newcomers kept doing part time jobs to earn their living wages, tuition and the cost to Japan, and gradually their life goals changed to part time jobs from study. Numerous newcomers chose to stay and work illegally for a few years when their visas are no longer valid, and present themselves to the Immigration Bureau, admit their illegal stay and go back to China at last.With the enforcement of strict examination on visa applications from Fujian Province in late 1990s, visa of student or pre-college student became quite difficult to acquire, and newcomers from Fuqing City changed their emigrant destination from Japan to other areas such as Europe, America and Oceania, etc.Under the influence of Chinese newcomers in Japan to their hometowns, their houses were built or reformed, their families moved from suburban to urban areas, agriculture declined and labor moved in from other areas because of local labor lost. Furthermore, newcomers diverted their saving acquired in Japan for their or their children' abroad education in Europe and America as well as Japan, and as a result, stimulated the reproduction of Chinese newcomers.
著者
山下 清海 小木 裕文 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.95-120, 2013 (Released:2018-04-05)

ハルビン市方正県は,第二次世界大戦の終戦末期,満蒙開拓団の日本人が多数亡くなったところである。と同時に,終戦後,残留孤児・残留婦人として多くの日本人が現地に残されたところでもある。1972 年の日中国交正常化後は,方正県の中国残留邦人が,家族とともに日本へ帰国し,また同郷人を日本へ呼び寄せ,方正県は数少ない「中国北方の僑郷」とよばれるようになった。本研究では,方正県における現地調査にもとづいて,方正県がいかにして在日新華僑の僑郷に発展していったのかを明らかにすることを目的とした。日中国交正常化以後,日本人による水稲作の技術指導により,方正県の水稲栽培は飛躍的に発達し,良質の方正県産米はブランド米となっている。中国残留邦人の日本への帰国に伴い,血縁・地縁関係を利用して数多くの方正県人が親族訪問,出稼ぎ,国際結婚,留学などの形で日本へ行き,日本に定住または長期滞在するようになった。日本在留の方正県出身者の人口増加に伴い,方正県在住の親族への送金などによって,日本からの資金が方正県へ流入するようになった。地元政府も,僑郷の特色を活かした発展計画を進め,方正県の中心市街地も,日本との密接な関係を示す店舗や施設が多い。
著者
山下 清海 小木 裕文 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.1-26, 2012

中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑郷」とよんでいる。本研究では,浙江省の主要都市である温州市に隣接し,伝統的な僑郷であった青田県が,新華僑の送出により,僑郷としての特色がいかに変容してきたかについて,現地調査に基づいて考察することを目的とした。山間に位置し貧困であった青田県では,清朝末期には,特産品である青田石の加工品を販売するため,陸路でシベリアを経てヨーロッパに出稼ぎする者も少なくなかった。光緒年間(1875 ~ 1908 年)には,ヨーロッパよりも日本へ出稼ぎに出る者が増加した。しかし,関東大震災の発生後,日本への出稼ぎの流れは途絶え,青田人の主要な出国先は,ヨーロッパになっていった。中国の改革開放政策の進展に伴い,海外渡航者が急増し,青田県では出国ブームが起こった。その主要な渡航先はスペイン,イタリアを中心とするヨーロッパであった。海外在住者からの送金・寄付・投資などにより,僑郷である青田県の経済は発展した。ヨーロッパ在住者やヨーロッパからの帰国者の影響は,僑郷の景観や住民のライフスタイルにも現れている。
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23, 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。1980 年代後半~ 1990 年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。
著者
池 俊介 杜 国慶 白坂 蕃 張 貴民
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, pp.208-222, 2013 (Released:2013-11-01)
参考文献数
15

中国の雲南省では,1990年代後半から農村地域における観光地化が著しく進んだ.しかし,外部資本により観光施設が建設され,観光地化が地域住民の所得向上や地域社会の発展に寄与していない事例も存在するため,地域住民による内発的で自律的な観光施設の運営を実現し,観光収入が農民の所得水準の向上に着実に結びつくような経営を行ってゆくことが大きな課題となっている.本稿では,納西族の農民により観光乗馬施設の自律的な共同経営が行われている雲南省北西部の拉市海周辺地域を対象として,その形成プロセスと共同経営の実態について調査した.その結果,平等な収益分配,投票によるリーダーの選出など,きわめて民主的な観光乗馬施設の運営が行われ,地元住民の所得向上にも貢献していることが明らかとなった.
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23, 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。 1980年代後半~1990年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。 1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。 在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。