著者
マリアディナタ ジュハナスピリアディ 白坂 蕃
出版者
日本地理教育学会
雑誌
新地理 (ISSN:05598362)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.26-38, 1984-06-25 (Released:2010-04-30)
参考文献数
5

After the independence day August 17, 1945, education system of Indonesia was not established because of the confusion in economic and political problems. However, step by step the Government made the policy for developing national education.The first curriculum was not developed in 1956 and then renewed in the year of 1963 and 1968. Recently we have the new one, developed in 1975.By the way, we had the education system since the Hindu culture entered Indonesian society, and the Hindu religion penetrated, so the education activities were usually held at the Hindu temples, which we called Pade pokan (about 700 BC).After the Islamic religion came on, we had Pesantren system for the Muslim who want to study deeply about Islamic religion, and the center of the education activities were in the mosks. This Pesantren was opened after about the 15th century.During the Dutch colonial days, the national education was not developed, but Pesantren education system were continued.Since the year of 1908, the Dutch colonial government opened schools for both their children and the common people. Therefore the people who entered schools were not many. After 1928, schools belonged to the educated-class and it was more necessary to develop and spread education among all the common people in the Indonesian archipelago.Today, we have two school systems for the same purpose, but they different in responsibility and management administration. One is organization of school system under responsibility of the Ministry of Education and Culture, and other under responsibility of the Ministry of Religion Affairs.Generally speaking, the education of Social Studies field in Indonesia has been using this system since the 1975 Curriculum was established. However, before using this system, for example in the 1963 Curriculum, we used many different kinds of courses for learned Social Studies. For example; History, Economy, Cooperation system, Geography, Sociology, etc, were established as one field to study.Since the 1975 Curriculum, the system has been changed as following:1. For the Elementary Schools and Lower Secondary Schools, we teach Social Studies above mentioned.2. For the Upper Secondary Schools and up we use continuing system like the 1968 Curriculum.And basic purpose of national education is PANCASILA which is the 1945 Constitution as the declaration of the independence of Republic of Indonesia.
著者
白坂 蕃
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.191-211, 1988-12-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14
被引用文献数
2 2

東南アジアの熱帯や亜熱帯に属する地域には,一般にhill stationと呼ぼれる山地集落がある。これらは, 19世紀に植民地活動をしたイギリス人やオランダ人が熱帯の暑い気候環境から逃れるために開発した集落であり,元来,地元の人々が開発したものではない。日本でも6-9月は暑さの厳しい気候であるが,かってのイギリス領マラヤやオランダ領東インドなどでは,1年を通してそのような気候の下にある。 マレーシアでは,このような植民地起源のhill stationとしてカメロンハイランド (the Cameron Highlands) が最も良く知られている。カメロンハイランドは,マレーシア半島中部の中央山地にあり,標高は1,000~1,500mに広がる高原である。今日では, summer resortであると同時に,その冷涼な気候を利用して,一大温帯蔬菜生産地域となっている。筆者はカメロンハイランドにおける農業的土地利用や温帯蔬菜栽培の特色を分析し,熱帯アジアにおけるhill stationのもつ今日的意義を考える。 カメロンハイランドは, 1885年William CAMERONによって発見されたが, hill resortとしての開発は1926年以降のことである。カメロンハイランドではhill resortとしての開発と同時に,華人による温帯蔬菜の栽培が始まった。また第二次大戦後の疏菜栽培発展に伴い,新しい集落が形成されている。 カメロンハイランドにおける人口 (24,068人, 1894年)の約50パーセントは華人(中国系マレーシア人)で,彼らが蔬菜栽培の中心となっている。カメロンハイランドにおける温帯蔬菜の栽培は,標高1,000m以上の地域にみられる。この地域では,こんにち,約25種にのぼる温帯蔬菜が栽培されているが,白菜,キャベツ,そしてトマトが三大蔬菜となっている。これら蔬菜の種子は,その殆どが日本から供給されている。 蔬菜栽培農家における労働力は,殆どが家族のみである。また蔬菜栽培には大量の鶏糞が使用されており,耕作はきわめて労働集約的である。また,ほうれんそう,ピーマン,セルリなどの蔬菜には,雨除け栽培がおこなわれている。どのような蔬菜を栽培するかは,市場価格を念頭において,個々の農家が選択するために,明確な輪作体系は存在しない。 こんにち,カメロンハイランドで生産される蔬菜は,マレーシア半島の主要都市に大型のトラックで輸送されているが,総生産量の25~30パーセントは,シンガポールに輸出されている。
著者
白坂 蕃
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.68-86, 1984-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
53
被引用文献数
2 2

わが国の山地集落では,1950年代後半から著しい人口減少がみられた.一方,経済の高度成長によって,山地に対するレクリエーション需要が増大してきた.そしてレクリエーション活動の地域的展開に伴い,既存集落の変貌や新しい観光集落の形成がみられた.特にスキー場の開発による集落の変貌と,新しい集落の形成はその典型である. 筆者は,スキー場がその集落の形成・発展において重要な役割を演じ,スキー場と集落がひとつの複合体として機能する場合を,「スキー集落」と規定した.そして,スキー場の地域的分布の条件を考えるために,日本におけるスキー場の開発過程とスキー・場の地理的分布を明らかにした.さらにスキー集落をその起源により類型化し,スキー集落形成の諸条件を明らかにした. わが国のスキー場の地理的分布をみると,年最深積雪量50cm以上の地域で,しかも滑走可能期間が110日以上の地域に著しい集中がみられる.これらの自然条件に加えて,スキーヤーの発源地が基本的には大都市であるために,スキー場の立地には交通条件が大きく関与している.また,一般に日本のスキー集落の形成にあたっては,温泉の存在がその発展に大きな条件になっている.さらにスキー場の開発には広大な土地が必要であるため,スキー集落の形成においては,スキー場適地の土地所有形態が重要な要因で,これには共有地の存在が有利な条件となる. わが国におけるスキー集落は多種多様であるが,筆者は,それぞれの集落の起源や変貌の過程によって日本のスキー集落は基本的に二つに類型化できることを明らかにした.すなわち,第1は,既存の集落がスキー場の開発によって,従来の集落を著しく変貌させた「既存集落移行型スキー集落」である.第2は,スキー場が開発され,地元民の移住などにより,従来の非居住空間に新しい集落が形成された「新集落発生型スキー集落」である.
著者
市川 健夫 白坂 蕃
出版者
日本地理教育学会
雑誌
新地理 (ISSN:05598362)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.1-28, 1978-06-25 (Released:2010-02-26)
参考文献数
43
被引用文献数
2

The writers analysed the industry, economy, land use, settlement and tourism in the area from the view point of the development process and the socioeconomic aspects in this paper. The results are as follows:I. The Norikura Plateau is located at the upper limit, in terms of altitude, for agriculture in Japan. The people can not keep up their living standards by only agriculture on this plateau, because the productivity of the land is very low. Therefore, prior to 1970, the people had to manage not only with the subsistance cultivation of cereals, but also with sericulture, charcoalmaking, dairy cattle breeding, the gathering of mountain products and hunting.After 1970, the tourist industry have provided the most jobs, but the people still manage with composite jobs.II. The settlements are divided into two types, i.e., permanent and seasonal (temporary settlement for cultivation), in the Norikura Plateau. Among those temporary settlements for cultivation, Bandoko (1, 300m above sea-level) has already become a permanent settlement in the 1890's. Now Bandoko is the core settlement in the Norikura Plateau. Kanayamadaira (1, 500m) was a temporary settlement for cultivation until the first half of the 1940's.Kanayamadaira has been changed into a permanent settlement by the development of the tourist industry, as a skiing ground in winter as well as a summer resort.Shirahone Spa has developed into a permanent settlement after World War II. The other temporary settlements for cultivation has since disappeared.III. The process of the settlement and socio-economic development in the Norikura Plateau are shown in the table in the next page.(i) Since 1927, the Norikura Plateau has been used as the mountain's skiing ground in winter. The skiers came mostly from Tokyo. (ii) After World War II, the Norikura Plateau has developed also as a summer resort and as a skiing ground for the local people principally. (iii) During the first half of the 1960's, many village houses became “Minshuku” (“Minshuku” are cheap lodging houses in tourist resorts, and most of them are usually operated by farmers and fisherfolk for additional income.). In the Norikura Plateau, there were 33 hotels and 66 Minshukus in 1975.However, the Norikura skiing ground is a local one, because the skiing ground is relatively small, and the traffic condition is no good. The poor traffic condition has, in the main, restricted the development of the tourist resort in the Norikura Plateau.
著者
白坂 蕃 漆原 和子 渡辺 悌二 グレゴリスク イネス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.180, 2010

<B>I 目的</B><BR> 世界のかなりの地域では、厳しい気候条件の結果として、家畜飼養はたったひとつの合理的土地利用としてあらわれる。それにはさまざまな形態があり、定住して営む牧畜のひとつの形態が移牧transhumanceであると筆者は定義する。<BR> 本稿では、ルーマニアのカルパチア山脈におけるヒツジの二重移牧の変容を通して、山地と人間との共生関係の崩壊を考えたい。_II_ジーナの人びととヒツジの二重移牧 ジーナJina(標高950m)はカルパチア山脈中にあり、年間降水量は約500-680mmである。ジーナ(330平方_km_)の土地利用は、その25%が放牧地、15%が牧草地(採草地)で、耕地は1%にも満たない。牧草は一般には年二回刈り取れる。第二次世界大戦後の社会主義国であった時代にもルーマニアでは、山地の牧畜地帯は、これ以上の生産性向上を期待できない地域であるとして土地の個人所有が認められていた。ジーナの牧羊者(ガズダgazdā)は定住しており、多くの場合、羊飼い(チョバンciobăn)を雇用して移牧をする。<BR> ジーナはヒツジの母村であるが、ヒツジがジーナの周辺にいる期間は短い。毎年4月初旬から中旬にかけて、低地の冬営地からヒツジはジーナにもどってくるが、約2週間滞在して、さらに標高の高いupper pasture(ホタル・デ・ススHotarul de Sus)に移動し、5月中旬から6月中旬の間そこにいる。ホタル・デ・ススは約10,000haあり、ここに150-200ほどの小屋(sălaş)がある。<BR> 6月中旬にヒツジは高位の準平原までのぼり9月10日くらいまではここにいる。ここは森林限界を超えた放牧地 Alpine pasture(面積5,298ha)である。移牧はセルボタ山Vf. Şerbota (2,130m)の山頂直下の2,100mに達し、ここが夏営地の上限である。<BR> 遅くとも9月中旬には、ヒツジは高地の放牧地からホタル・デ・ススに下り1-2週間滞在し、10月初旬にはジーナに降りるが1-2週間しか滞在せず、10月中旬には冬営地であるバナート平原、ドブロジャ平原やドナウ・デルタにまで移動する。バナート平原までは約15日、ドブロジャやドナウ・デルタまでは20-25日かかる。<BR><BR><B>III 1989年以前の移牧とその後の変容</B><BR> 社会主義時代には約150万頭(1990年)のヒツジが飼育され、state farmsとcooperative farmsがその1/2以上を飼育していたが、ヒツジの場合、個人経営individualも多かった。1989年の革命後、state farmsとcooperative farmsで飼育されていたヒツジは個人に分けられたが、多くの個人はその飼育を放棄した。したがって、1998年の革命以降ヒツジの飼養数は半減した。また平野部の農用地は個人所有にもどったため、作物の収穫後であっても農耕地のなかをヒツジが自由に通過することは困難になり、さらに道路を通行する自動車などをヒツジが妨げてはならないというRomanian regulationもできた。そのために1,000頭程度の大規模牧羊者gazdāは、バナート平原などの平地でヒツジを年間飼養せざるをえなくなった。しかし彼らはラムのみに限っては夏季に平野部からジーナまでトラックで運搬する。そしてHotarul de SusやP&acirc;şunatul Alpinまでは徒歩で移動し、帰りもまたジーナからはトラックで輸送する。したがって、P&acirc;şunatul Alpinにおける夏季のヒツジの放牧数は1988年の革命以前に比べて極端に減少した。<BR><BR><B>IV EU加盟とヒツジの移牧</B><BR> 今日ではルーマニアの農牧業もEU regulations(指令)のもとにあり、ヒツジの徒歩移動は最大でも50_km_である。さらに条件不利地域への補助金もある。このように、1989年の革命後、それぞれの家族は彼らの持つ諸条件を考慮して牧畜を営むようになった。その結果、こんにち、ジーナにおける牧畜は次のような三つのタイプに分けられる。<BR>1)ジーナに居住し、通年ジーナでヒツジを飼育する世帯(Type 1)<BR>2)ヒツジの飼育もするが、ジーナとHotarul de Susの間で乳牛の 正移牧を主たる生業とする世帯(Type 2)<BR>3)平野部に本拠を移し、ヒツジの飼育を生業として維持する世帯(Type 3)<BR><BR><B>V まとめ</B><BR> 1989年の革命以前には、カルパチア山脈における二重移牧は見事なばかりにエコロジカルな均衡を具現していたが、社会主義体制の崩壊によって、変貌を余儀なくされた。しかしながら、現在のところその形態を変化させつつも、生業としての移牧は継続している。しかしながら、ルーマニアのヒツジの移牧は、「平野」の農村における農業生産力の発展、都市経済の変貌にともなって衰退すべきものであるとみるのが妥当なのかもしれない。
著者
漆原 和子 白坂 蕃 渡辺 悌二 ダン バルテアヌ ミハイ ミック 石黒 敬介 高瀬 伸悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.179, 2010

<B>I 研究目的</B><BR> ルーマニアは1989年12月社会主義体制から自由経済への移行を果たした。そして2007年1月にはEUに加盟した。こうした社会体制の変革に伴って、とりわけEU加盟後に伝統的なヒツジの移牧がどのように変容しているのかを明らかにし、ヒツジの移牧の変貌に応じて地生態系がどのように変容しているのかを把握することを目的にした。<BR><BR><B>II 調査地域と方法</B><BR> 調査地域は、南カルパチア山脈中部の、チンドレル山地山頂部から北斜面を利用して移牧を行なっている地域である。調査地では、社会主義体制下でも個人所有が許され、伝統的な二重移牧が維持されてきた。この地域は、プレカンブリア時代の結晶片岩からなり、土壌の発達が極めて悪く、農耕地には不適な地域である(図1)。3段の準平原を利用した二重移牧が行なわれてきたところである。土地荒廃地は、毎年地形の計測を繰り返した。山頂部では、草地への灌木林の進入をコドラート法により調査した。礫の移動は方形区をかけ、計測した。<BR><BR><B>III 調査結果</B><BR>1)3番目の準平原上の移牧の基地に相当するJina村(約950m)では、EU加盟後も春と秋にヒツジの市を開く。EU加盟後、大規模なヒツジ農家の多くは、冬の営地であったバナート平原に定住するようになった。冬の営地であるバナート平原へのヒツジの移動は貨車とトラックを用いる。<BR>2)Jina村付近の土地荒廃は、2003年、2004年ごろがピークであった。2007年から2009年の間は侵食地の物質の移動はほとんどなく、裸地に草本が回復し始めている。これはEU加盟後のヒツジによるストレスが軽減していることを示している。<BR>3)社会主義体制下では、最上部の準平原面上をヒツジ・牛・馬も夏の営地として利用していた。しかし、EU加盟後、最上部までの移動はラムに限られ、数は激減し8000頭に満たない。20年前からPinus mugoとPicea abiesが成育を始めた地域が拡大している。これはヒツジのストレスの減少が起こった為と考える。さらに、これらの樹木はいずれも17~18年前に著しく枝分かれしていることから、ヒツジの頭数の減少は17~18年前に急激であったか、気象の異変があったと考えられる。
著者
漆原 和子 白坂 蕃 バルテアヌ ダン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

ルーマニアにおけるヒツジの移牧が社会体制の変革とともにどのように変化したかについて研究結果を述べる。とりわけ2007年EU加盟後の移牧が変質してきた。夏の宿営地(2100mの準平原面)へのヒツジの移牧頭数は激減し、冬の宿営地(バナート平原)へは移動手段を貨車、トラックに頼るようになった。また、バナート平原に定住化したヒツジの移牧の頭数が増え、大型化している。1000mの準平原面の上の基地では土地荒廃は改善されつつある。またドナウデルタではヒツジは定住化し、移牧は全くおこなわれなくなった。
著者
許衛 東 白坂 蕃 市川 健夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.104-115, 1989-12-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
6
被引用文献数
1 1

雲南省,西双版納倦族自治州は,中華人民共和国の南西端に位置し,南はラオス,ビルマと国境を接している。西双版納は植物資源の宝庫といわれ,中国だけではなく,ひろく外国の研究者にも興味深い地域である。 西双版納は東南アジアのマレーシアやイソドネシアのような,典型的な熱帯多雨林地域と比べると,熱帯の限界的性格が強く,それ故に複雑な自然条件に対応した様々な農業や集落がみられる。 西双版納倦族自治州には,傑族をはじめ,基諾族など10を越す少数民族が独特の生活様式を持って生活している。本稿では,筆者の実地調査をもとに,西双版納における集落立地を含めた農業的土地利用と近年の変化を,民族別に考察した。 1980年代に入るとともに,西双版納では農業において生産責任制が採り入れられたこともあり,かつてない急速な農業変革が進められている。その中心は,西双版納の自然環境に基づいたゴム,茶そして熱帯果樹を中心とした換金性の高い近代的集約農業の拡大である。中でもゴム栽培は,多かれ少なかれ,ほとんどの民族に取り入れられ,その高距限界は海抜1,360メートルにもおよんでいる。この,いわゆる“近代化”農業への移行過程で,盆地においては水田耕作の比重が増し,山地においては焼き畑の比重が低下し,仏教文化を持たない少数民族ほど,伝統的農法や固有の農耕文化要素が衰退し,漢民族化・漢文化化が速いテンポで進んでいる。
著者
石井 英也 白坂 蕃
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.141-149, 1988-05-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
51
被引用文献数
7 6

この報告の目的は,これまでの研究成果を踏まえ,とくに最近10年間ほどの業績に注目しながら,わが国における観光・レクリェーション地理学の特徴と課題を検討することにある。ここではまず,わが国における観光・レクリェーション活動の発達とその特徴を簡単に概観した後,それらに関する地理学的研究を空間構造論的研究,景観形成論的研究,その他(景観評価や観光資源の認知などに関する研究)に分類して,検討した. その結果,空間構造論的研究の範疇では,都市を中心とした観光空間の形成に関する研究のほか,観光地の専門分化に基づく複合観光地域形成論など,注目される主張がなされたりして,少しつつ研究成果が蓄積されてきた。しかし,観光空間を把握するには,とくにわが国では重要な,都市内やその周辺地域の観光・レクリェーションに関する研究の進展が不可欠である。また,景観形成論的研究は,空間構造論的研究に比べると研究蓄積がはるかに豊富である。しかし,それらの多くは温泉集落と民宿集落に研究対象が限られており,その観点も経済地理学的考え方への傾斜が目立ち,社会地理や文化地理学的観点,あるいは環境問題の視点がもっと導入されるべきである。その他,景観評価や観光資源の認知に関しても研究の萌芽がみられるが,全体として見ると,わが国の観光・レクリェーション地理学研究の現状は,計量化や環境認知など,地理学で近年よく用いられている研究手法の導入が遅れている。また,欧米諸国に比べると,わが国における観光・レクリェーション地理学的研究は,地域計画などを志向した応用地理学的研究も少ない。現在の社会や経済の趨勢を考えると,わが国では観光・レクリェーション現象がますます重要になり,それに応じて地理学者の任務も重くなることが明らかである。
著者
渡邉 悌二 白坂 蕃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

目的 キルギス南部のアライ谷では,家畜(ヒツジ,ヤギ)の放牧が最大の産業である。アライ谷の牧畜は,谷の中の住人が行う水平移牧,谷の外部の住人が行う垂直移牧,および数~20軒ほどの谷の中の世帯が共同で飼育する共同型の日々放牧(ゲズー)からなっている (Shirasaka et al. 2013)。これらの放牧形態のうち,この研究ではゲズーの詳細を明らかにする調査を行った。 <b> </b> ● 結果【アライ谷全域の調査】調査を行った15村のうち,東側(高所)に位置する6村(サリタシ,キチ・アルチャブラック,アルチャブラック,タルディス,サリモゴル,カラカバク)でゲズー(kez&uuml;&uuml;)が行われていたが,西側(低所)に位置する9村(カシカス,ジャイルマ,アチクス,カビク,キジルエシュメ,ダロートコルゴン,チャク,ジャシティレク,ジャルバシ)は同様の形態の放牧がゲズーでなくノバド(novad)という名称で行われていた。アライ谷東部は主要道路で北方のオシに結ばれており,アライ谷からオシの間の村や町でもゲズーが行われているが,南方のカラクル(タジキスタン)ではノバドが行われている。 【アライ谷東部,サリタシ,タルディスの調査】サリタシとタルディスでは (1) 3季・村ベース型,(2) 2季・村ベース型,(3) 3季・ジャイロベース型の3タイプのゲズーが認められた。2011年時点で,サリタシでは,村人が所有するヒツジ・ヤギのうち1,981頭(63家族)が3季・村ベース型ゲズーを行っており,2013年時点で388頭(15家族)が2季・村ベース型ゲズーを行っていた。タルディスには,タルディス,アルチャブラック,キチ・アルチャブラックの3つの集落がある。タルディスでは3タイプすべてのゲズーが存在しており,アルチャブラックとキチ・アルチャブラックには3季・村ベース型および2季・村ベース型ゲズーが存在している。 GPS首輪(合計66頭)を用いた放牧範囲の調査結果からは,一日の水平移動距離が6.8 km~17.3 kmの範囲内にあり,村から半径1.3~5.4 km内で放牧が行われていることがわかった。 村人がゲズー・ノバドに参加する基本的な理由は,家族内の限られた労働力を最小限にするためである。サリタシの場合,ゲズーに参加している63家族のうち,1家族のみが牧畜のみで生計を立てているが,それ以外は教師やトラック運転手,道路作業員,国境警備員など他に職業を有しており,家族の中で家畜の世話をできるのは子どもらに制限される。 【アライ谷全域のゲズー・ノバドの多様性】詳しい調査を行ったサリタシとタルディスでは3タイプのゲズーが認められたが,アライ谷を西に進むとゲズー・ノバドのタイプは少なくとも5つに増える(上記の3タイプに,1季・村ベース型および3季・村/ジャイロベース型が加わる)。ゲズー・ノバドはアライ谷の家畜放牧の形態に多様性を与えることに繋がっている。また,ゲズー・ノバドの存在は,将来の開発が期待されるエコツーリズム資源としても重要である。しかし,多くの家畜が村から半径わずか1.3~5.4 km内の放牧地を使用していることから,将来的には村周辺の放牧地の荒廃が懸念される。
著者
稲垣 勉 大橋 健一 白坂 蕃
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究の目的は、宗主国によって植民地に建設された避暑地・ヒルステーションの現状を、領域横断的なアプローチで明らかにすることである。ヒルステーションはレジャーを通じた国際間の文化接触の先駆けであり、現在でも観光地として機能し続けている。リゾートの祖型のひとつであるヒルステーションの現状分析を通じて、新興国民国家における国内観光の社会的役割を明確化し、さらにグローバル化の下における、気候条件やより良い生活環境を求める「人の移動」を分析することで、ヒルステーションの現代的な意義を明らかにした。
著者
池 俊介 杜 国慶 白坂 蕃 張 貴民
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, pp.208-222, 2013 (Released:2013-11-01)
参考文献数
15

中国の雲南省では,1990年代後半から農村地域における観光地化が著しく進んだ.しかし,外部資本により観光施設が建設され,観光地化が地域住民の所得向上や地域社会の発展に寄与していない事例も存在するため,地域住民による内発的で自律的な観光施設の運営を実現し,観光収入が農民の所得水準の向上に着実に結びつくような経営を行ってゆくことが大きな課題となっている.本稿では,納西族の農民により観光乗馬施設の自律的な共同経営が行われている雲南省北西部の拉市海周辺地域を対象として,その形成プロセスと共同経営の実態について調査した.その結果,平等な収益分配,投票によるリーダーの選出など,きわめて民主的な観光乗馬施設の運営が行われ,地元住民の所得向上にも貢献していることが明らかとなった.