著者
山下 清海 尹 秀一 松村 公明 杜 国慶
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.503, 2008

1.問題の所在<BR> 1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い,中国では,海外への留学や出稼ぎなどの出国ブームが起こり,これは現在でも継続している。今日,世界の華人社会は,ダイナミックに膨張と拡散を続けており,従来の伝統的な「華僑像」ではとらえきれない新しい局面を迎えている。日本においても,1980年に52,896人であった在留中国人(中国籍保有者)は,2007年には606,889人となり,韓国・朝鮮人(593,489人)を抜いて,国籍別で初めて第1位となった。<BR> 本報告は,中国の改革開放政策実施後,日本において急増した華人ニューカマー(いわゆる「新華僑」)の日本への送出プロセスの解明を目的に進めている研究プロジェクトの中間報告である。今回の発表では,中国東北地方,特に吉林省延辺朝鮮族自治州での現地調査の成果を中心に発表する。現地調査は,遼寧省の瀋陽・大連,黒龍江省のハルビン,吉林省の長春・延辺朝鮮族自治州(州都は延吉)で,2006~2008年の毎年夏に実施し,特に延辺朝鮮族自治州での調査に重点を置いた。各調査地では,日本語学校,大学の日本語教育機関,海外留学・労務斡旋会社,日本渡航経験者,日本在留者の留守家族,日系企業などを対象に聞き取り調査,資料収集を行った。また,並行して,日本国内の華人ニューカマーからの聞き取り調査も実施した。<BR><BR>2.日本における東北出身者の増加<BR> 在留外国人統計に基づいて,日本在留中国人人口の推移をみると,華人ニューカマーが増加したのは,1978年末の中国の改革開放政策実施後,とりわけ1980年代後半以降である。在日中国人人口が増加する過程で,非常に興味深い特色は,出身地(本籍地)の変化である。<BR> 日本政府は1983年に「留学生10万人計画」を打ち出し,就学生の入国手続きを簡素化した。一方,中国政府は1986年,公民出境管理法を施行し,私的理由による出国も認めるようになった。このような日中両国の規制緩和により,中国から就学ビザや留学ビザで来日する者が急増した。<BR> 当時の中国人就学・留学生の多くは,上海市と福建省の出身であった。しかし,2007年には在日中国人(606,889人)のうち,_丸1_遼寧省16.1%,_丸2_黒龍江省10.3%,_丸3_上海市9.5%,_丸4_吉林省8.5%の順となり,遼寧・黒龍江・吉林の東北3省(東北地方)を合計すると全体の34.9%(211,951人)を占めるまでになった。<BR><BR>3.東北地方出身ニューカマーの中国における送出プロセス<BR> 2000年の中国の人口センサスによれば,中国の55の少数民族のうち,朝鮮族は人口順で13位(1,923,842人)であり,その大多数は東北地方に居住している。朝鮮語は文法や発音などで日本語と類似しており,朝鮮族にとって日本語は,外国語の中で最も学び易く,大学入学の外国語科目の試験では得点が取り易い外国語であった。1980年代後半から,就学ビザを取得して日本へ渡航できるようになると,東北地方では,特に日本語能力の高い朝鮮族の間で,日本への留学ブームが起こった。朝鮮族にとっては,最も身近な外国は韓国であるが,韓国より多くの収入が得られ,子どもの時から学校では,英語でなく日本語を外国語として学んできた朝鮮族にとって,日本は渡航希望先として第1の国であった。先に日本へ行った親類や友人を頼り,チェーン・マイグレーションにより日本へ渡航する朝鮮族が増加していった。東京の池袋駅や新大久保駅周辺には,朝鮮族が開業した中国東北料理店や中国朝鮮料理店などが集中している。延辺朝鮮族自治州の延吉郊外の朝鮮族の村では,若者の多く(男女とも)が,日本や韓国に渡航したまま帰国せず,海外からの送金によって高齢者ばかりが生活している村がみられる。<BR> 東北地方における外国企業では,韓国企業の進出が最も目覚ましいが,日本企業も韓国に次いで重要な地位を占めている。特に大連には日本企業のコールセンターやソフト関連施設が多数設けられ,日本語能力が高い人材が求められている。東北地方は,中国国内でも日本語学習者や日本留学希望者が多い地域である。日本語を習得して大連,さらには上海,深圳などの沿海地域の大都市に進出した日系企業への就職を志望する者が多い。<BR> 近年の中国国内の留学ブームを反映して,大連,瀋陽,ハルビン,長春,延吉など東北地方の主要な都市には多数の外国語学校・留学斡旋会社がある。2003年に発生した福岡一家4人殺害事件(犯人の3人の中国人留学生のうち2名は吉林省出身)以後,日本留学のビザ申請に対する日本側の審査が厳格化したため,外国語学校や留学斡旋会社では,主要な渡航先であった日本から,重点を韓国への留学や出稼ぎに切り替えている
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23[含 英語文要旨], 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。 1980年代後半~1990年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。 1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。 在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。Based on field research in Fuqing City (Fujian Province, China), this paper is aimed to investigate the living situation of Chinese newcomers in Japan, as well as the regional characteristics of this representative emigrant area for both Chinese oldcomers and newcomers, and how the newcomers affected their hometown. During the period from late 1980 s to early 1990 s, most of newcomers from Fuqing City came to Japan in groups with easily acquired "Pre-college Student Visa". Learning in Japanese schools, such newcomers kept doing part time jobs to earn their living wages, tuition and the cost to Japan, and gradually their life goals changed to part time jobs from study. Numerous newcomers chose to stay and work illegally for a few years when their visas are no longer valid, and present themselves to the Immigration Bureau, admit their illegal stay and go back to China at last.With the enforcement of strict examination on visa applications from Fujian Province in late 1990s, visa of student or pre-college student became quite difficult to acquire, and newcomers from Fuqing City changed their emigrant destination from Japan to other areas such as Europe, America and Oceania, etc.Under the influence of Chinese newcomers in Japan to their hometowns, their houses were built or reformed, their families moved from suburban to urban areas, agriculture declined and labor moved in from other areas because of local labor lost. Furthermore, newcomers diverted their saving acquired in Japan for their or their children' abroad education in Europe and America as well as Japan, and as a result, stimulated the reproduction of Chinese newcomers.
著者
山下 清海 松村 公明 杜 国慶
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.69, 2007 (Released:2007-04-29)

研究の背景と目的 日本の三大中華街(横浜中華街,神戸南京町,長崎新地中華街)は,いずれも幕末の開港都市に形成された伝統的なチャイナタウンと位置づけられる。三大中華街は,主として日本人を対象に,中国料理店を中核としながら観光地として発展してきた。これに対して,近年の華人ニューカマーズの増加に伴い,東京・池袋駅北口周辺に新興のチャイナタウンが形成されつつある。このチャイナタウンは,主として華人ニューカマーズを対象にサービスを提供する中国料理店,食材店,書店,ネットカフェなどが集積して形成された点に大きな特色がある。 アメリカ・カナダをはじめ欧米では,都心近くに形成された伝統的なチャイナタウン(オールドチャイナタウン)とは別に,近年,中国大陸・台湾・香港・東南アジアなどからの華人ニューカマーズによって新たなチャイナタウン(ニューチャイナタウン)が形成されている(山下,2000)。このようなグローバルな傾向の中で,池袋チャイナタウンは,日本最初のニューチャイナタウンとして位置づけることができる。なお,池袋チャイナタウンという名称は,報告者の一人である山下が,三大中華街とは性格が異なるチャイナタウンであることを強調するために,敢えて「中華街」という名称を用いずに,2003年,「池袋チャイナタウン」と名づけたものである (山下 2003,2005a)。 本研究では,池袋チャイナタウンの形成プロセスを明らかにするとともに,三大中華街との比較考察を通して,池袋チャイナタウンのニューチャイナタウンとしての特色について考察することを目的とする。 池袋チャイナタウンの形成と特色 池袋チャイナタウンの位置は,西池袋1丁目の歓楽街と重なり合う。新宿や新橋と並んで,池袋は戦後の闇市などで多額の収入を得た華人が投資する繁華街の一つであった。1980年代半ば以降,日本語学校で日本語を学ぶための就学生ビザによって来日を果たす福建省や上海周辺出身などが急増した。池袋周辺には日本語学校が集中し,付近に残されていた低家賃の老朽化したアパートに彼らが集住するようになった。 チャイナタウンの形成においては,中核となる店舗の存在が大きい。池袋チャイナタウンの中核となっているのは,中国物産のスーパーマーケットチェーン店「知音」である。「知音」では中国書籍・ビデオ販売に加えて,中国料理店や旅行会社を併設するほか,中国語新聞(フリーペーパー)やテレホンカードも発行する。 池袋チャイナタウンが位置する池袋駅西側周辺には,華人が居住するアパートが多いが,池袋駅東側の東池袋,大塚周辺にも,華人が多く居住している。また,華人ニューカマーズの定住化傾向に伴い,単身者が結婚後,より広い住宅を求めて,埼京線や京浜東北線の沿線の埼玉県の公団住宅やアパートに移り住む郊外化の傾向もみられる(江・山下 2005b)。彼らの職場は東京都内が多く,勤務を終え,帰宅する途中に買物,食事などで立ち寄りやすい池袋の位置は,チャイナタウン形成の一つの重要な要因になっている。 池袋チャイナタウンの最近の傾向として,中国東北3省(遼寧・吉林・黒龍江)出身者の進出が顕著であることが指摘できる。東北3省には朝鮮族が多く,朝鮮語と日本語には文法をはじめ類似点が多いため,朝鮮族にとって,日本語は学び易い外国語であった。また東北3省は,伝統的に日本語教育が盛んな地域であった。中国東北3省出身者の増加に伴い,池袋チャイナタウンでは,中国東北料理店あるいは中国朝鮮族料理店が増加している。 池袋チャイナタウンは,新宿区大久保地区のコリアンタウンがそうであったように,今後,日本人の顧客を取り込むことにより,チャイナタウンとしてさらに発展する可能性を有している。 〔文献〕 山下清海 2000.『チャイナタウン―世界に広がる華人ネットワーク―』丸善. 山下清海 2003.世界各地の華人社会の動向.地理 48:35-41. 山下清海 2005a. 「池袋チャイナタウン」の誕生. 山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』146-51.明石書店. 江 衛・山下清海 2005b.公共住宅団地における華人ニューカマーズの集住化―埼玉県川口芝園団地の事例―.人文地理学研究 29:33-58.
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23, 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。1980 年代後半~ 1990 年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23, 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。 1980年代後半~1990年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。 1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。 在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。