著者
日隈 正守
出版者
鹿児島大学
雑誌
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:03896684)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.1-13, 2014

本論文では,日向・大隅・薩摩三箇国に亘る島津荘域の中で,大隅国内において国衙・国一宮(大隅国正八幡宮)と島津荘との間に対立関係があることを具体的な事例を通して指摘した。国衙・国一宮と島津荘との間に対立関係が生じた理由を島津荘立荘時に遡って考察し,島津荘立荘者平季基の大隅国府焼き討ち事件とその結果が国衙・国一宮と島津荘との対立の原因であることを解明した。
著者
丹羽 謙治 下原 美保 金井 静香 亀井 森 佐藤 宏之 深瀬 浩三 高津 孝 日隈 正守 橋口 晋作
出版者
鹿児島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

本研究の主要な課題である「自然災害等に備えた、鹿児島県の資料防災ネットワークの立ち上げ」に向けての基礎づくりを行った。鹿児島県、宮崎県の一部自治体の資料保存状況を把握するとともに、鹿児島市の入来院家資料、大武文庫、谷口家資料、姶良市の森山家資料などのデジタルカメラによる資料保存・目録整備、資料防災に関する研究会・講演会の開催、ホームページの立ち上げによる広報活動を実施した。
著者
日隈 正守
出版者
鹿児島大学
雑誌
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:03896684)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.1-10, 2017

本稿では,鎌倉初期に編纂された大隅国建久図田帳の記載事項について考察した。その結果,帖佐郡・蒲生院は大隅国内における交通上の重要地であるため大隅国衙が強い支配下に置きたいと考えていたこと、大隅国建久図田帳加治木郷・禰寝南俣項の大隅国正八幡宮領の記載が簡略であったのは、両地域が一種の混乱状態であった結果であること、大隅国菱刈郡内等に筥崎八幡宮浮免田が設定されている理由は、平安後期大宰府や筥崎八幡宮を事実上支配下に置いた島津荘領主藤原忠実が筥崎八幡宮浮免田設定に協力した結果であること等を明らかにした
著者
日隈 正守
出版者
鹿児島大学
雑誌
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:03896684)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.19-26, 2012

本論文では,現鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川に鎮座している藤川天神に伝わる菅原道真伝説について考察した。その結果,藤川天神の菅原道真伝説は江戸後期に成立したと考えられること,菅原道真伝説が残っている地域は安楽寺(太宰府天満宮)領であったこと,藤川は安楽寺末寺である薩摩国分寺領であったと考えられ,薩摩国最北端地である出水郡と薩摩国における政治の中心地である高城郡とを結ぶ交通上の要衝であったこと等を明らかにした。
著者
日隈 正守
出版者
鹿児島大学
雑誌
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:03896684)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.23-38, 2003-03-18

本稿では,大隅・薩摩両国に存在する万得(徳)領について再検討を加えた。その結果万得価は,11世紀末から12世紀初期の間に大隅・薩摩両国の国管に拠り設定されたと考えられる。万得領の設定目的は,大隅・薩摩国内の主要な神社の神事用途を弁済するためであると考えられる。大隅国内においては,大隅国正八幡宮が国内最有力の神社であるので,大隅国内の万得価の年貢は,主に大隅国正八幡宮の神事用途に使用された。この事実が前提となり,大隅国内では,荘園公価制の大枠が形成された12世紀前期に,大隅国内の万得領は大隅国正八幡宮の半不輸価化した。薩摩国内の万得領は,当初新田八幡宮等国内の有力神社の神事用途を負担していた。しかし平安後期薩摩国管と新田八幡宮とが浮免田設定や修造に関して対立する様になると,薩摩国管の在庁官人達は自分達が領有している万得領を大隅国正八幡宮に半不輸領として寄進した。その結果,薩摩国内の万得領も大隅国正八幡宮領化した。
著者
日隈 正守
出版者
鹿児島大学
雑誌
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編 (ISSN:03896684)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.17-30, 2004-02-23

本稿では, 江戸時代の編纂物である『神代三陵志』可愛山陵項に収められた『新田神社文書』の具体的内容と全体としての史料的性格について分析した。その結果『神代三陵志』可愛山陵項に収められた『新田神社文書』は, 主に八幡新田宮(現新田神社)の前身及びそれ自体が可愛山陵(環環杵尊の陵墓)である事を記載した文書群であった。『神代三陵志』可愛山陵項に収められた『新田神社文書』を使用すると, 八幡新田宮がいつ頃から可愛山陵との関係を主張し始めたかを解明する事ができる。この課題に関しては, 鎌倉前期に八幡新田宮が阿多北方内の所領を地頭鮫島家高に押領された際, 再び地頭に所領を押領されない様にする事と, 進まない修造を促進する意図, 薩摩国内において八幡新田宮よりも神社としての序列が高い開門神社に対抗する目的等のため, 八幡新田宮は瓊瓊杵尊との関係を主張し宗教的権威付けをしたと考えられる。