著者
昌子 住江
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.289-293, 1992-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
6

東京の無秩序な膨張を抑えようとした東京緑地計画の環状緑地帯は、戦時下の東京防空空地帯計画に受け継がれ、さらに戦後の東京戦災復興計画で緑地地域として指定されたところにほぼ重なることは既に知られている。東京戦災復興計画では緑地地域の内側に、大公園と緑地帯から成る緑地計画があった。東京のなかを縦横に走る緑地帯を配した計画としては、戦前東京市が作成し構想に終った皇都都市計画の防空緑地帯をあげることができる。なお同計画は、人口と産業の再配置を意図した、東京大都市圏に関する計画の一環として構想されたものである。ここには、江東・墨田の一帯を飛行場や大公園にするという大胆な計画もあった。本稿では、結局実現には至らなかった東京戦災復興計画での緑地計画について、その淵源を探るとともに消滅の背景についても考察する。[戦中~戦後・緑地・市街化抑制]
著者
昌子 住江
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.31-36, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
13

橋姫, 橋占, 橋参りなど, 橋に関する伝説や行事は数多い。これは, 橋が川に隔てられた二つの土地を結ぶ施設であると同時に, こちら側と向こう側 (この世と異界), 橋上と橋下 (地上と地下) という異なる世界を媒介する両義的な空間と考えられてきたことによるものであろう。これらの伝承の内容および変遷過程を分析することにより, 文書, 記録, 遺構などでは十分解明され得ない, 人々の橋梁観, 架橋の社会的背景その他について有益な資料を得ることが期待される。
著者
昌子 住江
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.282-287, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
23

汚物掃除法 (明治33年法律第31号) により塵芥の処理は市の義務となった。当時横浜市では、塵芥処理を民間の業者に請負わせており、その処理方法は埋め立てと千葉方面への肥料としての搬出であった。1911 (明治44) 年市では全市のごみを焼却すべきであるとの方針を示したが、焼却場予定地の住民による激しい反対運動で建設は進まず、震災復興事業の一環として滝頭に焼却場が完成したのは1931 (昭和6) 年であった (その二年前には一部が完成して焼却を開始していた)。この焼却場は、ごみの焼却熱を利用して発電を行ない、場内で使用するとともに余った電気を市電に送電する計画をもっていた。大正期には、大阪をはじめいくつかの市でごみ発電の可能性が検討されたが、水分の多い日本のごみでは安定した発電量が得られないなどの理由から見送られていた。横浜市では、第一次大戦後の電力・電灯需要の増大に対応し、低廉な価格で供給するための市営電力事業が計画されており、焼却の試験炉が予算化された1921 (大正10) 年には市街電車の市営化もなって、電力市営への世論も高まっていた。丁度この年、市内に電力を供給していた横浜電気が東京電灯と合併したが、料金は以前のままで東京より高く、市会でも不満が高まっていた。1925 (大正14) 年焼却場の建設をめぐって再び反対の姿勢を強める住民にたいして、市側は市電に売却して電車を動かす一挙両得の計画であると説得している。市電への送電は、1929 (昭和5) 年11月から1935 (昭和10) 年1月まで行なわれたが、重油を炊いて熱量を補ったため、費用がかさむのと煤煙問題で市会では毎年のように批判が出された。1935 (昭和10) 年に東京電灯の電力料金が値下げされ、焼却場からの料金より安くなったのを期に、市電への送電は中止されたのである。
著者
石田 頼房 昌子 住江
出版者
東京都立大学都市研究センター
雑誌
総合都市研究 (ISSN:03863506)
巻号頁・発行日
no.55, pp.113-148, 1995

石原憲治(1895-1984)は、東京都立大学工学部建築工学科元教授で、1952年に東京都立大学建設工学科ではじめて都市計画の講義をした人物である。現在、東京都立大学には、都市計画に関連する講義をしている教官が、大学院都市科学研究科、工学部建築学科、工学部土木工学科などに8-9人にのぼる。都市に関する研究面では、1977年に都市研究所の前身の都市研究センターが設立され、これを中心に学際的に活発な研究が行なわれている。石原を直接知っている人は東京都立大学には全くいなくなってしまうが、石原が東京都立大学における都市計画教育のルーツであることは疑いのない事実である。一方、研究面では、石原は戦前より独特の方法で民家建築を研究しており、日本民俗建築学会の前身である民俗建築会を1950年につくるなど、この面でもパイオニアーであった。残念ながら、この面での後継者は東京都立大学にはいないが、日本民俗建築学会に集まる全国の多くの研究者によって受け継がれている。石原は、このほかにも戦前の建築家運動、登山者、キリスト者としての福祉活動など多彩な足跡を残している。しかし、その人柄によるのか、多彩な活動の割には余り知られていない存在であ。この論稿は、石原憲治生誕百年にあたり、その生涯の概要を記録しようというものである。
著者
昌子 住江
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D2(土木史) (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.282-287, 1988

汚物掃除法 (明治33年法律第31号) により塵芥の処理は市の義務となった。当時横浜市では、塵芥処理を民間の業者に請負わせており、その処理方法は埋め立てと千葉方面への肥料としての搬出であった。1911 (明治44) 年市では全市のごみを焼却すべきであるとの方針を示したが、焼却場予定地の住民による激しい反対運動で建設は進まず、震災復興事業の一環として滝頭に焼却場が完成したのは1931 (昭和6) 年であった (その二年前には一部が完成して焼却を開始していた)。この焼却場は、ごみの焼却熱を利用して発電を行ない、場内で使用するとともに余った電気を市電に送電する計画をもっていた。大正期には、大阪をはじめいくつかの市でごみ発電の可能性が検討されたが、水分の多い日本のごみでは安定した発電量が得られないなどの理由から見送られていた。横浜市では、第一次大戦後の電力・電灯需要の増大に対応し、低廉な価格で供給するための市営電力事業が計画されており、焼却の試験炉が予算化された1921 (大正10) 年には市街電車の市営化もなって、電力市営への世論も高まっていた。丁度この年、市内に電力を供給していた横浜電気が東京電灯と合併したが、料金は以前のままで東京より高く、市会でも不満が高まっていた。1925 (大正14) 年焼却場の建設をめぐって再び反対の姿勢を強める住民にたいして、市側は市電に売却して電車を動かす一挙両得の計画であると説得している。市電への送電は、1929 (昭和5) 年11月から1935 (昭和10) 年1月まで行なわれたが、重油を炊いて熱量を補ったため、費用がかさむのと煤煙問題で市会では毎年のように批判が出された。1935 (昭和10) 年に東京電灯の電力料金が値下げされ、焼却場からの料金より安くなったのを期に、市電への送電は中止されたのである。