著者
"有馬 善一" "アリマ ゼンイチ" Zenichi" "ARIMA
雑誌
経営情報研究 : 摂南大学経営情報学部論集
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.63-76, 2003-07

本論文が目指すのは、形而上学的な問題系の現代的意義を明らかにすることを念頭に置きつつ、ハイデガーの存在の思惟に対して形而上学がどのような意義を持っていたかを明らかにすることである。そのための準備作業として、まず、アリストテレスの「形而上学」の成立にまつわる困難、すなわち神学と存在論の二重性の問題が取り上げられる。次に、ハイデガーが存在への問いを遂行する過程で、存在論の存在者的根拠としての現存在へと定位した「現存在分析論」の独自の意義が「いかに存在」の「形式的告示」という点にあったことが明らかにされる。最後に、存在の問いにおいて「全体における存在者」の問題化という事態が出来することによって、形而上学の二重性がハイデガーにおいても問題となることが示される。
著者
有馬 善一
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.23, pp.81-104, 2016-01

ハイデガー哲学において、ニヒリズムは極めて大きな問題であるとともに、その問題性は多面的な様相を示している。それを明らかにするために、本論文は、①ハイデガーのニーチェ哲学との対決とその解釈において現れるニヒリズムの問題、②ハイデガーの存在史的な思想の中で現れるニヒリズムの問題の2 つを課題として取り上げる。また、①の問題と関連して、③ニーチェのニヒリズムとはいかなるものであったのか、も明らかにされなければならない。本論文における分析・考察の結果は次の通りである。①ニーチェ思想におけるニヒリズムがパースペクティヴィズムとの連関において肯定的性格を示していること、②ハイデガーの存在史的な解釈において、ニーチェのニヒリズムのこの性格が正当に評価されていないこと、③ハイデガーにおいては、ニヒリズムの現象は、形而上学の歴史の全体において〈存在〉が逃れてしまうということとして捉えられており、形而上学の本質そのものがニヒリズムであると考えられていること、④ハイデガーによれば、ニヒリズムの今日的な現象は科学技術の世界支配であり、ハイデガーはニヒリズムを耐え抜くことの必要性を説くが、反面、技術支配の〈危険〉についてのハイデガーの認識には少なからぬ問題があるということ、以上4 つの点が明らかとなった。
著者
有馬 善一
出版者
摂南大学
雑誌
経営情報研究 : 摂南大学経営情報学部論集 (ISSN:13402617)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.93-107, 2012-02

ハイデガーの存在の問いは伝統的な存在論、特にアリストテレスの哲学と深い繋がりがある。しかし、その点が『存在と時間』からは明確には読み取ることが難しい。同時期の講義『現象学の根本問題』に基づいて、存在の問いが神学と存在論を巡る問題、さらに、本質と事実という西洋の哲学全体を貫く区別の問題と深く関わっていることを示した。
著者
有馬 善一
出版者
摂南大学
雑誌
経営情報研究 : 摂南大学経営情報学部論集 (ISSN:13402617)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.63-76, 2003-07

本論文が目指すのは、形而上学的な問題系の現代的意義を明らかにすることを念頭に置きつつ、ハイデガーの存在の思惟に対して形而上学がどのような意義を持っていたかを明らかにすることである。そのための準備作業として、まず、アリストテレスの「形而上学」の成立にまつわる困難、すなわち神学と存在論の二重性の問題が取り上げられる。次に、ハイデガーが存在への問いを遂行する過程で、存在論の存在者的根拠としての現存在へと定位した「現存在分析論」の独自の意義が「いかに存在」の「形式的告示」という点にあったことが明らかにされる。最後に、存在の問いにおいて「全体における存在者」の問題化という事態が出来することによって、形而上学の二重性がハイデガーにおいても問題となることが示される。
著者
有馬 善一
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1994, no.44, pp.204-213,6, 1994-04-01 (Released:2009-07-23)

Dieser Aufsatz zielt darauf ab, am Leitfaden des Denken Heideggers das Problem des Begriffs der ursprünglichen Natur zu erörtern. Aus Heideggers Analyse der Welt läßt sich schließen, daß Natur dem alltäglichen oder naturwissenschaftlichen Weltentwurf nur bruckstücksweise begegnen kann und Natur »an sich« »außerhalb« der Welt bleibt. Aber das bedeutet keineswegs, daß die Realität so strukturiert ist, wie die Positivisten sie sich vorstellen, sondern, wie in seinem Denken der mittleren und späteren Phase gezeigt, daß die Erschlossenheit des einzelnen Seienden und die Verborgenheit des Seienden im ganzen miteinander verschlungen sind, und das von der Erfahrung des Nichts der Welt oder uon der»ψνσις« bei den antiken Griechen her zu verstehen ist.
著者
有馬 善一
出版者
摂南大学
雑誌
経営情報研究 (ISSN:13402617)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.93-106, 2011-02

本研究の目標は、ハイデガーの芸術論を手がかりにしながら、芸術の本質、つまり、芸術とは何か(Was)という問いに対して、芸術作品はいかに(Wie)あるかという問いを対峙させ、さらにここから、芸術作品の創造とその享受を、単に比喩としてではなく、根源的な意味において「世界の開示」として捉える道を開くことである。そのために、『存在と時間』の世界論における被投性と気分の意義を再確認した上で、世界とは存在者の存在のあり方(Wie)として理解されるべきこと、進んで「芸術作品の起源」における芸術と世界との連関を明らかにした。芸術作品は、ある気分において世界を開示する。そして、それはまさに存在者のあり方を具体的に描出することによるのである。