著者
波江 彰彦 廣川 和花
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.12, 2010 (Released:2011-02-01)

1.はじめに 日本では,1899年から1926年にかけて断続的にペストが流行した。特に大阪は,最も多くの患者(死者)がみられた地域である。大阪では2回の流行が起こり,第一次流行(1899~1900年)には161名の患者(死者146名,致死率90.7%)を,第二次流行(1905~1910年)には958名の患者(死者860名,致死率89.8%)を数えた。本報告では,このうち第一次流行を取り上げる。後述する患者データベースを用いて,近代大阪における第一次ペスト流行の特徴について検討したい。 なお,廣川(2010)は,第一次流行に対する防疫行政などについて検討している。第二次流行については,坂口(2005)やSakaguchi et al.(2005)が分析を行っている。 2.分析に用いた資料 大阪におけるペスト流行に関しては,第一次・第二次ともに詳細な記録が刊行されている。そのうち,第一次流行のものは,大阪府臨時ペスト予防事務局(1902)『明治三二、三三年大阪府ペスト流行記事』(以下,『流行記事』とする)であり,また,ほぼ同内容のものとして臨時ペスト予防事務局蔵版(1902)『百斯篤殷鑑』がある。報告者らは,後者の資料を用いて患者データベースを作成した。このデータベースには,患者の氏名,性別,年齢,住所,職業,発病年月日,症状,死亡(全治)年月日などが含まれている。 3.第一次流行の概要 大阪の第一次ペスト流行は,3期に分けることができる。第1期は1899年11月~1900年1月で41名の患者,第2期は1900年4~6月で50名の患者,第3期は1900年9~12月で70名の患者がみられた。 患者が示すペストの症状は,ペスト菌の感染の仕方によっていくつかのタイプに分かれる。リンパ腺ペスト(腺ペスト)は最も一般的な症状であり,ペストに感染した齧歯類から吸血したノミに噛まれた付近のリンパ腺が腫れる。ペスト菌が肺に回ると肺ペストを発病する。肺ペストは人から人へと感染する。ペスト菌が直接血液に入ると敗血症ペストとなり,最も致死的である。皮膚ペストは,皮膚にペスト菌が感染し膿疱や腫瘍ができるものである。 こうしたことをふまえて,患者データベースを集計した結果をいくつか提示する。流行期別・患者住所別の患者数をみると,流行全体では西区の患者数が最も多いが,期別でみると,第1・2期で最多だった西区に代わり,第3期では南区の患者数が最多となっている。 次に,流行期別・生死別・症状別の患者数をみると,3期を通じて腺ペスト患者が最も多いが,特徴的なのは,第1期における肺ペスト患者の多さと,第3期における敗血症ペストの多さである。このうち前者については,短期間に人から人への感染が生じた結果である。このことについては,次節で説明する。また,生死別にみると,全治した患者がみられるのは腺ペストのみであり,それ以外の症状の患者はすべて死亡している。 4.流行第1期における患者分布とペスト感染経路 次に,第一次ペスト流行における3つの波のうち,流行第1期における患者分布とペスト感染経路について検討する。 ペスト患者とペスト斃鼠の分布図から読み取れるホットスポットは大まかに2箇所あり,第1は初発付近の西区堀江川下流両岸,第2は西区川北四貫島の金巾紡績会社周辺である。 『流行記事』では,ペストの感染経路について詳細な分析を行っている。それによれば,第1のホットスポットについては,患者1が出入りしていた住宅付近で多くのペスト有菌鼠が発見されたことと関連づけている。他方,第2のホットスポットは,人から人への感染と推定されている。金巾紡績会社の従業員だった女性から始まり,1か月あまりのあいだに,彼女の家族,この家の患者を診察した医師とその家族,この医師を診察した医師とその家族,そのほか最初の女性と接触のあった同居人や従業員などが次々と肺ペストや腺ペストで死亡した。 5.おわりに 今回用いた患者データベースからは,患者の居住地・発見地の位置関係やペスト感染経路のかなり詳細な把握が可能である。今後は,「大阪地籍地図」上に各患者をプロットする作業を考えているが,第一次流行の患者住所は「屋敷番制度」で記載されており,「大阪地籍地図」の地番とリンクしない。この点については検討中である。また,GISを用いて,ペスト患者やペスト感染経路に関する空間分析を行うことも考えている。
著者
大石 太郎
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.16, 2010 (Released:2011-02-01)

第二次世界大戦前における日本人の海外への移民については、地理学をはじめ多くの学問分野から関心が寄せられてきた。日本人の移住先は多方面にわたっており、環太平洋地域の全域に広がっているといっても過言ではない。環太平洋地域には第二次世界大戦前までに、人・物・金が移動する地域システムが形成されており、日本人の国際移動はそれを構成する重要な要素であった(米山・河原 2007: 18)。この立場に従えば、1892年以降、おもにニッケル鉱山の労働者として日本からの渡航者がみられるようになったニューカレドニアも、その地域システムの一部であったということになる。実際、ニューカレドニアには戦前期を通じて日本人が居住し、とくに日米開戦直前の数年間は人や金の往来が激しくなっていた。本報告では、ニューカレドニア公文書館が所蔵する在ヌメア日本領事館の記録に基づいて、第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人の実態を明らかにすることを目的とする。 ニューカレドニアは、1774年にイギリスの探検家クックによって「発見」された。しかし、当時は領有には至らず、結局、1853年になってフランス領となることが確定し、流刑植民地として利用されるようになる。その後、1864年にジュール・ガルニエによってニッケルが発見されたことにより、急速に開発が進められた。19世紀後半、鉱山開発のための良質な労働力の確保を迫られた鉱業会社は日本に白羽の矢を立て、日本政府との交渉を模索する。 ニューカレドニアの鉱業会社ル・ニッケルと日本外務省との間で合意に達し、契約移民として最初の移民が日本を旅立ったのは1892年のことであり、600名全員が熊本県出身の男性であった。以来、1918年までの間に5,500名あまりが契約移民としてニューカレドニアに渡航した。移民の出身県をみると、もっとも多くの移民を輩出したのが熊本県であり、2,049名を数えている。以下、沖縄県の821名、広島県687名、福岡県596名、福島県341名の順になり、全体としてみれば,一般に指摘されている傾向と同様に、西南日本からの移民が多数を占めているといえる。 これらの移民は鉱業会社との契約に基づくものであり、たとえば5年間などの契約期間が終われば、帰国することもできた。実際、初回の移民はほとんどが帰国したようである。しかし、その後は現地にとどまる移民がみられるようになる。そして、首都ヌメアでは日本人の商店が軒を連ねるようになり、同時代の記録によると、外地とは思えぬ印象を訪問者に与えるほどであったという。第二次世界大戦直前には合弁により日系の鉱業会社が設立され、それにともなって日本との間で人の往来が活発になり始める。 しかし、1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃を受けて、ド・ゴールの自由フランス側に立つニューカレドニア当局は日本人を一斉に逮捕し、順次オーストラリアへ強制送致した。終戦後に彼らは日本に強制送還され、ごくわずかな例外をのぞいてニューカレドニアに戻ることはなかった。日本人女性が極端に少ないなかで、現地の女性と結婚あるいは同棲した日本人男性も少なくなかったが、相手の女性とその間に生まれた子どもたちは、現地に残されることになった。こうして、戦前期ニューカレドニアにおける日本人移民社会は崩壊した。 日本とニューカレドニアとの間の人の往来は第一次世界大戦以降、1920年代を通じて停滞していたが、1930年代に入ると再び活発になってくる。そのようななか、在ヌメア日本領事館は1940年3月に開設された。初代領事は黒田時太郎であり、続いて1941年3月に山下芳郎が2代目の領事として赴任している。ニューカレドニア公文書館には、日米開戦までの2年弱のあいだ存在した在ヌメア日本領事館の記録が所蔵されている(資料番号107W)。 この記録にはさまざまなものが含まれるが、中心となるのは受信文書と送信文書である。これらの文書の送信元や送信先はおもにニューカレドニアの政庁や各国の在ヌメア領事館、鉱山会社などであり、そのほとんどはタイプライターを用いてフランス語で書かれている。そのほか、領事業務にかかわるものとして在留日本人から提出された文書やそれらの手数料の記録、領事館で必要とした物品等の購入にかかわる領収書類などが残されている。報告では、こうした資料に基づいて第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人社会に関する知見を提示する。
著者
熊谷 圭知
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.56, 2010 (Released:2011-02-01)

社会文化地理学: 本報告では、日本の男性と男性性の変容を、地理的想像力とナショナリズムの問題に関連させて論じる。近年の日本の急速な社会経済変化は、日本の若い世代、とりわけ若い男性に大き打撃を与え、稼ぎ手としての男性という戦後家族モデルにもはや依拠できない若い男たちのジェンダー・アイデンティティに影響を及ぼしている。本報告では、新たな男性性のタイプとして「草食系男子」「オタク」「ネオ(プチ)ナショナリスト」を取り上げ、それが今後の日本の社会的・経済的・政治的変化といかに関連するかについて試論を提示したい。
著者
末田 智樹
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.13, 2010 (Released:2011-02-01)

従来、昭和戦前期までにおける百貨店と言えば、三越を筆頭に松坂屋、大丸、高島屋、白木屋、松屋などの呉服系百貨店が前面に押し出され、本報告の主題であるターミナルデパートに関して大きく論じられることはなかった。されど、百貨店の店舗立地を礎とした昭和戦前期までの都市商業空間の形成にとって、昭和初期に登場したターミナルデパートは欠かせない役割を果たしていた。 そこで、昭和戦前期における大阪を主軸とした日本のターミナルデパートの成立過程について浮き彫りにすることで、この時期までにターミナルデパートを成立させた要因とは何であったのか。そして、ターミナルデパートの出現が、現代に繋がる大阪の都市商業空間の原型を完成させていたのかなどをつまびらかにした。 小林一三による阪急百貨店は、大阪北部の梅田にターミナルデパートとして昭和4(1929)年4月15日に開店し、雑貨・実用本位の商品構成を基本として、「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」の大方針のもとに、呉服系百貨店よりも明確に営業戦略として位置づけて経営を展開した。昭和7(1932)年10月8日の新聞広告には、この営業の大方針を掲げた阪急百貨店が如何にしてそれを実践できたのかが説明されている。「経費がかゝらないから」と載せたうえで、「一 広告費が少くてすむから。一 現金売を主としてゐるから。一 外売をしないから。一 遠方配達の経費も省けるから。一 阪急電車の副業であるから。一 家賃がいらないから。」といった6つの要因をあげている。これは小林自らが考案したもので、電鉄のターミナルと併設した立地展開の利点を重視した彼の百貨店構想が、ターミナルデパートとして実現したことを述べている。開業当初の阪急百貨店は、立地条件に基づく店舗展開と商品販売に成功することで、阪急電鉄の沿線客をターゲットとする沿線の市場開拓を狙った経営戦略を強力に推進できたのである。 昭和4年4月10日から建設に着手し、昭和5年12月18日に高島屋南海店が一部開設したのと同時に、同年12月1日に株主総会の承認をへて「株式会社高島屋」に変更した。これによって高島屋はより積極的に大衆消費者向けの百貨店経営へと踏み出すことになり、新店舗の南海店がターミナルデパートであっただけに、同社にとっても明暗をわける挑戦となり、オープン当時大変な話題を呼んだ。その点から考えても、大阪北部の梅田に世界で最初の阪急百貨店によるターミナル方式のデパートが誕生して間もなく、1年半ほど経過して大阪南部の難波にもターミナルデパートが姿を現し、その後高島屋よりさらに大阪南部の地域に大鉄百貨店と大軌百貨店が営業を開始し、阪急百貨店と同じ梅田に阪神百貨店(阪神マート)が生成したことで、昭和初期において大阪の北と南の地域にターミナルデパートをセンターとする現在を想像させる大都市商業空間の原型が完成していたのであった。 このように昭和戦前期までの全国におけるターミナルデパート化の状況では、小林率いる阪急百貨店が設立されて以降、大阪・東京の私鉄会社による百貨店経営や全国の新興百貨店の勃興へ大きな刺激を与え、彼こそが革新的経営者であった。東京では京浜デパートや東横百貨店の成立へと広がり、これまでの呉服系百貨店とは異なったターミナルデパートという百貨店スタイルが大いに波及し、福岡市の岩田屋や岡山市の天満屋など地方百貨店のターミナルデパート化にも多大なる影響を与えた。小林の発想から始まる昭和戦前期までのターミナルデパートの成立が、戦後期以降今日までの日本における独特の百貨店業態発展の肝心な要となったのである。
著者
川口 洋
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.1, 2010 (Released:2011-02-01)

天然痘は,高熱を発し,水泡性の発疹が四肢に広がることを主症状とする感染症である。牛痘種痘法が導入されるまで有効な予防法がなかったため,江戸時代に生きた人々民衆も天然痘を生涯に1度は罹る致命率の高い病と認識していた。しかし,衛生統計が整備されるまでの期間における天然痘流行の実態,天然痘への対処法,牛痘種痘法の導入過程に関する研究は,全く未着手とみられる。他方,痘苗が日本にもたらされた嘉永2(1849)年は,持続的人口増加開始期に当たる。牛痘種痘法導入期の天然痘による疾病災害の実態解明は,持続的人口増加がいかなる状況下で始まったか,という課題に接近を図るためにも不可欠である。本報告では,19世紀中後期の多摩郡周辺における牛痘種痘法の導入過程と天然痘死亡率との関係について検討する。
著者
横山 智
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.38, 2010 (Released:2011-02-01)

1.はじめに 発表者は、東南アジアのナットウに興味を持ち、これまで研究報告が存在しなかったラオスのナットウを調査し、中国雲南省からの伝播ルートとタイからの伝播ルートが混在していることを明らかにした。しかし、先行研究では、タイのナットウ(トゥア・ナオ)は、ミャンマーのナットウ(ペポ)と同じグループと論じられている。 そこで本研究では、2009年に実施した北タイとミャンマーの市場調査とナットウ製法調査をもとに、発酵の際に菌を供給する植物に着目して、ミャンマーおよび北タイのナットウの類似点と相違点を解明することを目的とする。 2.販売されているナットウの種類 北タイで製造されるナットウは、(1)粒状、(2)ひき割り状、(3)乾燥センベイ状の3種類に大別することができる。ただし、日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウは、現地の市場で見かけることはほとんどない。北タイでは、タイ・ヤーイと称されるシャン人(ミャンマーのシャン州出身)の村では見ることができるが、それ以外の市場では、「ひき割り状」か「乾燥センベイ状」しか売られていない。 一方、ミャンマーで製造されているナットウは、多様性に富んでいる。北タイに多い「ひき割り状」と「乾燥センベイ状」以外に、シャン州のムセーの市場では、油で揚げて甘い味付けをしたもの、豆板醤のようなソースをからめたもの、そして乾燥したものなど、「粒状」を加工したナットウが多く売られていた。さらに「ひき割り状」を一度乾燥させた後に蒸かして円筒状に形を整えた珍しいナットウも売られていた。しかし、日本の「納豆」のような糸引きナットウは、2009年の調査で訪れたシャン州内の市場では少なかった。ところが、バモーより北のカチン州に入ると、シャン州で見られたような加工された「粒状」ナットウよりも、糸が引く日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウの比率が高くなり、カチン州都のミッチーナ市場では、強い糸が引く「粒状」ナットウがほとんどであった。 3.ナットウの製法と地域的特徴 北タイとミャンマーのナットウの製法は基本的に同じである。大豆を水に浸した後、柔らかくなるまで煮て、その後、プラスチックバックや竹カゴに入れて数日間発酵させれば、「粒上」のナットウができあがる。なお、どの地域でも発酵のために種菌を入れることはない。その後、粒を崩し、塩や唐辛子などの香辛料を混ぜて「ひき割り状」のナットウとし、さらに「乾燥センベイ状」の場合は、形を整えて天日干しする。この製造工程のなかで、地域的な差異が見られるのが、菌の供給源となる植物の利用である。 シダ類(未同定)とクワ科イチジク属は、ヒマラヤ地域で製造されているナットウの「キネマ」でも利用されていることが報告されており、カチン州との類似性が見られた。またシダ類は、シャン州でも利用されているため、ヒマラヤ地域の「キネマ」とミャンマー全域の「ペポ」との類似性も見いだすことができよう。そして、チークの葉およびフタバガキ科ショレア属の利用という視点からは、シャン州と北タイに類似性があることが判明した。 本研究の結果は、以下のようにまとめることができる。北タイとミャンマーのシャン州で大規模に「乾燥センベイ状」ナットウを生産している世帯では、発酵容器に竹カゴは用いられず、肥料袋のようなプラスチックバックに煮た大豆を数日間保存するだけであり、菌の供給源となる植物も入れない。 形状と糸引きの強弱に関しては、シダ類やイチジク属を用いているヒマラヤ地域とカチン州は「粒状」が多く、糸引きも強い傾向がある。チークやショレア属の葉を用いるシャン州や北タイは、多くが「乾燥センベイ状」で、粒状の場合でも糸引きが弱いことが明らかになった。 4.おわりに 本研究では、これまでの議論とは視点を変えて、菌を供給する植物に焦点をあて、植物利用からナットウ製法の地域区分を実施することを試みた。それの結果、これまで全く議論されていなかった、ミャンマーとタイでの類似点と相違点、そしてミャンマー内での類似点と相違点を解明できた。これらの結果をもとに、未だ達成できていない中国側での植物利用調査を進めることが出来れば、東南アジアのナットウが中国からの伝播かどうかを議論する際の重要な手がかりになると思われる。
著者
豊田 哲也
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.37, 2010 (Released:2011-02-01)

平成15年住宅・土地統計調査のデータを用いて世帯あたり年間収入の分布を都道府県別に推定し、地域格差の要因を検討する。
著者
天野 宏司 西武鉄道 株式会社
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2010年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.22, 2010 (Released:2011-02-01)

観光 鉄道事業者が実施する旅客誘致イベント(ウォーキング・ハイキング)への集客圏を把握するともに,その参加者の属性を分析する。