著者
本田 康雄
出版者
埼玉短期大学
雑誌
学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学研究紀要 (ISSN:13416006)
巻号頁・発行日
no.13, pp.160-152, 2004-03

大新聞(おおしんぶん)を代表する郵便報知新聞は政府の法令、通達また全国各地、東京府下の出来事(ニュース) を「郵便」で読者に送り「報知」する目的で創刊された。しかし、刊行されると読者大衆の興味は一面の政令の公布や諸県のニュース以上に東京府下を中心とする犯罪、情痴事件の雑報、所謂三面記事に集中した。「雑報」記事の面白さに注目して江戸文化の伝統を伝える浮世絵師と戯作者が「新聞錦絵」を工夫して爆発的な流行を起した。雑報記事を浮世絵に仕立て記事本文を添えたのである。しかし、事件の発生と錦絵の刊行との間には版画作成のための時間の差がある。この時間差を埋めて記事の挿絵の形式で、新聞記事とその錦絵を同時掲載する紙面を創案したのがタブロイド版の小新聞(こしんぶん)(雑報記事を主とする大衆紙)「平仮名絵入新聞」であった。この新聞は多くの読者を獲得し、明治十二年にはこの形式にならって「大阪朝日新聞」が創刊された。
著者
本田 康雄
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 = The Bulletin of The National Institute of Japanese Literature (ISSN:03873447)
巻号頁・発行日
no.14, pp.269-295, 1988-03-30

江戸時代以来、草双紙合巻の作成に従事した作者(戯作者)や画工(浮世絵師)は明治七年、難解な新聞記事の中から特に一般庶民に興味のありそうな雑報記事を選び浮世絵師・落合芳幾などを中心として分り易すぐ絵解きして新聞錦絵(木版)を刊行した。その経験を生かして芳幾、高畠藍泉(三世柳亭種彦)は翌明治八年、平仮名絵入新聞を工夫し雑報欄の中央に木版の挿絵(事件の現場のスケッチ)を組みこみ、鉛活字の報道文と組合せて草双紙風の紙面を構成して多くの読者(江戸時代以来の草双紙の読者層)を獲得した。この欄において所謂、三面記事の連載、続報が生じ、これを続き物と称した。この様な小新聞(タブロイド版の大衆紙)の流行をみて新聞ニュースを直ちに草双紙合巻にまとめた『鳥追阿松海上新話』『東京奇聞』『高橋阿伝夜刃物語』が刊行され、末期草双紙界に最期の火花を揚げたが、間もなく新聞の(絵入り)続き物の人気に吸収され、江戸以来の草双紙合巻は明治二十年頃、途絶えた。しかし、この間、戯作者、高畠藍泉、染崎延房(二世為永春水)等は小新聞の続き物の記者として草双紙の文章に基づき報道のための新しい文体を工夫して庶民の読者に読み物を提供し、また浮世絵師はこの三面記事の中央部に事件の挿絵を描いて絵画による情報提供に努めた。この様にして、戯作者と浮世絵師の新聞を媒体とする協力によって続き物は盛行し、続き物の延長上に新聞小説が成立した。国際的に珍らしい日本の新聞小説の形態(絵入り続き物語)は明治のはじめから昭和の今日まで変っていない。 Since the Edo era, the author who engaged in the making of the illustrate “Kusazoshi Gokan(草双紙合巻)and painters (Ukiyoe artists) chose the difficult newspaper articles which seemed to be popular especially for common people in 1874, mainly Ochiai Yoshiiku who was an Ukiyoe artist made explanation by pictures clearly and published Shinbun-Nishikie (xylograph). Using that experience, Yoshiiku, Takabatake Ransen (Ryutei Tanehiko the third) devised the Hiragana-e-iri Shinbun and incorporated illustrations of the xylograph in the center of the general news column in 1875 (sketch of the crime scenes). By constituting the space after Kusazoshi in combination with news sentences printed by lead type, they won many audiences (Audiences of the Kusazoshi since the Edo era). In this column, serialization of so-called local news, further news occurred and named this ‘serial story’. Because such a minor newspaper (a tabloid) was popular, “Torioiomatsukaijoshinwa”(鳥追阿松海上新話), “Tokyokibun” (東京奇聞), “Takahashiodenyashamonogatari”(高橋阿伝夜刃物語)which were collected newspaper news to Kusazoshi Gokan were published promptly and set of the last spark in the closing days of Kusazoshi world. Kusazoshi Gokan since the Edo period was discontinued in about 1887 soon after being absorbed in the popularity of the serial stories. However during those times, the fiction writers such as Takabatake Ransen, Somezaki Nobufusa (Tamenaga Shunsui the second) devised new sentences for the news to offer reading materials to the common people based on the sentence of the Kusazoshi and also Ukiyoe artists drew the illustration of the case on the central part of this local news and tried reporting with pictures. In this way, serial stories became popular with the effort of fiction writers and Ukiyoe artists by means of newspaper. A serial story was established on the extension line of the story in newspaper. Internationally unique form of Japanese serial story in a newspaper (an illustrated serial stories) which does not change from the beginning of the Meiji era up to the present of the Showa.
著者
本田 康雄
出版者
埼玉短期大学
雑誌
学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学研究紀要 (ISSN:13416006)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.96-87, 2003-03-31

小新聞「平仮名絵入新聞」(東京絵入新聞)は犯罪・情痴事件等の報道に挿絵を入れて人気を得た。「仮名読新聞」の「鳥追ひお松の伝」、「東京絵入新聞」の「金之助のはなし」「毒婦お伝のはなし」は事件を連載記事として回数を重ね特に絵入り雑報の連載は読者にとっては新聞紙上に江戸の草双紙合巻が展開する観があった。明治十三年からは東京・大阪の新聞にこの種の絵入続き物が「現代物」「時代物」の二本建てで掲載された。明治十五年より大新聞(政論新聞)は政党新聞となり度々の新聞条令(特に明治十六年の改正条令)によって廃刊乃至雑報記事中心の新聞へ性格を変更した。その時、小新聞(特に朝日新聞)が絵入続き物を武器として新聞界を制覇した。明治十九年より読売新聞は給人続き物に対抗して「小説」を「小説欄」に掲載した。以後、読売の「小説」と朝日の「絵入続き物」が競合、融合しつつ新聞小説が全国各紙に普及するに至る。