著者
杉谷 修一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.45-51, 2004-03-29

本稿の目的は子どもの遊びがメンバー間でどのように成立するかを検討する事にある。そのためにはまず適切な分析単位を定める必要がある。遊びのルーティンからの相互作用の方向がズレる局面に焦点を当てるためには、単一のエピソードを分析単位とするのが適切であろう。我々がルールや規範といった用語で相互行為を説明しないのは、行為が実体的な構造によって決定されているという意味合いを避けるためである。そのために成員カテゴリー化と呼ばれるエスノメソドロジーの概念を検討したい。ある行為者によって申し出られた自己-カテゴリーは相互行為の参加者によって受諾、もしくは拒否される。この反応は同時に自分自身の自己-カテゴリーの申し出を意味する。つまり既存のカテゴリーに合わせて行為を行うのではなく、相互行為の遂行によって成員カテゴリーが達成されるのだ。カテゴリー化を子どもの遊びのエピソードに適応してみると、カテゴリー化が明確な形で成立しないことも多い。しかしこの結果はむしろ、カテゴリー化の概念が遊びの分析に重要な意味を持つことを示している。それは遊びの曖昧さ自体を分析対象とする可能性を秘めている。また子どもの成長と言う観点から、達成されなかったカテゴリーも重要な意味を持っているかもしれない。
著者
杉谷 修一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.82-89, 2003-03-29

ルーティンという概念は遊びの創造性を分析するにはふさわしくないように思える。実際遊びにおいて行われる活動はルーティンの規則によって統制されている。しかし,規則とは秩序を構成し,行為を説明可能で観察可能なものにするために用いられる。すなわち,我々はある範囲内で自由に振る舞えるだけでなく,ルーティンを構成することさえ可能なのだ。規則が行為内容をどの程度認めてくれるかによって,参加者はルーティンとそれぞれ違った関係を持つことになる。野球のような組織化された遊びはめったに自由にさせてはくれない。なぜなら,そこでの役割が相互に関係し会っているからだ。だが,規則が具体的な行為を完全に決定してしまう事はできないし,規則は創造的活動にとって本来不可欠な存在である。また緩やかに構成された規則を持つルーティンはそれほど長時間にわたって持続することはない。そしてそこでは事前にルーティンに関する知識を学習することはない。そのため参加者は即興的にルーティンを作り上げなければならなくなる。また,日常におけるルーティン活動の中には遊びに関する様々な要素がみられる。諸要素はしばしば互いにぶつかり合い,そのルーティンは効率を求めているようには見えない。「インスクリプション」は相互作用の秩序を構成するための道具である。我々はこの概念を遊びのルーティン分析に適用することができる。遊びのルーティンにおいて,インスクリプションは明示的な実態ではなく隠されたリソース-例えば身体技法のような-なのである。インスクリプションのこの際だった特質が遊びのルーティンに何らかの影響を与える可能性がある。
著者
杉谷 修一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.43-50, 2007-02-28

子どもの遊びの特徴として、ダイナミックな相互行為境界の構成が挙げられる。記述された遊びのやりとりをシークエンスに沿って分析する方法がしばしば採用される。シークエンスは会話の参加者間で行われる発話の交換であり、それは相互行為の進行にとって特定の機能を果たすため、トランスクリプトは単一の焦点を持つ会話や行動のやりとりとみなされてしまう。エピソードは相互行為の境界がどのように構成されるのかという問題に非常に重要な意味を持つと考えられる。本論文ではエピソードが遊びの中でどのように利用されているかを検討した。エピソードは単一の主題によって切り取られるひとまとまりの相互行為であるが、遊びの事例を検討した結果、必ずしもそうではないことがわかった。複数の主題が連続して継続される場合もあるし、またその主題が潜在的なこともある。このようなエピソードの複雑な構造が相互行為の境界が変動する契機として重要な関与をしている。もうひとつの特徴は、過去の一時点に位置づけられるエピソードを現在進行中の相互行為に取り込むというやり方である。このように相互行為の資源として取り込まれるエピソードを単位エピソードと呼ぶ。遊びの中では単位エピソードは単なる回想の対象ではない。それは冗談や悪ふざけの材料であり、さらには単位エピソードの改変を通じて参加者の社会関係への影響を及ぼすものにもなりえる。単位エピソードを利用することで、相互行為の枠組みは大きく変化する。それは相互行為における開放性の問題ともかかわってくる。開放性は社会的なものと空間的なものに分けることができる。前者は遊びが通常よりも広い人間関係を潜在的に受け入れる傾向があることを意味する。後者は間違いの少ない相互行為を営むには不利なほど拡大した範囲で遊びが行われることを意味している。相互行為としての遊びに影響を与える単位エピソードと開放性の関係を明らかにすることが今後の課題である。
著者
杉谷 修一
出版者
西南女学院大学
雑誌
西南女学院大学紀要 (ISSN:13426354)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.43-49, 2005-02-28

子どもの遊びを記述するときには、特定の遊びのルールに支配された活動を中心に据えるという方法がしぼしば採用される。しかし彼らが何を遊んでいるかよりも、どのように遊んでいるかということの方が重要な問題である。遊びを観察する際に感じるとまどいの原因のひとつとして、子どもたちの遊びが拡散的会話場として成立している可能性があげられる。つまり観察者が予想しないような場所から発話がなされたり、また当たり前のようにそれに応答するのである。このような性質は遊びのカテゴリーによる説明を当てはめることが困難な上、カテゴリーとそれを規定するルールに準拠することからのズレというネガティヴな形でしか記述することができないという特徴を持っている。そのためルールに従うという明確な枠組みを持つ相互行為の外側にある行為は残余として処理されたり、表出的な機能として独立したカテゴリーを与えられることになる。従来の観点からすれば残余である周辺的相互行為が、実は子どもの遊びにとって重要な意味を持っているということは、拡散的会話場における遊びの概念図を用いて説明することが出来る。観察対象としての遊びが展開する場面全体は、焦点化された相互行為と周辺的相互行為の二つの部分に区別される。この両者の関係がどのように変北するのかという点に注目することで六つのパターンが構成される。それぞれのパターンは両者の境界の維持・変更・解体・再構成といった局面に対応している。いずれの場合もある相互行為は他の相互行為と相互に影響しあっている。その意味で特定の焦点を持つ相互行為が特権的にその遊びの本質的部分を代表していると判断する根拠はないといえる。