著者
松浦 茂樹 藤井 三樹夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.61-76, 1994

1875 (明治8) 年、第1回地方官会議が開催され、ここで「堤防法案」が審議された。治水は河身改築・砂防工事等を主とした「預防ノエ」と、築堤を主とした「防禦ノエ」とからなり、地域で工事を行なうことが難しいときは、前者は内務省、後者は地方庁で行なうと政府から提案された。工事費については、地租の改正に従って新たな制度の整備を図るが、治水は一地域に限られたものであって、その地域で負担するのを原則とし、それが困難なとき国から補助すると規定された。しかし「堤防法案」は、政府原案を修正した上で成案をみたが、制定には至らなかった。ただし淀川では、太政官の指令によって土木寮分局が設置され、その事務規程中、成案をみた「堤防法案」の工事執行、費用分担と類似した規定が設けられた。<BR>1878 (明治11) 年、地方財政制度が確立され、治水事業は地方庁で行なうのが原則とされた。当初は下渡金という名の補助金があったが、1881年に打ち切られた。これ以降、大河川での「預防ノエ」以外は地方庁で行なわれることとなったが、地方庁の財政が逼迫し、容易に進まなかった。このため内務省は、補助制度の確立を目指し、1887 (明治20) 年頃には、一定の成果を得た。また、木曾川等では、国直轄の河身改修、県負担の築堤が合わさって大規模な事業が着手された。<BR>1896 (明治29) 年、「河川法」が制定されたが、それは「防禦ノエ」を国直轄で行なうものであった。それまで「預防ノエ」のみ直轄で行なっていたが、淀川流域を中心とし、地域からの「防禦ノエ」に対する国直轄施行の要望が強まり、いよいよ国として「防禦ノエ」に乗り出さざるを得なくなり、新しい制度が必要となったのである。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.40, no.6, pp.94-119, 1997
著者
松浦 茂樹 山本 晃一 浜口 達男 本間 久枝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.193-204, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14
被引用文献数
1

河川環境が重視されている今日、樹木が注目されている。河川周辺の樹木と云えば、我が国には治水伝統工法の一つとして水害防備林がある。水害防備林は、立地位置より堤塘林、護岸林、水除林に分類される。水害防備林は、近世までは重要な治水施設として管理・育成されていた。もちろん洪水の疎通の支障となる堤防上の樹木は、大風によって揺さぶられ堤防が危険になる等の否定する意見もあったが、幕府によって奨励され各藩でも整備された。明治になっても太政官による「治水法規」の中に、堤脚を保護する竹木は保存するようにと指示されているように、水害防備林は重要視された。1897 (明治30年) 発布の森林法でも保安林に編入された。明治末年から、政府により全国的な治水工事が進められた。近代治水事業は都市部そして大きな平野部での築堤事業を中心に行われ、一定の流量を氾濫原も含めた河道内に収めようとの考えを基本に進められた。河道内の樹木は洪水疎通に支障があるかどうかとの観点から見られ、それ以外の機能は検討範囲外に置かれていたというのが実状であろう。一方それ以外の機能に注目していたのが林学、農学の関係者で、築堤による治水に加えプラス・アルファの効用を水害防備林に求めてきた。戦前でも水害防備林、遊水林の造成が奨励され、昭和20年代の大水害後には、現地調査を中心に研究が進められた。しかし社会経済の高度成長時代は、水害防備林に関心が払われることは少なかった。河川環境が注目されている今日、樹木は重要な素材となり得るものである。また超過洪水対策が重要な課題となっているが、超過洪水対策の観点から、水害防備林のもつ効用を再度整理しておく必要があると筆者らは考えている。
著者
松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.275-285, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
12

近年水辺の復活、ウォーターフロントの開発等水辺が社会から注目されているが、戦前の河川改修でも河川環境は重視されていた。この状況を1935 (昭和10) 年の大水害後、翌1936年樹立された京都の鴨川改修計画に基づいて論ずる。鴨川の社会的特徴は、御所をはじめ千年の歴史をもつ社寺・史跡・風物のある古都・京都市街地を流れていることである。鴨川は「東山ノ山紫二対シ河流ノ水明ヲ唄ハレタル古都千年ノ名川」と認識されていた。また「鴨川は京都市の鴨川に非ず」と、我が国にとって重要な河川と主張された。京都の風致の重要性としては、文化面における国民の訓練、産業の発展、国際観光の三つがあげられた。このため鴨川改修計画では、治水上支障のない限りにおいて鴨川の風致を配慮した計画が樹立された。具体的にはコンクリートの露出をできるだけ避け、石垣、玉石張を中心にして行われたこと、曲線を用いた床止め工の形状等によく現われている。また高水敷にはみそそぎ川が残され、夏には納涼床が張り出されて京都の風物詩となっている。昔から鴨川での夕涼みは京都市民に親しまれていたが、1986年夏気象観測を行い、その状況を求めた。1936年の環境整備計画は、河川技術者集団の総意の下に行われたと推察される。河川技術者がそのような能力を機械施工化以前には常識としてもっていたものと判断される。なお1936年の改修計画は、鴨川に限られることなく京都市の大改造計画であり、京阪線の地下化、都市計画道路の築造等が一体として図られていた。これらの事業は近年の1979年より再開され、現在工事中である。

1 0 0 0 IR 板倉町と水辺

著者
松浦 茂樹
出版者
東洋大学国際地域学部
雑誌
国際地域学研究 (ISSN:13439057)
巻号頁・発行日
no.12, pp.21-56, 2009-03
著者
松浦 茂樹
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.295-307, 1994-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
23

北海道の中心地として札幌が選定されたのは、大河石狩川の舟運により内陸部そして日本海・太平洋と四方への便からであった。さらに対外関係、特にロシアの南進に備えて日本海沿いに設置されたと考えられる。この選定は、幕末、北海道調査を行った松浦武四郎の意見に拠った。松浦は京都と比較しながら、その妥当性を評価した。舟運からみて石狩川は、わが国河川の中でも有数の好条件をもつが、石狩川舟運は、当初、重視されていた。幌内炭坑からの輸送は、幌向太まで鉄道で行い、そこからは石狩川舟運によるというのが、最初の計画であり、そのためにオランダからファン・ヘントが招聘された。しかしアメリカ人技師クロフォルドにより札幌を通って小樽までの鉄道が推奨され、実施に移された。ファン・ヘントは河口で港湾計画を策定し、石炭輸送とは別途にこの計画は推進された。だが彼の死とともに計画は放棄された。また北海道は、主にアメリカ人技術者達の協力によって当初進められた。彼らの開発方針について、アメリカの国際戦略を考えてみる必要がある。
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.59, no.5, pp.37-69, 2015

埼玉県は,今さら言う必要もないが海無し県である。河川を通じて行なわれるその排水は,他都県を流下したのち海に放出される。河川は,利根川(流域面積16,840km2),その派川の江戸川,荒川(2,940km2),そして中川(811km2,うち埼玉県752km2),綾瀬川(176km2,うち埼玉県136km2)である。なかでも古利根川(182km2)・元荒川(209km2)などの埼玉平野東部低地部の洪水は,中川に落ちる。中川を通じて東京都内を流下したのち東京湾に流出(放出)される。中川が埼玉平野の洪水処理にとって実に重要な役割を持っており,ここの整備は埼玉県にとって死活問題といってよい。埼玉県にとってその整備は,長年の課題であった。本論では,中川およびその支川である古利根川・元荒川の整備を中心に,近代の埼玉平野の治水整備について述べていく。
著者
松浦 茂樹
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.275-285, 1987

近年水辺の復活、ウォーターフロントの開発等水辺が社会から注目されているが、戦前の河川改修でも河川環境は重視されていた。この状況を1935 (昭和10) 年の大水害後、翌1936年樹立された京都の鴨川改修計画に基づいて論ずる。<BR>鴨川の社会的特徴は、御所をはじめ千年の歴史をもつ社寺・史跡・風物のある古都・京都市街地を流れていることである。鴨川は「東山ノ山紫二対シ河流ノ水明ヲ唄ハレタル古都千年ノ名川」と認識されていた。また「鴨川は京都市の鴨川に非ず」と、我が国にとって重要な河川と主張された。京都の風致の重要性としては、文化面における国民の訓練、産業の発展、国際観光の三つがあげられた。<BR>このため鴨川改修計画では、治水上支障のない限りにおいて鴨川の風致を配慮した計画が樹立された。具体的にはコンクリートの露出をできるだけ避け、石垣、玉石張を中心にして行われたこと、曲線を用いた床止め工の形状等によく現われている。また高水敷にはみそそぎ川が残され、夏には納涼床が張り出されて京都の風物詩となっている。昔から鴨川での夕涼みは京都市民に親しまれていたが、1986年夏気象観測を行い、その状況を求めた。<BR>1936年の環境整備計画は、河川技術者集団の総意の下に行われたと推察される。河川技術者がそのような能力を機械施工化以前には常識としてもっていたものと判断される。なお1936年の改修計画は、鴨川に限られることなく京都市の大改造計画であり、京阪線の地下化、都市計画道路の築造等が一体として図られていた。これらの事業は近年の1979年より再開され、現在工事中である。
著者
松浦 茂樹
出版者
白陽社
雑誌
日本主義
巻号頁・発行日
no.39, pp.90-111, 2017