著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.17-32, 2010

新体操 / フィギュアスケート / 美的なもの / 筋肉操作の美感 / 遊戯 / スポーツ
著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-16, 2013-03-30
被引用文献数
1

大相撲 / 賭博 / 八百長 / ガチンコ / 行司 / 審判
著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-15, 2015-03-30

審判 / 誤審 / ホークアイ審判補助システム / テニス / 大相撲 / ビデオ判定
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.51-62, 1996-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
11

プロレスはなぜスポーツではないのか。現実にプロレスはスポーツとしての扱いをされることはほとんどない。外見上はいかにもスポーツであり,「プロスポーツ」上として認知されるのにふさわしい人気規模をもっているにもかかわらず, プロレスはスポーツではない。この問題に, プロレスの内的特性から引き出された解答を与えることは簡単ではある。「プロレスは八百長だ」と言い切ってしまえばスポーツとして扱われない解答を得られたかのように錯覚できるからである。しかし, それではプロレスを真に論じたことにはならない。プロレスを「演技」という側面で捉えたところで, 現実にはプロレスが「芸能」として扱われたりしないからだ。すなわち, プロレスがスポーツでも芸能でもない根拠を見いだせない限り, プロレスを論じたことにはならない。そこで, プロレスを外的に, すなわちスポーツの側から位置づける論理を検討する。近代スポーツ成立のメルクマールをルールの明文化という点において捉えることで, 我々は近代スポーツの特有の困難を発見する。それは, 客観的でなければならないはずのルールが, その正反対の性格, 恣意性と偶然性を生まれながらもっていることである。この外傷的要素を抑圧することでルールは権威とともに現れることができる。ところが, 抑圧された恣意性と偶然性はルールを適用する場面において, レフリーの判断, 振る舞いを通じて再び現れる。プロレスにおいても, レフリーの判断, 振る舞いを通じて恣意性と偶然性が現れる。その意味でプロレスは完全にスポーツと同一である。しかし, プロレスはレフリーが過剰に恣意的に振る舞うことで, スポーツにおいて嫌悪される恣意性と偶然性の出現を露骨に暴露する。つまり, プロレスはスポーツに特有の汚点を公然と見せつけるがゆえにスポーツから排除されるのである。そして, プロレスはこの過剰なまでのスポーツ的性格ゆえに, 芸能とも見なされないのである。
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
no.4, pp.51-62, 1996

プロレスはなぜスポーツではないのか。現実にプロレスはスポーツとしての扱いをされることはほとんどない。外見上はいかにもスポーツであり,「プロスポーツ」上として認知されるのにふさわしい人気規模をもっているにもかかわらず, プロレスはスポーツではない。この問題に, プロレスの内的特性から引き出された解答を与えることは簡単ではある。「プロレスは八百長だ」と言い切ってしまえばスポーツとして扱われない解答を得られたかのように錯覚できるからである。しかし, それではプロレスを真に論じたことにはならない。プロレスを「演技」という側面で捉えたところで, 現実にはプロレスが「芸能」として扱われたりしないからだ。すなわち, プロレスがスポーツでも芸能でもない根拠を見いだせない限り, プロレスを論じたことにはならない。<br>そこで, プロレスを外的に, すなわちスポーツの側から位置づける論理を検討する。近代スポーツ成立のメルクマールをルールの明文化という点において捉えることで, 我々は近代スポーツの特有の困難を発見する。それは, 客観的でなければならないはずのルールが, その正反対の性格, 恣意性と偶然性を生まれながらもっていることである。この外傷的要素を抑圧することでルールは権威とともに現れることができる。ところが, 抑圧された恣意性と偶然性はルールを適用する場面において, レフリーの判断, 振る舞いを通じて再び現れる。<br>プロレスにおいても, レフリーの判断, 振る舞いを通じて恣意性と偶然性が現れる。その意味でプロレスは完全にスポーツと同一である。しかし, プロレスはレフリーが過剰に恣意的に振る舞うことで, スポーツにおいて嫌悪される恣意性と偶然性の出現を露骨に暴露する。つまり, プロレスはスポーツに特有の汚点を公然と見せつけるがゆえにスポーツから排除されるのである。そして, プロレスはこの過剰なまでのスポーツ的性格ゆえに, 芸能とも見なされないのである。
著者
柏原 全孝
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.23-39,173, 1995

This essay contends that the documentary method of interpretation in ethnomethodological studies as it has been developed since the founding work of Garfinkel contains a basic ambiguity that has not been sufficiently explored. Garfinkel's key concepts of reflexivity and et cetra practice have been misinterpreted by those who subsequently developed the field of ethnomethodology. Reflexivity incorrectly has been taken to mean the relation between act and social structure, and et cetra practice as that which fills the gap between act and rule.<br> Yet, this paper argues that the original potential of Garfinkel's work lies within the ways in which some things are made visible and others invisible through the mechanism of reflexivity, and the ways in which rules are made through et cetra practices. If reflexivity and et cetra practice are not understood in these terms, we miss the ambiguity within the documentary method of interpretation operates as a form of ideology and that both are essential to sense-making but nonetheless are a illusion.
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.9-23, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
参考文献数
9

本稿は、2006 年にプロテニスのツアーに登場した判定テクノロジー、ホークアイの社会学的含意を考察するものである。ホークアイは、それ自身が審判に代わって判定を下す点、および判定根拠となる映像を自ら作成して示す点で画期的なテクノロジーである。しかし、それは一種のフェティシズムを引き起こす。ホークアイには不可避の誤差があることが知られているが、にもかかわらず、あたかも無謬であるかのように取り違えられ、その無謬性によって礼賛される。誤差をもっともよく認識している開発元でさえ、このフェティシズムに取り込まれてしまう。この事態が引き起こされるのは、ホークアイが動画であることが大きい。本来、判定のためにはボール落下痕とラインの関係が明示された2Dの静止画で十分なはずだが、ホークアイは3D動画に編集された映像を見せることによって、自らの圧倒的な力、すなわち、すべてを見る力を誇示する。そして、われわれはその動画を見ることを通じて、正しい判定への期待を満たしつつ、ホークアイの判定を進んで受け入れていく。こうしてフェティシズムに囚われたわれわれはホークアイがあれば誤審が起きないと信じるわけだが、ここには明らかな欺瞞がある。なぜなら、ホークアイは誤審を不可視化しただけだからだ。 なぜ、ホークアイやそれに類する判定テクノロジーが広がっていくのか。それは、勝負として決着を目指す有限のゲームとしてのスポーツが、テレビとの出会いによって、その有限のゲーム性を強化されたからである。その出会いは、放映権を生み出し、広告費を集め、スポーツを巨大ビジネスに仕立て上げた。その関係を支え、加速させるのがホークアイやその他の視覚的な判定テクノロジーである。スポーツのもう一つの側面、決着を先送りし続ける無限のゲームとしての側面は、こうした趨勢の前に後景へと退却している。
著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学社会学部
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
no.10, pp.1-16, 2016

スポーツのエートス / 誤審 / テクノロジー / 構成的ルール
著者
柏原 全孝
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.23-39,173, 1995-05-31 (Released:2017-02-15)

This essay contends that the documentary method of interpretation in ethnomethodological studies as it has been developed since the founding work of Garfinkel contains a basic ambiguity that has not been sufficiently explored. Garfinkel's key concepts of reflexivity and et cetra practice have been misinterpreted by those who subsequently developed the field of ethnomethodology. Reflexivity incorrectly has been taken to mean the relation between act and social structure, and et cetra practice as that which fills the gap between act and rule. Yet, this paper argues that the original potential of Garfinkel's work lies within the ways in which some things are made visible and others invisible through the mechanism of reflexivity, and the ways in which rules are made through et cetra practices. If reflexivity and et cetra practice are not understood in these terms, we miss the ambiguity within the documentary method of interpretation operates as a form of ideology and that both are essential to sense-making but nonetheless are a illusion.

2 0 0 0 OA 監視と盗撮

著者
柏原 全孝
出版者
追手門学院大学
雑誌
追手門学院大学社会学部紀要 (ISSN:18813100)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.17-32, 2008

盗撮 / 監視 / 収集 / やらせ
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.9-23, 2018

本稿は、2006 年にプロテニスのツアーに登場した判定テクノロジー、ホークアイの社会学的含意を考察するものである。ホークアイは、それ自身が審判に代わって判定を下す点、および判定根拠となる映像を自ら作成して示す点で画期的なテクノロジーである。しかし、それは一種のフェティシズムを引き起こす。ホークアイには不可避の誤差があることが知られているが、にもかかわらず、あたかも無謬であるかのように取り違えられ、その無謬性によって礼賛される。誤差をもっともよく認識している開発元でさえ、このフェティシズムに取り込まれてしまう。この事態が引き起こされるのは、ホークアイが動画であることが大きい。本来、判定のためにはボール落下痕とラインの関係が明示された2Dの静止画で十分なはずだが、ホークアイは3D動画に編集された映像を見せることによって、自らの圧倒的な力、すなわち、すべてを見る力を誇示する。そして、われわれはその動画を見ることを通じて、正しい判定への期待を満たしつつ、ホークアイの判定を進んで受け入れていく。こうしてフェティシズムに囚われたわれわれはホークアイがあれば誤審が起きないと信じるわけだが、ここには明らかな欺瞞がある。なぜなら、ホークアイは誤審を不可視化しただけだからだ。<br> なぜ、ホークアイやそれに類する判定テクノロジーが広がっていくのか。それは、勝負として決着を目指す有限のゲームとしてのスポーツが、テレビとの出会いによって、その有限のゲーム性を強化されたからである。その出会いは、放映権を生み出し、広告費を集め、スポーツを巨大ビジネスに仕立て上げた。その関係を支え、加速させるのがホークアイやその他の視覚的な判定テクノロジーである。スポーツのもう一つの側面、決着を先送りし続ける無限のゲームとしての側面は、こうした趨勢の前に後景へと退却している。