著者
桑田 直子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.69-91, 1998-05-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
45
被引用文献数
2 2

This study clarifies the adoption of western style uniforms in women's middle schools in the rural districts during the 1920-1930 period. The historical study of female students' uniforms have traditionally highlighted the cases of women's high schools in city areas. Consequently, the effects of regional differences and the disparity among schools have been overlooked in the previous research. In this study, the process of adoption is explicated from various dimensions by examining these factors. The areas focused on are two counties located in the west end of Shimane prefecture.In the big cities like Tokyo, women's middle schools tended to adopt the uniforms according to their own school policies. There seemed to be no regular pattern in the adoption. Contrary to this, in Shimane prefecture, there are some regulations in the adoption according to the disparity among schools. The four prefectural women's high schools, which had the highest prestige in this prefecture, adopted in the same year, 1924. Adopting western style uniforms in 1924 was earlier here than most of women's middle schools in Tokyo. This means, in this prefecture, the adoption of uniforms occurred earlier in the schools which had high prestige. In Tsuwano Ko-Jo, one of the prefectural women's high schools, students started to wear the western style uniforms in 1924 with no particular impressions, while the men in Tsuwano area looked at them with critical eyes. They did not have to feel any conflict as they were supported by their school's prestige. At that time, the other schools in the nearby area had not adopted the uniforms, though their area itself was more modernized than the Tsuwano area. This was because these schools had less prestige than that of Tsuwano Ko-Jo. In the west part of Shimane prefecture, the western style uniforms worked as the presentation ofranking in the women's middle schools.This study aims to make clear the process of the westernization of uniforms in rural areas without using the standard model of the city area. At the same time, this study shows in examining how the disparity among female schools helps to create rank among the girls, and how the uniform performs as the representation of prestige.
著者
桑田 直子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.121-130, 1998-06-30

本研究は、戦前期裁縫科が経験した変化について、成田順の洋裁教育論に焦点を当てて解明することを課題としている。洋裁教育は人々の日常の衣生活と深い関わりを持っている。しかしながら、先行研究は人々の衣服に関する社会経済的背景についてこれまで看過してきた。本研究は裁縫教育を取り巻くさまざまな社会的局面を検討の視野に入れることとする。こうしたアプローチは、裁縫教育における性別役割イデオロギーを批判するためにも有効な方法であると考える。 1923年の関東大震災後、和服の機能性欠如が叫ばれ、都市部の女性を中心に市民洋装が開始された。この変化のなかで、高等女学校裁縫科はある危機に直面する。それまでの裁縫科においては、和裁の技術教育がその中心であった。しかし和裁教授だけでは、すでに洋装生活を経験している生徒達の要求に応えることができなくなりつつあった。すなわち裁縫科は変革の必要性に迫られたのである。1926年、成田は文部省の辞令を受けてイギリスに留学する。そこで彼女は第一次世界大戦後に普及した新しいスタイルの洋裁技術を習得し、帰国後は洋裁教育の推進に着手する。彼女の普及活動によって、1930年代の半ばまでに洋裁教育は裁縫科の中で重要な位置を占めるようになる。 1930年代に入ると都市部における洋装化は一層の進行をみせ、徐々にではあるが既成服産業が興ってきた。それによって衣生活に関わる産業構造そのものが変化をはじめたのである。それまで自家縫製によって衣服を調達していた女性達は、自ら縫うことをやめ、既成服を購入し始めた。 裁縫教育関係者の中にはこうした変化にいちはやく気づき、今後の裁縫科は裁縫技術だけではなく衣生活の諸相に関する統合的知識を教授すべきであると主張するものもいた。 しかし成田はこうした考えには同意を示さなかった。それどころか、この時期彼女はそれまで熱心に推奨していた洋装化に対しても、派手な、不釣り合いな洋装女性をまのあたりにするようになって、その支持を控えるような発言さえしている。彼女は、いくら既成服の購入が便利になったとしても、女性はすべからく家族の衣服を自ら縫うべきであると考えていた。彼女は裁縫を、女性にとって本質的に必要な技術とみなしていたのである。こうした視点は、基本的に洋装化に反対していた和裁技術の裁縫教育家とあい通じるものであった。すなわち成田は和裁であろうと洋裁であろうと、裁縫の「技術」としての側面に執着していたのである。 産業構造の変化にも関わらず、戦前期の裁縫科の教育内容は結局技術教授中心のものにとどまりつづけた。総力戦体制下に突入し、モノ不足から新たな衣服の購入が難しくなり、古着のリサイクルのために裁縫技術が必要とされるたである。こうしたこともあって結果的に成田の裁縫科のあり方についての枠組みは、旧学制下において力を持ち続けたのである。 第二次世界大戦後、裁縫科は家庭科の一分野に収縮し、授業時数は削減された。しかしこうした「裁縫科の凋落」は、戦後期になって唐突に開始されたものとはいえない。その兆候は、戦前期、衣生活にまつわる産業構造の変化が始まったときにすでにあらわれていたからである。
著者
桑田 直子
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.121-130, 1998-06-30 (Released:2007-12-27)

本研究は、戦前期裁縫科が経験した変化について、成田順の洋裁教育論に焦点を当てて解明することを課題としている。洋裁教育は人々の日常の衣生活と深い関わりを持っている。しかしながら、先行研究は人々の衣服に関する社会経済的背景についてこれまで看過してきた。本研究は裁縫教育を取り巻くさまざまな社会的局面を検討の視野に入れることとする。こうしたアプローチは、裁縫教育における性別役割イデオロギーを批判するためにも有効な方法であると考える。 1923年の関東大震災後、和服の機能性欠如が叫ばれ、都市部の女性を中心に市民洋装が開始された。この変化のなかで、高等女学校裁縫科はある危機に直面する。それまでの裁縫科においては、和裁の技術教育がその中心であった。しかし和裁教授だけでは、すでに洋装生活を経験している生徒達の要求に応えることができなくなりつつあった。すなわち裁縫科は変革の必要性に迫られたのである。1926年、成田は文部省の辞令を受けてイギリスに留学する。そこで彼女は第一次世界大戦後に普及した新しいスタイルの洋裁技術を習得し、帰国後は洋裁教育の推進に着手する。彼女の普及活動によって、1930年代の半ばまでに洋裁教育は裁縫科の中で重要な位置を占めるようになる。 1930年代に入ると都市部における洋装化は一層の進行をみせ、徐々にではあるが既成服産業が興ってきた。それによって衣生活に関わる産業構造そのものが変化をはじめたのである。それまで自家縫製によって衣服を調達していた女性達は、自ら縫うことをやめ、既成服を購入し始めた。 裁縫教育関係者の中にはこうした変化にいちはやく気づき、今後の裁縫科は裁縫技術だけではなく衣生活の諸相に関する統合的知識を教授すべきであると主張するものもいた。 しかし成田はこうした考えには同意を示さなかった。それどころか、この時期彼女はそれまで熱心に推奨していた洋装化に対しても、派手な、不釣り合いな洋装女性をまのあたりにするようになって、その支持を控えるような発言さえしている。彼女は、いくら既成服の購入が便利になったとしても、女性はすべからく家族の衣服を自ら縫うべきであると考えていた。彼女は裁縫を、女性にとって本質的に必要な技術とみなしていたのである。こうした視点は、基本的に洋装化に反対していた和裁技術の裁縫教育家とあい通じるものであった。すなわち成田は和裁であろうと洋裁であろうと、裁縫の「技術」としての側面に執着していたのである。 産業構造の変化にも関わらず、戦前期の裁縫科の教育内容は結局技術教授中心のものにとどまりつづけた。総力戦体制下に突入し、モノ不足から新たな衣服の購入が難しくなり、古着のリサイクルのために裁縫技術が必要とされるたである。こうしたこともあって結果的に成田の裁縫科のあり方についての枠組みは、旧学制下において力を持ち続けたのである。 第二次世界大戦後、裁縫科は家庭科の一分野に収縮し、授業時数は削減された。しかしこうした「裁縫科の凋落」は、戦後期になって唐突に開始されたものとはいえない。その兆候は、戦前期、衣生活にまつわる産業構造の変化が始まったときにすでにあらわれていたからである。