著者
白石 太一郎 酒井 龍一 植野 浩三 千田 嘉博 碓井 照子 岸本 直文 福永 伸哉
出版者
奈良大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2005

大阪府南部には、日本列島内で最大規模の大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)を含む堺市の百舌鳥古墳群、それに次ぐ規模をもつ誉田御廟山古墳(現応神天皇陵)を含む羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群など、5世紀前後の倭国王墓と想定される巨大前方後円墳からなる大型古墳群が展開している。本研究は、これらの古墳群周辺が都市化される以前め航空写真に基づいて、開発以前の大縮尺の旧地形図を作成し、古墳詳研究の基礎資料を整備し、学界の共有財産として多くの研究者の利用に供するとともに、あわせてこれら近畿の大型古墳群の形成過程やそれら相互の関係、さらにその歴史的意味を追求したものである。3年計画の最終年度にあたる本年度は、(1)前年度までに中心部の図化を終えている古市、百舌鳥両古墳群の周辺部の図化作業を完成した。また(2)古市古墳群に続いて6世紀後半から7世紀代の倭国王墓と想定されるいくつかの古墳を含む太子町磯長谷古墳群周辺について、大阪府が1961年に作成した地形図をもとに、古市、百舌烏古墳群と同縮尺・同仕様で2,500分の1の開発以前の地形図を作成した。さらに(3)この地域で、古墳や同時代の遣跡の調査・研究を進めている地域の研究者や宮内庁書陵部の研究者の参加協力をえて、古市、百舌鳥古墳群り既往の発掘調査のデータ集成を行い、GISを利用してそのデータベース化を進めるとともに、(4)出土埴輪の実測図等の資料集成を行うとともにその編年作業を進め、(5)作成した旧地形図をも利用してこれら古墳群の形成過程の復元的研究を行った。(5)また本年度が最終年度にあたるため、研究報告書を作成した。
著者
植野 浩三
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.13-32, 2004-03

五世紀代の古墳時代文化の発展は、五世紀前半代に新たにもたらされた渡来文化の影響がきわめて重要な役割を果たしたことは、すでに説かれているところである。それは、各種技術に留まらず、墓制や諸制度、生活様式の一部においても認められ、渡来人の直接的な関与や影響、そして間接的な影響によって展開したもの等、多方面にわたる。このうち手工業生産においては、須恵器生産と鉄生産を中心とする金属器生産が考古学の分野では明らかになってきており、後で触れるように土木技術や、その他の生業・技術の面においてもその存在が確認されつつある。須恵器生産の開始が渡来人と密接な関係にあったことは、すでに文献史料の側からも推測されている。その代表的なものは、『雄略紀』七年条にある「今来才伎」渡来記事であり、「新漢陶部高貴」の記載から須恵器生産に陶部高貴が関わったことが予測され、古くはこの頃に生産が開始したであろうという年代論も指摘されてきた。また、年代的な信懸性をもつが、『垂仁紀』三年条の天日槍渡来伝説の中にある「近江国鏡村谷陶人、即天日槍之従人也」の記事は、須恵器生産に渡来人が関わりをもったことを伝えた内容として高く評価されてきた。こうした経緯からも、須恵器生産が渡来人によってもたらされたことは暗黙の了解事項として認識されてきた。須恵器生産の技術は日本で定着して以降、各地で展開していき、六世紀代以降は全国的展開している。初期においては、渡来時の窯跡や須恵器が次第にあるいは急激に変化して日本化が進み、定型化を迎えて行く方向性が示されている。しかしこうした須恵器の変遷が示される一方で、実際に生産に携わった渡来人の様相やその推移については、さほど明らかにされていないのが現状である。須恵器生産自身は渡来人の主導の元に成立して継続するが、それに従事した渡来人の集落の様相や渡来的要素の整理・比較といった総合的な把握は途に着いた状況である。そして、渡来的要素の動向と生産組織の相関関係についても未解明の部分が多いといえる。したがって本稿は、近年の調査資料を参考にしつつ、窯跡と須恵器、そして集落遺跡について渡来的要素のあり方を再整理してその推移を探り、生産に携わった渡来人の動向やその要因について検討する。加えて、渡来人の動向と生産の展開、生産組織の変化について関連させて考察していきたい。尚、本稿では、大阪・陶邑窯と周辺の地域について中心的に取り扱い、他地域については適時触れることとし、渡来人の動向が詳細につかめる5世紀代を主にとりあげていくことにする。