著者
岸本 直文
出版者
大阪市立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

古墳時代の王権構造が、神聖王と執政王という二つの王位が並び立つ体制であったとする仮説を、倭国王墓の 2 系列の存在や、各地の地域首長墓のあり方から、十分な蓋然性をもつことを明らかにしえた。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。The development of the study on sankakubuchi shinjukyo (triangular-rimmed mirrors decorated with gods and animals) in the 1990s dated the Hashihaka burial mound to around the middle of the third century. This research results revealed a direct connection between the Wa State described in Gishiwajinden (Account of the Wa in History of the Wei Dynasty written by Chinese) and the Wa Sovereignty and enabled to understand them as consecutive development. This is because it can be considered that the proliferation of keyhole-shaped burial mounds and gamontai shinjukyo (mirrors with an image band decorated with gods and animals) throughout the area around the Seto Inland Sea, which can be regarded as the movements of the Wa State described in Gishiwajinden, started when Himiko was queen of the Wa State in the first half of the third century. Therefore, the establishment of the Wa Sovereignty with several coexisting Wa kings can be dated to the beginning of the third century. This starting point of the Wa State, which exceeded the regional boundaries of the Yayoi period, marked a turning point of the age. Defined as "the period of nation building in Wa," the Kofun period can include the first half of the third century as its early stage.Remaining challenges are to get a clear picture of the Yamato State in the Late Yayoi period, as a leading force in the Wa State, and understand why the Yamato State became the leader of the Wa State after the domestic warfare. On the other hand, since there were exceedingly few iron implements and large-scale burial mounds, some researchers consider that the Wa Sovereignty did not follow as an extension of the Yamato State in the Kinai region but was established by an emerging force in the eastern Setouchi region. There are significant differences of opinion on who established the Wa State.With regard to the shift from the Yayoi period to the Kofun period, the carbon-14 dating method is suggesting a new framework. The method can reconfirm the date of the Hashihaka burial mound as around the middle of the third century. More importantly, the Shonai pottery is dated earlier to the second century. This means that the formation of the Makimuku site is also dated earlier to before the birth of the Wa State. Therefore, the site can be regarded as the independent establishment of the base of the Yamato State.Defining the Kofun period as described above, the present article is aimed at giving the latest picture of how the Wa State was established, based on the new view of dating. To this end, the article covers the establishment process of the Yamato State from the Late Yayoi period to the Kofun period and new perspectives on the Makimuku site, as well as examines the development of keyhole-shaped burial mounds including a comparison between the Tatetsuki mound tomb and Makimuku Ishizuka burial mound.
著者
白石 太一郎 酒井 龍一 植野 浩三 千田 嘉博 碓井 照子 岸本 直文 福永 伸哉
出版者
奈良大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2005

大阪府南部には、日本列島内で最大規模の大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)を含む堺市の百舌鳥古墳群、それに次ぐ規模をもつ誉田御廟山古墳(現応神天皇陵)を含む羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群など、5世紀前後の倭国王墓と想定される巨大前方後円墳からなる大型古墳群が展開している。本研究は、これらの古墳群周辺が都市化される以前め航空写真に基づいて、開発以前の大縮尺の旧地形図を作成し、古墳詳研究の基礎資料を整備し、学界の共有財産として多くの研究者の利用に供するとともに、あわせてこれら近畿の大型古墳群の形成過程やそれら相互の関係、さらにその歴史的意味を追求したものである。3年計画の最終年度にあたる本年度は、(1)前年度までに中心部の図化を終えている古市、百舌鳥両古墳群の周辺部の図化作業を完成した。また(2)古市古墳群に続いて6世紀後半から7世紀代の倭国王墓と想定されるいくつかの古墳を含む太子町磯長谷古墳群周辺について、大阪府が1961年に作成した地形図をもとに、古市、百舌烏古墳群と同縮尺・同仕様で2,500分の1の開発以前の地形図を作成した。さらに(3)この地域で、古墳や同時代の遣跡の調査・研究を進めている地域の研究者や宮内庁書陵部の研究者の参加協力をえて、古市、百舌鳥古墳群り既往の発掘調査のデータ集成を行い、GISを利用してそのデータベース化を進めるとともに、(4)出土埴輪の実測図等の資料集成を行うとともにその編年作業を進め、(5)作成した旧地形図をも利用してこれら古墳群の形成過程の復元的研究を行った。(5)また本年度が最終年度にあたるため、研究報告書を作成した。
著者
岸本 直文
出版者
大阪市立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

急速に進歩する測量技術により、従来の測量図よりもはるかに精度高く墳丘の形状を把握できるようになっている。倭国王墓の変遷については、測量図による従来の比較作業から推移が見通され、また研究代表者は2系列があることや、さらに第3の系列の存在を指摘している。しかし倭国王墓の築造には、本来、個々に具体の割り付け設計があり、また数字による寸法が与えられたはずであり、精度の高い墳丘データがえられるようになったことで、設計仕様レベルでの比較検討が可能となっている。本研究は、最新データにもとづき前方後円墳の設計の実際を解明すること、また複数系列の存在を証明することで当時の王権構造に迫ることをめざすものである。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02-28

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。