著者
横山 徳爾
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.5-54, 2001-12

ヨーク朝最後の国王であるリチャード三世(Richard III, 1452-85, 在1483-85)は, 在位わずか2年2か月弱ののちに, 1485年8月22日にレスターシャーのボズワース・フィールドにおいて, リッチモンド伯ヘンリー・チューダー(Henry Tudor, Earl of Richmond)に敗れ, 32歳にして落命した。リチャードの死によってヨーク朝は滅亡し, 28歳のヘンリー・チューダーがヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509, 在1485-1509)として即位し, チューダー朝が成立した。……
著者
横山 徳爾
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
Artes : bulletin of Takarazuka University of Art and Design : 宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.75-90, 2005-03-31

ソールズベリー女伯マーガレット・ポール(1473-1541)は、クラレンス公ジョージとイザベル・ネヴィルの娘として1473年8月14日にウィルトシャーのファーリー城で生まれた。1487年にバッキンガムシャーのジェントルマンであるリチャード・ポールと結婚した。弟のウォリック伯エドワードは1499年にヘンリー七世によって処刑されていたので、マーガレットが1512年にヘンリー八世によってソールズベリー伯位を回復された。彼女はメアリー王女(のちのメアリー一世)の養育係に任命されたが、ヘンリー八世がアン・ブリンとの結婚を意図したとき、この結婚に反対して、キャサリン・オヴ・アラゴンとメアリーに味方し、ヘンリーの敵意をまねいた。宮廷から追われ、ハンプシャーのウォーブリントンへ引退したが、1536年にアンが没落したのちに、復帰した。息子のレジナルド・ポールがヘンリーを批判する論文を発表したとき、ヘンリーはポール一族を絶滅させることを決意した。マーガレットは1541年5月27日にロンドン塔内で斬首された。
著者
横山 徳爾
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.19, pp.43-58, 2005

エドワード四世の王妃エリザベス・ウッドヴィル(1437?-92)は、ジェントルマンのサー・リチャード・ウッドヴィル(のちのリヴァーズ伯)の長女として生まれた。1452年にランカスター派のジェントルマンであるサー・ジョン・グレイと結婚したが、夫は第2次セント・オールバンズの戦い(1461)で戦死し、エリザベスはトマスとリチャードのふたりの息子をかかえて寡婦となった。エリザベスが亡夫の没収された所領の回復をエドワード四世に嘆願したとき、エドワードはたちまち彼女に恋し、1464年にグラーフトン・リージスでひそかにエリザベスと結婚した。エリザベスは翌1465年に王妃として戴冠した。ウォリック伯リチャード・ネヴィルは、この結婚を不快とし、1467年に宮廷を去った。王妃エリザベスはウッドヴィル家とグレイ家のために数おおくの有利な縁組をととのえた。エドワード四世がブルゴーニュヘの亡命を余儀なくされたときには、エリザベスはウェストミンスター修道院の聖域に逃れた。エドワードが復位すると、エリザベスはエドワードとクラレンス公ジョージの不和に巻き込まれた。1483年にエドワード四世が急死すると、エリザベスはふたたびウェストミンスターの聖域に入ったが、カンタベリー大司教トマス・バウチャーによって次男のヨーク公リチャードを差し出すよう、またリチャード三世によって彼女じしんも聖域を出るように説得された。リチャード三世はエリザベスとその娘たちの面倒を見ることを約束した。リチャード三世の治世には、エリザベスはレイデイ・マーガレット・ボーフォートと密約して、長女のエリザベス・オヴ・ヨークと亡命しているリッチモンド伯ヘンリー・チューダー(のちのヘンリーセ世)との結婚を約束した。1486年にエリザベスは未亡人王太后の称号をあたえられたが、かつて1484年にリチャード三世と密約したことを理由に、翌1487年に彼女の所領は没収された。エリザベスはバーモンジー修道院に隠退し、そこで1492年に他界し、ウィンザーのセント・ジョージ礼拝堂に埋葬された。