著者
神澤 孝宣
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.20, pp.159-170, 2006

ポケットモンスター(ポケモン)」の爆発的ヒット以来、日本のキャラクターは、国内のみならず海外でも高い評価を受けている。しかし、ここ最近の消費者嗜好の多様化を主な要因として、キャラクター商品の小売市場規模は減少している。消費者のキャラクター消費行動はどのように推移しているのだろうか。特にキャラクターとの関わりの深いマンガ産業とアニメ産業から、また近年注目すべきオタク産業の3分野から、多様化するキャラクターの消費行動を考察する。
著者
松浦 邦男
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.12, pp.51-69, 1998

昭和40年頃から高い彩度の青瓦が日本の都市・農村の住宅に広く使われるようになった。この研究の目的は,このような青い瓦が都市及びその近郊農村の景観にどのようなマイナスの変化をもたらしたかを知り,その規制の考え方を提案することであり,とくに伝統的都市景観をもつ京都市を対象としている。主な内容は,1)漢字としての青と地名としての「あお」の意味,2)日本,中国などの瓦の色の変遷,3)瓦の色と景観に関するアンケート調査,4)景観行政(主に京都市)における屋根色彩の規制,5)青色他の色屋根の規制の考え方,である。
著者
田淵 晉也
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.15, pp.117-132, 2001

西欧文化圏における個人主義的世界観は消滅する傾向にあり,その後,「全体制」に立脚した世界観が,「危機にある資本主義の時代」である,1910〜45年頃を中心に形成されたと,ルシアン・ゴールドマンをはじめとして,一般に主張されてきた。しかしながら,時期を同じくして出現したアヴァンギャルド芸術の諸形態から見ると,かならずしも,そのような個人主義的世界観が消滅の方向に向かったのではなく,むしろ変貌したと考えられる。それは,ルネッサンス時代の,遠近法による技法によって示されているような,個人を世界の中心に固定させ,不動の位置に凝縮させ,そこから世界を把握することを理想とする世界観から一変して,個人を膨張させ世界に充満させること,つまり,個人を希薄化するが,ボーダレスに拡大するという方向からとらえる,世界観である。それらについて,キュビスム,イタリア未来派,ダダ,シュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術を検証することで,具体的に示した。
著者
田渕 稔浩
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.18, pp.91-103, 2004

映画製作の初期には、合成撮影によるトリック映像が人々をおどろかせた。その後SFXにいたる段階で、精密スケールモデル(ミニチュア)が活用され、よりリアリティで臨場感あふれるシーンが構築された。そしてミニチュアは映像効果を高める不可欠の存在となった。CG映像の時代にあって、手造り模型の存在は実写のもつドキュメンタリーなイメージを明確に表現する情況を検証した。
著者
上岡 秀拓
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.19, pp.111-131, 2005

絵画表現は、言葉による会話と同じく、いわば視覚イメージを使ったコミュニケーション・メディアであると考えられる。しかしながら、絵画と受け手の相互関係を、マクルーハンが提示した「ホット」及び「クール」というメディアの性質を照らし合わせて見ると、会話と異なり、一方向性なものである。そこで、絵画表現において、会話のようなコミュニケーションへの展開の可能性はないか考えた。その過程で、「キャラクター表現」がもつ、コミュニケーションに関わる特異な性質に着目した。本論は、まず以上の考察を、次いでその実践としての作品制作を試みたものである。
著者
横山 徳爾
出版者
宝塚造形芸術大学
雑誌
宝塚造形芸術大学紀要 (ISSN:09147543)
巻号頁・発行日
no.19, pp.43-58, 2005

エドワード四世の王妃エリザベス・ウッドヴィル(1437?-92)は、ジェントルマンのサー・リチャード・ウッドヴィル(のちのリヴァーズ伯)の長女として生まれた。1452年にランカスター派のジェントルマンであるサー・ジョン・グレイと結婚したが、夫は第2次セント・オールバンズの戦い(1461)で戦死し、エリザベスはトマスとリチャードのふたりの息子をかかえて寡婦となった。エリザベスが亡夫の没収された所領の回復をエドワード四世に嘆願したとき、エドワードはたちまち彼女に恋し、1464年にグラーフトン・リージスでひそかにエリザベスと結婚した。エリザベスは翌1465年に王妃として戴冠した。ウォリック伯リチャード・ネヴィルは、この結婚を不快とし、1467年に宮廷を去った。王妃エリザベスはウッドヴィル家とグレイ家のために数おおくの有利な縁組をととのえた。エドワード四世がブルゴーニュヘの亡命を余儀なくされたときには、エリザベスはウェストミンスター修道院の聖域に逃れた。エドワードが復位すると、エリザベスはエドワードとクラレンス公ジョージの不和に巻き込まれた。1483年にエドワード四世が急死すると、エリザベスはふたたびウェストミンスターの聖域に入ったが、カンタベリー大司教トマス・バウチャーによって次男のヨーク公リチャードを差し出すよう、またリチャード三世によって彼女じしんも聖域を出るように説得された。リチャード三世はエリザベスとその娘たちの面倒を見ることを約束した。リチャード三世の治世には、エリザベスはレイデイ・マーガレット・ボーフォートと密約して、長女のエリザベス・オヴ・ヨークと亡命しているリッチモンド伯ヘンリー・チューダー(のちのヘンリーセ世)との結婚を約束した。1486年にエリザベスは未亡人王太后の称号をあたえられたが、かつて1484年にリチャード三世と密約したことを理由に、翌1487年に彼女の所領は没収された。エリザベスはバーモンジー修道院に隠退し、そこで1492年に他界し、ウィンザーのセント・ジョージ礼拝堂に埋葬された。