著者
池田 貴夫 IKEDA Takao
巻号頁・発行日
2007-07-31

本論文は、北海道、サハリン、アムール川下流域に分布してきたクマ祭り(アイヌ語で「イオマンテ」、日本語で「クマの霊送り儀礼」、「飼育型クマ送り」などさまざまに表現されてきた。以下、「クマ祭り」と略記し、特に説明のない場合は、「クマ祭り」は仔グマの飼育を伴うクマ儀礼のことを指すこととする(1)。)をめぐり、クマ祭り研究の現状と課題を明らかにしたうえで、クマ祭り研究の基礎的資料であった民族誌とこれまでの研究成果を再検討することにより、民族文化情報とその表現(文化の担い手の表現、記録者の表現、研究者の表現)をめぐる諸問題に関して考察を及ぼし、そのことをとおしてクマ祭りの性格を多面的に明らかにし、今後のクマ祭り研究、アイヌ文化研究、さらには北方文化研究の進展に資することを目的とする。 ここで話題となる対象は、あくまでクマ祭りであるが、導き出される諸課題は、今後の民族学全体の進展に大きく関わってくる問題であると考えている。それは、本論文が、どのような学問分野においても意識していかなければならない「情報」や「表現」という問題をキーワードとして、クマ祭り研究の史的展開にいくつかの論点を発見し、まとめたものだからである。 アイヌ民族の中核的な儀礼、かつ伝統的な儀礼として研究されてきたクマ祭りではあるが(2)、北方地域のクマを扱う儀礼には、2種類のタイプがあるといわれている。1つは、狩猟先で仕留めたクマを丁重に扱い、祀るといういわゆる狩猟グマ儀礼で、これらはアイヌを含め、北ユーラシアや北米の諸民族の間に広く分布する。2つには、仔グマを手に入れ、一定期間飼育したクマをと殺して祀り、饗宴を催すという、いわゆるここで言う「クマ祭り」で、これらはアイヌ、ニヴフ、ウイルタ、ウリチ、オロチ、ネギダールなど北海道、サハリン、アムール川下流域諸民族に限られて、ヒグマを対象に行われてきた儀礼である。 周知のとおり、北方諸地域における2タイプのクマ儀礼の存在と分布を明確化したのは、A. I. ハロウェルの論文Bear Ceremonialism in the Northern Hemisphere[Hallowell 1926]である。そこでハロウェルは、北海道、サハリン、アムール川下流域諸民族で行われるクマ祭りは、比較的新しい時代に単純なものから手の込んだものに発達していったものであろうことを示唆したのである[Hallowell 1926:153-163]。一方、日本国内においては、概ね19世紀末頃から、アイヌのクマ祭り研究が進展し始める。特に、1960年代~1980年代にかけては、クマ祭りの学術的理解に向けての多様な研究が、民族学研究者を中心として展開された。 ところが、近年、民族学研究者がクマ祭り研究から距離を置こうとする傾向がみられる。一方では、民族学研究者は至る所でクマ祭りの説明を行わなければならず、クマ祭りはアイヌ文化の中核的な存在であり、クマをあるべき世界に送り帰す儀礼であるという通説を繰り返すだけでそれ以上踏み込んだ研究をしようとしていない。現在に至っては、クマ祭りは民族学にとって研究しづらい課題なのだろうか。民族学的視点からは、問題意識がもはや発生しないのだろうか(ほとんどが明らかになったということなのだろうか)。クマ祭りをめぐって、民族学がやらなければならないこと(民族学だからできること)は、もはやないのだろうか。 確かに、北ユーラシアや北米の諸民族の間には、クマやオオカミなどの陸獣、ワタリガラスやフクロウなどの鳥類、クジラなどの海獣などさまざまな動物を人間との関係で観念化し、狩猟や儀礼などで特別に取り扱う文化が広まっていた。そのために、クマのみを特別な存在として、研究を集中させることは危険である。先述の現状は、そのような反省もふまえた結果でもあるかもしれない。しかしながら、現実として、アイヌの中核的な儀礼として特別視され、さらには、少なくとも19世紀末頃以降、アイヌが執り行ってきた動物儀礼の多くがクマ祭りであったのは、アイヌと和人との交渉史の中で画一的なアイヌ文化観が形成されたからではないだろうか。 そのことをふまえずに、アイヌのクマ祭りに関し、旧来からの定説を繰り返すだけであるならば、現在の北方民族学のあり方に疑問を感じざるを得ない。むしろ、クマ祭りのイメージが画一化されてきた過程を検証しつつ、広く定着したイメージとは異なる新たな視点から情報を検討・発掘し、さらには個々の表現にみられるイレギュラーな現象をも1つさらにはクマ祭り研究を進めていくうえでの新たな表現方法の確立にまで考察がおよぶこととなろう。 この研究は、直接的にクマ祭りの起源論・成立論に踏み込むわけではない。また、クマ祭りをとりまく諸情報を網羅したものでもない。あくまでも、筆者がこの10年弱の間で行ってきたクマ祭りの研究の成果とそこから導き出された民族文化情報とその表現をめぐる諸課題が記されるだけである。しかしながら、本論文が、アイヌ文化史を考えるうえでの基礎として役に立つことができれば、さらには、現実としてある民族文化情報そのものを直視し、再検討する立場から、北方文化の理解と研究の再構築に寄与できれば、幸いであると考えている。
著者
池田 貴夫
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010-04-01

水産面では海産物やサケ・マス類の漁撈、利用に人文学的な関心が集中してきた北海道において、現在いわゆる「雑魚」などとして扱われるウグイがいかなる目的で資源化され、どのように採取・利用されてきたのか。それらの変容と消長の過程を民俗学的視点から明らかにし、飽食の時代に進むなか人々の志向が海産物に傾く一方で忘却されてきた民俗知識を掘り起こし、その意義を明らかにした。
著者
氏家 等 朝倉 敏夫 村上 孝一 山田 伸一 池田 貴夫 會田 理人
出版者
北海道開拓記念館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

日本時代から現在に至るサハリン朝鮮民族の生活文化の変遷について、サハリン州や帰還者の住む韓国安山市において、約30名のサハリン朝鮮人の方々から基礎的情報を収集し、記録にとどめてきた。その結果、朝鮮文化のなかでも、オンドルや頭上運搬のような日本時代ないしソ連時代初期に失われた文化要素が少なくない一方で、日本→ソ連→ロシア時代を通じて、(1)日本時代を経験した多くの朝鮮人がウズベキスタンの朝鮮人から餅米を取り寄せ、臼と杵を使って餅を掲き続けてきたこと、(2)ロシア人の墓とは対照的に朝鮮人の墓は盛り土の前に墓石を立てる朝鮮半島方式を守ってきたこと、(3)還暦の行事を朝鮮方式で行い続けてきたなど、継続して守ってきた文化があったことを確認し、食文化や精神文化に関する文化要素は残り、住生活、衣生活などにおいてはその継承が難しかったことを明らかにした。一方、サハリン朝鮮民族は、多様な民族的関係史のなかで、韓国スタイル、北朝鮮スタイル、日本スタイル、ロシア・スタイルをそれぞれ重層的に取り入れた多重化したライフスタイルを構築してきた。また、ペレストロイカ以降の自由主義経済の展開を通じ、韓国人、北朝鮮人、沿海州の朝鮮人、中国人、日本人との交流関係が定着し、そのライフスタイルはより多角化の傾向にあることがわかってきた。日本時代を経験した朝鮮人、ソ連時代に生まれ育ち多くを社会主義経済下で過ごした朝鮮人、ペレストロイカ前後に生まれ育ち多くを自由主義経済下で暮らした朝鮮人など、世代間でそのライフスタイルの指向に違いが見られる事実も浮かび上がっている。韓国安山市等に帰還した元サハリン在住者の間では、周囲にロシア文化を流入させ、韓国文化を拒否する人々が相次ぐなどの課題も生じている。これら新たに生じた課題に踏み込むことにより、サハリン朝鮮民族の文化に対する理解がより深まることとなる。