著者
浦山 佳恵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.研究の背景と目的<br> 近年、生物多様性が人の暮らしにもたらす自然の恵みを&ldquo;生態系サービス&rdquo;とし、その変化を評価する試みがなされている。衣食住や信仰などの文化多様性は、生態系サービスのうち&ldquo;文化的サービス&rdquo;に含まれ、各地の生態系を維持し、人の社会・精神生活を支える礎にもなっているとされる。また、グローバル化が進むなか地域の魅力を高める資産になる、災害などからの回復力(レジリアンス)の源にもなりうる等の指摘もある。しかし、これまで文化多様性の変化について、地域レベルでの解明はあまり進んでいない。<br> 長野県は多様な自然環境を擁し食文化や行事等伝統文化にも多様性がみられるが、近年生物多様性の減少が指摘され、文化多様性へも影響が懸念される。市町村誌類から明治期~昭和30年頃の野生生物を用いた伝統行事について調べたところ、盆行事は野生生物利用の地域的多様性が顕著で、現在県版レッドリスト掲載種となっているキキョウをはじめ盆花の山野からの採取が広く行われていた。<br> そこで本研究では、長野県の文化多様性に生物多様性の減少が与えた影響を把握することを目的に、盆行事の多様性の変化とその要因を明らかにすることを試みた。<br><br> 2.研究方法<br> 文献調査により、盆行事の歴史や長野県における多様性について整理した。次いで、盆行事により区分された県下7地域ごとに1市町村選定し、4~6名の住民に集まってもらい、(1)昭和30年以降の盆行事の変化とその要因に関する聞取りと(2)昭和30年代の盆棚の復元を行った。調査にあたり、長野県で食文化による地域づくりに取組む池田玲子氏に各地域の調査協力者を紹介頂き、調査協力者を通して調査地や話者を選定した。特色ある行事として、諏訪地域の新盆の高灯籠建て、下伊那の念仏踊り等についても現地調査を行った。<br><br>3.盆行事の歴史と長野県における多様性<br> 盆行事の起源は定かでないが、中国で成立した「仏説盂蘭盆経」に基づく寺院での仏教行事が、7世紀には伝来し貴族社会で行われ、鎌倉時代末に家で祖先に食物を供える日となったとされる。各地の盆行事の伝承には固有の祖先祭りの性格が伝えられているともいわれる。伝統的な盆行事は、墓掃除、盆花採り、迎え盆(盆棚作り、迎え火)、送り盆(供物を川等に流す、送り火)、新盆・その他から構成され、地域により多様であった。迎え火と送り火により先祖を送迎するが、盆花採りによって盆花を依代に先祖を迎える、供物を川に流すことで先祖を送るとも考えられていた。長野県でも盆行事は多様で、上記の構成要素によって県下は7地域に区分された。<br><br>4.盆行事の変化とその要因<br> 昭和30年代には各地で身近な野生生物を利用した個性豊かな盆棚が作られていたが、昭和40年以降盆棚の多様性は減少していた。また、キキョウなどの盆花は栽培・購入されたものに変化し、アメリカリンドウやアスターなども用いられていた。その要因としては、勤めを中心とした生活様式への変化、盆花や盆ござ等の栽培・購入化、家の建て替え、高齢化等の社会的要因の他に、盆花や盆ござ等に用いられた野生生物の消失といった自然的要因が聞かれた。しかし、その自然的要因も、圃場整備や薪炭林の利用放棄・農地開発、畑の利用放棄など社会的要因によるものであったことも聞かれた。<br> 送り火と迎え火に用いる燃料の多様性も燃料の購入化により減少していた。供物を川に流すことはほとんどの地域で生活改善事業によって禁止され、供物は個々で処分されていた。諏訪地域の高灯籠建てはかつて新盆の家と親族が山からアカマツ等を伐り出し行っていたが、技術の継承が困難等の理由により行う家が減少していた。<br><br>5.おわりに<br> 長い歴史を持つ盆行事は、先祖を迎えることで故人と残された者、家族、親族、さらには地域住民が繋がりを深める行事であるが、行事を通して人々は山野やそこに生育する野生生物とも密接な関わりを築いてきた。しかし調査からは、社会環境の変化により、行事による自然環境との関わりは減少し、盆行事の多様性も減少している様子が伺えた。一方で、地域の文化を継承しながら生物多様性を保全する取組みは、里山等二次的自然の保全に役立ち、多くの地域住民の参加が得られる可能性がある点で重要である。今後さらに研究を進め、盆行事を地域の資源として再生し、キキョウ等の草原に生育する野生生物を保全する取組みに繋げていきたい。<br><br><br><br><br><br>
著者
浦山 佳恵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.95, 2021 (Released:2021-03-29)

日本には,かつて地中に巣を作るクロスズメバチVespula sp.の幼虫や蛹を「蜂の子」と呼び食す慣行が広くあった.明治以降,全国的に蜂の子の商品化が進み,1980年以降生息数の減少が指摘されるようになると、1990年以降各地で蜂追いを楽しむ同好会が設立され,1999年には全国地蜂愛好会が結成され情報交換を通じて資源保護や増殖活動が行われるようになった.2006年現在,30余りの会が蜂追いや巣の大きさを競うコンテスト,増殖活動をしているという.1980年代までの伊那谷は,全国的にも積極的な蜂の子食慣行がみられた地域の一つで,蜂の子はご馳走にもなり,煮たり煎ったりするだけでなく蜂の子飯や五目飯,寿司等にもされていた.採取方法も蜂追いや透かしという方法で見つけたり,夏に小さい巣を採り自宅周辺で飼育する飼い巣を行ったりしていた.蜂追いや飼い巣は貴重な蛋白源を得るための生業であるとともに,大人や青少年にとっては娯楽の一つでもあった.現在、伊那谷北部に位置する伊那市にも,「伊那市地蜂愛好会」が存在する.また,伊那谷では蜂の子の佃煮が土産物や日常のおかずとしてサービスエリア,道の駅,スーパー等で販売されているが,それらの原料の多くは県外・海外から輸入されたものであるという.食生活が豊かになった今,伊那谷の地域住民にとってクロスズメバチはどのようなものになっているのだろうか.2018〜2020年に,伊那市の地蜂愛好家5名への蜂の子食慣行に関する聞取り調査及び飼い巣の見学,伊那市地蜂愛好会の活動への同行を行い,現在の伊那谷のクロスズメバチがもたらす自然の恵みについて考察したので報告する.
著者
浦山 佳恵
出版者
長野県自然保護研究所
雑誌
長野県自然保護研究所紀要 (ISSN:13440780)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.263-270, 2001

戸隠村のツキノワグマの分布変動とその要因、分布変動に伴う住民への被害・被害防除・狩猟と活用を検討することで、北信の地域構造の一端を明らかにした。戸隠村における1967年以降のツキノワグマの里への分布拡大と農業・人身・観光業への被害発生は、村の2つの流れと関連していることが分かった。一つは、1200m以上の山林が近世戸隠神社の神領で利用が制限されていたが、明治期以降国有林になり戦後営林署が大規模伐採、高度経済成長期は営林署・村がスキー場開発をする流れ、もう一つは戦後炭焼きと麻の栽培による住民の生業形態が戦後崩れ、新たな商品作物を模索するなか高度経済成長期以降観光業に活路を見出すという流れである。被害に対し、農家・観光業者は駆除や自己防除を行ってきたが、農業従事者の高齢化・観光業への影響を押さえる意図・戦後クマが生息するようになった地域で一般的に指摘される住民のクマへの過剰反応から、駆除に依存する傾向があった。一方クマ猟は狩猟技術の未熟さから狩期の捕獲数は少なく、商品化は未発達であった。こうした住民の対応は、観光業という要素を除けば、戦後新たにクマが出没する全地域にある程度共通するものと考えられた。