著者
澤田 次郎
出版者
拓殖大学人文科学研究所
雑誌
拓殖大学論集. 人文・自然・人間科学研究 = The journal of humanities and sciences (ISSN:13446622)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.1-24, 2019-03-15

本稿は前号掲載分と合わせて一八九〇年代から一九一〇年代を中心に、チベットをめぐる日本の諜報工作活動の実態を検証するものである。前回明らかにしたのは、①一八九七年から一九〇二年にかけて外務省、参謀本部のチベット関与は初歩的段階にあり、それを反映して成田安輝の活動は質量ともにレベルの高いものであったとは言い難かったが、②この点は一九〇六年から〇八年において参謀本部の福島安正の支援を受けた寺本婉雅によって飛躍的に改善、克服されたという点である。今回は③として、一九一三年から一六年にかけてラサに滞在し、ダライ・ラマ十三世の顧問をつとめた青木の情報収集は、それ以前に寺本が地ならしを行っていただけにやはり質の高いものとなったこと、ただしダライ・ラマの依頼を受けてイギリスまたは日本から機関銃の購入をめざすという青木の協力工作は日本を警戒するイギリス外務省、インド政庁の反対にあって成功しなかったことを明らかにした。
著者
澤田 次郎
出版者
拓殖大学政治経済研究所
雑誌
拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究 = The review of Takushoku University : Politics, economics and law (ISSN:13446630)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.77-144, 2019-10-31

本稿の目的は1934(昭和9)年から45年にかけての時期を中心に,アフガニスタンをめぐる日本の諜報工作活動を検証することである。1934年,カーブルに日本公使館を開設するにあたって外務省は,アフガニスタンとの親善関係が経済と外交戦略の両面でメリットをもたらし,とくに英ソを牽制することにつながると考えており,このことをふまえて日本公使館は諜報工作活動に着手する。第一に諜報活動については,日本公使館はオシントとヒューミントを組み合わせてさまざまな情報を入手した。しかし防諜面が脆弱であり,郵便,通信を傍受されるだけでなくスパイの浸透を許し,公使館員の行動は英米両国,アフガニスタン当局,あるいはソ連によって捕捉されていた。第二に浸透工作については,日本公使館は石油利権の獲得をめざしたが,アフガニスタン政府の微妙な心境の変化を察知できず,利権をアメリカに回される結果となった。また日本公使館と外務省は6名の学生の日本留学をアレンジし,彼らは帰国後,蔵相・副首相,計画相・最高裁長官をはじめとする要職につき,日本の工作は成果をあげた。ただし彼らの滞日中,ある種の疎外感をもたせたことがネックとなった。第三に特殊工作(謀略活動)については,1937年に武官の宮崎義一少佐が追放されたのち,40年に亀山六蔵中尉がカーブルに入り,諜報活動に着手した。41年以降,ドイツがソ連領中央アジアに対するバスマチ運動再組織の工作を行った際,日本公使館はドイツに協力した。また外務省は元国王のアマーヌッラーを利用すること,アフガニスタンを通じて反英領インド工作を行うことに関心をもっていたが,管見の及ぶ限りでは,具体的な破壊活動を行ったことを示す記録を見出すことができなかった。日本公使館はドイツ,イタリア公使館と交流したものの,三者の思惑は必ずしも一致せず,ドイツは重要情報が日本からソ連に流れることを警戒し,英領インドをめぐって独伊は秘密活動の主導権を他国に渡すまいと考え,日本は両国に非協力的であり,枢軸国間の提携は緊密なものとはいえなかった。以上を通じていえることは,日本は多くの情報を集め,それを活用したが,アフガニスタンでの諜報工作はハードルが高かったということである。
著者
澤田 次郎
出版者
拓殖大学国際日本文化研究所
雑誌
拓殖大学国際日本文化研究 = Journal of the Research Institute for Global Japanese Studies (ISSN:24336904)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.75-228, 2021-03-25

本稿は一八八六(明治十九)年から一八九六(明治二十九)年にかけて、陸軍参謀本部の情報将校・福島安正がユーラシア大陸で行った四つの視察旅行を検証した。すなわち、①英領インド調査、②バルカン半島視察、③シベリア単騎横断旅行、④亜欧旅行(とくにペルシャと中央アジア)である。これらを通観した上でいえることは、第一に福島の視野の広さである。ベルリン駐在時の福島は任地のドイツ軍や独露国境地帯のロシア軍の兵力を調べるとともに、ロシアの中央アジア鉄道、シベリア鉄道建設に注目してその動きを追うなど、ユーラシア大陸全体に目を配っていた。第二にヨーロッパ、中近東、中央アジア、インド、新疆、モンゴル、シベリアをめぐるロシアの動向を、東アジア、日本とリンクさせながら地政学的に観察していることである。ユーラシア大陸という大きなチェスボード全体を見渡しながら、福島はロシアの黒海・中近東、アフガニスタン、北東アジアへの南下の動きを総合的、有機的に捉えていた。第三にインド調査を除く三つの旅行を自分で企画、提案、実行したことである。その際、一つの旅行が次の課題を生み、さらに新たな旅行へとつながっていった。その結果として、第四に福島は、ロシアをその南部周縁部から監視するラインを創造した。すなわちトルコ─ペルシャ─中央アジア、モンゴル─満洲─シベリアのラインである。その萌芽は遅くともバルカン半島視察時の一八八九(明治二十二)年十二月に見ることができる。以後、このロシア監視ラインの視点が陸軍情報部の伝統となり、そうした発想が一九三〇年代における昭和陸軍の「防共回廊」構想につながっていくと考えられる。
著者
澤田 次郎
出版者
拓殖大学政治経済研究所
雑誌
政治・経済・法律研究 = Politics, economics and law (ISSN:13446630)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.19-76, 2020-03

本稿は1880年代における参謀本部の対清情報活動の実態を,福島安正中尉(のち大尉)を主軸に据えて考察するものである。そこでは主に以下の3点を検証した。第一に軍事関連施設の偵察である。まず福島は北京から内モンゴルを,ついで杉山直矢少佐とともに,①上海─南京,②煙台─天津を旅行し,兵要地誌調査を行った。第二に清国社会の観察である。杉山と福島はそうした過程で農民,商人から官吏に至るまで,さまざまな人々に接触し,自国と清国の違いを実感した。第三に北京での清国軍のデータ収集である。公使館付武官となった福島は,清国軍の最新データを収集することに努め,重要文書を入手して大量の資料を日本にもたらした。以上の三つの段階をふまえて,また他の派遣将校たちの情報収集と合わせて,日本陸軍は日清戦争の約10年前から清国軍の全体像をほぼつかむようになっていたのではないかと考えられる。
著者
澤田 次郎
出版者
拓殖大学政治経済研究所
雑誌
拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究 = The review of Takushoku University : Politics, economics and law (ISSN:13446630)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.19-76, 2020-03-25

本稿は1880年代における参謀本部の対清情報活動の実態を,福島安正中尉(のち大尉)を主軸に据えて考察するものである。そこでは主に以下の3点を検証した。第一に軍事関連施設の偵察である。まず福島は北京から内モンゴルを,ついで杉山直矢少佐とともに,①上海─南京,②煙台─天津を旅行し,兵要地誌調査を行った。第二に清国社会の観察である。杉山と福島はそうした過程で農民,商人から官吏に至るまで,さまざまな人々に接触し,自国と清国の違いを実感した。第三に北京での清国軍のデータ収集である。公使館付武官となった福島は,清国軍の最新データを収集することに努め,重要文書を入手して大量の資料を日本にもたらした。以上の三つの段階をふまえて,また他の派遣将校たちの情報収集と合わせて,日本陸軍は日清戦争の約10年前から清国軍の全体像をほぼつかむようになっていたのではないかと考えられる。