著者
古川 修治 永島 由紀子 星 克一郎 平尾 秀博 田中 綾 丸尾 幸嗣 山根 義久
出版者
動物臨床医学会
雑誌
動物臨床医学 (ISSN:13446991)
巻号頁・発行日
vol.10, no.3, pp.121-128, 2001 (Released:2007-05-29)
参考文献数
26

犬に対する有効なドパミンの投与方法を確立するため、ドパミンが循環動態に及ぼす影響を検討した。各投与量(3、10、20μg/kg/min)のドパミンを麻酔下の健常雑種犬に持続点滴投与し、カラードマイクロソフェア法による各種臓器血流量の測定を行った。その結果、ドパミンの効果は、特異的ドパミン受容体やα、βアドレナリン受容体への作用以外に、生体の血流量調節機能にも影響をうけることが示唆された。脳では各受容体への作用が弱く、自己調節機能によって血流量が維持されていると考えられた。心臓血流量は心拍出量に対応した変化を示した。ドパミンが高用量投与になるほど、心拍出量と心拍数の増加が認められたことから、心臓に対する負荷の増大を考慮する必要があった。消化管(胃や腸)における血流量の変化からは、ドパミンの効果で増加した血液が、時間経過とともに、要求部位へ移動することが示唆された。ドパミンが高用量投与になるほど、各種臓器にαアドレナリン受容体刺激作用による影響が認められた。しかし、本実験では、10μg/kg/min投与群で、心臓と腎臓の十分な血流量増加が認められたことから、犬に対するドパミンの適応範囲拡大が示唆された。
著者
田中 綾乃
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.23-39, 2008-09

This article considers the relationship between faith and knowledge in Kantian philosophy in the 18 century. Philosophy in the early stages was regarded as anchilia filia (maidservant) to theology. But in the modern age, a wedge was driven between philosophy and theology, and the former established itself as an independent field. As a result, the faith-knowledge problem became a new issue comprehended within the realm of philosophy.Kant argued, in his introduction to the 2nd version of Critique of Pure Reason (1787), that "Ich musste also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen" (I have therefore found it necessary to deny knowledge, in order to make room for faith). In order to explore the significance of this statement, I will first focus on the relationship between faith and knowledge in The Impossibility of an Ontological Proof of the Existence of God in Critique of Pure Reason, where Kant exposes the fallacies in all the theoretical proofs of God's existence, and shows that God's existence cannot be demonstrated. Then, I will analyse the concept of Kant's Vernunftglauben (reason-faith), and clarify the issues of christianity and knowledge in Kantianism. Finally, I will distill Kant's concept of religion and Christianity from Religion, written in 1793.本稿では、18世紀のドイツの哲学者カントにおける信仰と知の関係を考察する。かつて哲学は「神学の侍女」と呼ばれていたように、哲学は神学の手段として機能していた。だが、近代に入り、神学と哲学の間に楔が打ちこまれ、信仰と知の問題は哲学内部の問題として新たに呈示されることになる。カントのこの言葉は一体どのようなことを意味するのであろうか。本稿では、このことを明らかにするために、まず、1) カントの「神の存在論的証明」の批判を概観することで、『純粋理性批判』において示された信仰と知の関係を確認する。次に、2) カントの「理性信仰」の内実を明らかにし、カントにおける信仰と知の問題を考察する。最後に、3) カント自身は、宗教およびキリスト教をどのように捉えていたのか、そのことを『単なる理性の限界内の宗教』(1793年)から導く。