著者
岡部 祐介 友添 秀則 吉永 武史 稲葉 佳奈子
出版者
日本スポーツ教育学会
雑誌
スポーツ教育学研究 (ISSN:09118845)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.13-23, 2010-10-30 (Released:2013-07-20)
参考文献数
25
被引用文献数
3 1

The purpose of this study is to clarify a contemporary meaning of discourse concerning the suicide of Kokichi Tsuburaya who was a marathon runner in the Olympic games in Tokyo, 1964.Tsuburaya's death was continually talked about in the newspaper and magazines, and discourse related to the suicide of Tsuburaya was reproduced.It was pointed out that the nation and the Self Defense Forces had caused “pressure” for Tsuburaya. In worldwide competitions including the Olympic games, contemporary athletes receive “pressure” as Tsuburaya.However, the difference with the generation of Tsuburaya's was clearly shown, and the conversion of the “ethos of sports” was pointed out. As a result of Tsuburaya's death it brought meaning as follows:Through Tsuburaya's, it was recognized that athletes undertake an excessive expectation from those around them, and social pressures over winning or defeat. It is thought that the death of Tsuburaya made clear the problem of identity loss for athletes. In addition, “recognition that modern athletes represent the nation”and “preferable attitude to competitive sport” is recognized. A definite link can be made between the “ethos of sport” and “Tsuburaya” which reproduces a (standard) discourse.
著者
稲葉 佳奈子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.53-67,124, 2005-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
33

本稿は、日本のスポーツとジェンダー研究の新たな視角を提示することを目的とする。日本のスポーツとジェンダーを問題にしたいくつかの研究をとりあげ、それらがスポーツの何を問題にし、それをどのように分析し、スポーツのどこに変容の可能性を見出しているのかという点に注目しながら、これまでの議論を整理した。このとき理論的に依拠しているのは、バトラーの『ジェンダー・トラブル』[1990=1999]におけるジェンダー論である。したがって、本稿が用いるジェンダーという語には、社会的・文化的な「性」のみならず、身体レベルでの「性」が含まれる。これまでの研究によって、スポーツによる/における「男/女」の構築や、それを支えるのが異性愛主義であることなどが明らかにされてきた。それらは日本のスポーツとジェンダー研究の大きな成果である。しかし一方で、本稿がとりあげた先行研究の検討から、それらが異性愛主義の問題性をいかに認識するかという点においていくつかの課題をもっていること、それゆえに、模索されているスポーツの変容の可能性においても、ある「限界」が内包されているということが明らかになった。そうした状況の乗り越えを図るために、以下の結論を示した。変容の可能性は、異性愛主義体制において「男/女」が構築されるときの「失敗」に見出せる。したがって、今後の研究に向けて想定され、日本のスポーツとジェンダー研究におけるもう一つの視角として提示されるのは、異性愛主義体制の「内部」からの「攪乱」である。そのような視角からの理論的検討は、スポーツによる/における「『男/女』の完璧な構築」プロセスでつねにすでに起きているはずの「失敗」を、あるいはその瞬間を、そして「失敗」を生みださずにはいられない体制の非本質性を、理論的に可視化して示してみせることになる。