著者
下郡 剛 しもごうり たけし 総合科学科
出版者
沖縄工業高等専門学校
雑誌
沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute of Technology, Okinawa College (ISSN:24352136)
巻号頁・発行日
no.15, pp.58-68, 2021-03-16

縄といえば、中国の影響を強く受けた結果、独自の文化が花開いた、というのが一般的なイメージではなかろうか。そしてそれを象徴するのが首里城ということになろう。しかしこれは、薩摩侵攻後、中国との冊封関係を維持するため、琉球自らが中国化政策を推し進めた結果であり、それ以前の琉球文化は、圧倒的に強く日本からの影響を受けて歴史的な展開を見せてゆく。文献史学からの琉球の時代区分は、一六〇九年の薩摩侵入以前の古琉球期と、以後の近世期に区分されるが、日本からの影響は、古琉球期により強く見られ、近世期にそれが中国風へと変容してゆく。例えば、平成に復元された、我々が目にしていた首里城は、一七一五年、近世期のものを再現したものである。であるから、その姿は中国の紫禁城を思わせ、中国風ということになる。首里城以外に、沖縄の歴史と文化を象徴するとされるもう一つの文化財に、万国津梁の鐘があろう。王国時代、首里城の正殿に掲げられていたこの鐘には、銘文が刻まれており、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二つの中間にありて湧き出ずるの蓬莱島なり。舟楫をもって、万国の津梁となし、異産至宝十方刹に充満す」とする。銘文末尾には年次もあり、西暦で一四五八年、古琉球期のものである。銘文冒頭で「琉球国は南海の勝地にして」としているわけであるが、東西南北の方角は、あくまでも基点に対する相対的な位置関係である。琉球を「南海」と言っているその基点は、あくまで琉球の北方にあり、これは日本からの目線で書かれた銘文ということになる。つまり、古琉球期の文化財からは、日本との濃密な関係がうかがえ、近世期の文化財からは、中国との密接な関係がうかがえるということになる。古琉球期、このような文化交流の架け橋になったのが、仏教僧達であった。近世琉球仏教の基礎を確立したのは、古琉球期に日本から渡来した僧侶達であったが、古琉球期の僧侶達は同時に、琉球と日本の国家間交渉の役割をも果たしていた。特にその働きは、室町幕府で外交官として日中交渉に任じていた臨済宗僧侶に顕著に見られる。その僧侶達の手によって、仏教以外の様々な文化交流が進み、草書文字や茶などは近世琉球社会に深く浸透していくことになる。
著者
崎原 正志 親川 志奈子 さきはら まさし おやかわ しなこ 総合科学科(masashisakihara@gmail.com) 一般社団法人マッタラーハゲーラキッズクラブ(那覇市放課後児童クラブ)
出版者
沖縄工業高等専門学校
雑誌
沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute of Technology, Okinawa College (ISSN:24352136)
巻号頁・発行日
no.15, pp.9-21, 2021-03-16

本稿では、2012 年から2015 年に沖縄本島中南部を中心に活動していた「くとぅば・すりーじゃ☆にぬふぁぶし」の活動内容等について報告を行い、活動の総括を行う。第1章では、当該団体の概要および設立経緯について説明し、第2章で、実際の活動について詳細に記述する。第3章で会計報告を行い、最後の第4章では、本活動を通じての今後のしまくとぅば普及推進運動への展望および提言を行う。本稿が今後のしまくとぅば普及推進運動に有益な情報となれば幸甚である。
著者
名嘉山 リサ なかやま りさ Nakayama Risa 沖縄工業高等専門学校 総合科学科
出版者
沖縄工業高等専門学校
雑誌
沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute of Technology, Okinawa College (ISSN:1881722X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.11-19, 2018-03

1960年に公開されたハリウッド映画『戦場よ永遠に』(アライド・アーチスト、フィル・カールソン監督)は、その大部分が沖縄で撮影された。「サイパンの笛吹き男」と呼ばれ、サイパン戦で1,000人もの日本兵・民間人を無血で投降させたガイ・ガバルドンの半生を映画化した作品だが、ガバルドンが海兵隊入隊後、サイパン戦で活躍するまでの場面が、当時米国の占領下にあった沖縄をサイパンやハワイなどに見たてて撮影された。沖縄ではじめて「日米合作」のハリウッド映画のロケが行われたということで話題になり、在沖海兵隊が製作に全面協力したほか、日本の映画会社(歌舞伎座プロ)、地元の建設会社(國場組)、沖縄住民が多数エキストラやスタッフとして撮影に協力した。その中の一人が、監督の付き人として撮影に参加した比嘉松盛氏である。本インタビューでは、比嘉氏がカールソン監督の付き人になったいきさつや、撮影現場でのエピソードや印象などを語っていただき、一般的な資料からは知ることのできない情報を得ることを目的とした。インタビューは2015年7月23日に沖縄県浦添市で行われた。Hell to Eternity(1960)is based on the real story of Guy Gabaldon,the Pied Piper of Saipan, who made about 1,000 Japanese soldiers and civilians surrender during the Battle of Saipan. The majority of the film―the scenes where Gabaldon decides to enlist in the Marines, goes to Hawaii for vacation, fights the Japanese Army, saves Japanese people in Saipan,etc.―were filmed in Okinawa which was under U.S. rule. It was the first Japan-U.S coproduction Hollywood movie to be filmed there, and the U.S.Marine Corps as well as a number of Okinawan people cooperated in the filming as extras and staff members. Mr. Matsumori Higa, who was the assistant to Director Phil Kerlson,is one of the local people who participated in the filming of Hell to Eternity.This interview, conducted on July 23, 2015, reveals what it was like to work as an assistant to Director Kerlson and Mr. Higa's impression on the staff,the actors, etc. in relation to his memories of childhood and war.
著者
名嘉山 リサ Nakayama Risa 総合科学科 Department of Integrated Arts and Sciences
出版者
沖縄工業高等専門学校
雑誌
独立行政法人国立高等専門学校機構沖縄工業高等専門学校紀要 (ISSN:1881722X)
巻号頁・発行日
no.10, pp.41-53, 2016-03

戦後27年に及んだ「アメリカ世(ユー)」と呼ばれるアメリカによる沖縄統治時代に行われた広報活動のなかに、映像メディアを使うという方法があった。それによって統治政策を沖縄住民に広く知らしめ、理解を求め、統治を円滑に行うことを目指した。統治前半の1940年代から1950年代はニュース映画やドキュメンタリー映画などを入手・制作し、映画館や文化会館等での上映、あるいは巡回上映を行ったが、1960年前後にテレビ放送が始まるとテレビ番組も制作するようになった。琉球列島米国民政府(USCAR)はテレビの影響力に期待し、電波を通して米民政府の政策や実績をお茶の間に届けることに投資したわけだが、1960年代後半に沖縄返還が決まったのちも、次の目標を見据えその活動が止む事は無かった。本稿では1960年代後半以降のUSCARのテレビ番組制作に焦点を当て、広報局視聴覚課の任務やUSCARの広報戦略などを整理し、当時地元の民放二局で放映された番組の中から3本をモデルケースとして分析することで、その時期のUSCAR制作テレビ番組の実態を探る。During the 27 year U.S. rule of Okinawa from 1945 to 1972, the U.S. military government used audiovisual media as part of its educational and public relations activities. The United States' aim was to govern Okinawa smoothly by garnering the local residents' understanding for their occupation policies through these activities. During the first half of the occupation, the military government obtained and produced newsreels and documentary films, andscreened them in movie theaters, public halls, and outdoor areas. When TV broadcasting began around 1960, they shifted to produce TV programs. The United States Civil Administration of the Ryukyu Islands (USCAR),established in 1950, which succeeded the United States Military Government, had high expectations in regards to the influence of TV media, and therefore invested in disseminating its policies and achievements via air waves.USCAR continued to produce TV programs after the reversion of Okinawa was agreed to by the U.S. and Japan,for it had as an objective to psychologically prepare Okinawans for the reversion through TV programming. This paper focuses on the TV programs produced by USCAR during the last phase of its rule and examines the missions of the audio-visual division of the Public Affairs Department of USCAR and the conditions behind theirTV productions. The paper specifically focuses on three TV programs that were recently restored for a screening held in Okinawa in 2015—TV Weekly: A New Handicraft Shop, TV Weekly: A Year End Charity Campaign by the Americans, and Man, Time, and Place: American Children Learning Japanese Culture, and aims to elucidate the actualities of these programs made circa 1970.