著者
下郡 剛 川満 和 仲村 真
出版者
独立行政法人 国立高等専門学校機構沖縄工業高等専門学校
雑誌
沖縄工業高等専門学校紀要 (ISSN:24352136)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.27-69, 2023-06-29 (Released:2023-09-29)

前田高地での日米の戦闘は沖縄戦下屈指の激戦とされ、2017年映画『ハクソー・リッジ』公開後、休日の浦添城跡は、日本人・アメリカ人問わず、多くの人が訪れる場所になっている。しかしながら前稿(1)で指摘したように、日本兵が呼ぶ「前田高地」は前田集落北側高地のみを指し、浦添城跡の大部分はこれに含まれない。前田高地陣地壕群は、頂上部・中腹部・麓部の3つに分類でき、前稿では麓部の壕について検討した。東から順に、缶詰壕、兵員壕、乾パン壕である。 本稿では、高地中腹部と頂上部の陣地壕群について検討する。本来、中腹部と頂上部は分けて検討するのが望ましいのだが、頂上部に壕がひとつしかないため、併せて検討してゆきたい。まず中腹部の壕からである。
著者
下郡 剛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.46, pp.263-275, 2012-09-28

院=上皇・法王の意志を奉者一名が奉って作成される院宣について、古文書学は、現存文書を元に様式論を生み出し、院宣は院司が院の意向を奉じて発給する文書とされてきた。しかし、日記の中には、意志伝達が果たされた時点で、文書としての機能を喪失してしまう、一回性の高い連絡に使用された文書が多く記載されている。それでは、現存文書に基づき成立した院宣様式論は、本共同研究の対象たる日記からとらえなおすと、いかなる姿を見いだせるのか、を本稿で検討した。
著者
下郡 剛 しもごうり たけし 総合科学科
出版者
沖縄工業高等専門学校
雑誌
沖縄工業高等専門学校紀要 = Bulletin of National Institute of Technology, Okinawa College (ISSN:24352136)
巻号頁・発行日
no.15, pp.58-68, 2021-03-16

縄といえば、中国の影響を強く受けた結果、独自の文化が花開いた、というのが一般的なイメージではなかろうか。そしてそれを象徴するのが首里城ということになろう。しかしこれは、薩摩侵攻後、中国との冊封関係を維持するため、琉球自らが中国化政策を推し進めた結果であり、それ以前の琉球文化は、圧倒的に強く日本からの影響を受けて歴史的な展開を見せてゆく。文献史学からの琉球の時代区分は、一六〇九年の薩摩侵入以前の古琉球期と、以後の近世期に区分されるが、日本からの影響は、古琉球期により強く見られ、近世期にそれが中国風へと変容してゆく。例えば、平成に復元された、我々が目にしていた首里城は、一七一五年、近世期のものを再現したものである。であるから、その姿は中国の紫禁城を思わせ、中国風ということになる。首里城以外に、沖縄の歴史と文化を象徴するとされるもう一つの文化財に、万国津梁の鐘があろう。王国時代、首里城の正殿に掲げられていたこの鐘には、銘文が刻まれており、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二つの中間にありて湧き出ずるの蓬莱島なり。舟楫をもって、万国の津梁となし、異産至宝十方刹に充満す」とする。銘文末尾には年次もあり、西暦で一四五八年、古琉球期のものである。銘文冒頭で「琉球国は南海の勝地にして」としているわけであるが、東西南北の方角は、あくまでも基点に対する相対的な位置関係である。琉球を「南海」と言っているその基点は、あくまで琉球の北方にあり、これは日本からの目線で書かれた銘文ということになる。つまり、古琉球期の文化財からは、日本との濃密な関係がうかがえ、近世期の文化財からは、中国との密接な関係がうかがえるということになる。古琉球期、このような文化交流の架け橋になったのが、仏教僧達であった。近世琉球仏教の基礎を確立したのは、古琉球期に日本から渡来した僧侶達であったが、古琉球期の僧侶達は同時に、琉球と日本の国家間交渉の役割をも果たしていた。特にその働きは、室町幕府で外交官として日中交渉に任じていた臨済宗僧侶に顕著に見られる。その僧侶達の手によって、仏教以外の様々な文化交流が進み、草書文字や茶などは近世琉球社会に深く浸透していくことになる。