著者
金田 房子 カナタ フサコ Fusako KANATA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-21, 2017-03-31

矢口一彡(一七八七~一八七三)は、群馬県高崎市の八幡八幡宮の神職を務める一方で、俳諧宗匠・寺子屋宗匠として、地域の啓蒙活動に尽力した。一彡は、とくに俳諧に熱心で、はじめ地元高崎を中心とする平花庵の人々と交流し、のち天保の三大家の一人である鳳朗に熱心に学ぶ。晩年は自らも俳諧宗匠として近隣の人々の指導にあたった。 一彡の文化活動は、「矢口丹波記念文庫」として子孫の宅にまとまって保存されている。筆者はこれらの資料から、かつて一彡の生涯を「矢口一彡年譜稿―上毛八幡矢口家蔵書から―」(『国文学研究資料館紀要』39 平成25年3月)として時系列にまとめた。こうした文化的な活動の中で、具体的にどのような人々と交流したのかについては、同文庫に保存されている短冊類や書簡、月並俳諧の募句広告といった一枚物の資料を参考とすることができる。これらに記される人物を調べることで、一彡の活動の具体像を明らかにしてゆく。 所蔵される短冊はおよそ百枚、各々の作者を調べ、伝記のわかる二十名について、個々に紹介する。これによって見えてくるのは、主として白雄―碩布―逸淵―西馬とつながる春秋庵系の俳諧グループにつながりのある人々との交流である。また、月並俳諧の募句広告からも、一彡が晩年に逸淵門の点取俳諧に参加していたことを知ることができる。 一方で、書簡には、和算家との関わりを示すものがある。これは、紹介状として書かれたもので、一彡が務めた神社に算額も残る上州の和算家岩井重遠から、江戸の和算家馬場正統に宛てたものである。馬場正統は錦江と号し、俳諧宗匠としても著名であった。 江戸時代末期の北関東における村の文化活動を明らかにする手がかりとして地方俳諧宗匠の活動に注目し研究を進めるなかで、本稿では残された資料から浮かび上がる交友関係に焦点をあてた。
著者
金田 房子 玉城 司 Fusako KANATA Tsukasa TAMAKI 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.21-37, 2019-03-31

玉城司の所蔵する礫亭文庫には、越後魚沼の富農で俳諧を愛好した増田二川旧蔵の俳書約五十点や当時の著名職業俳諧師からの二川宛書簡などが所蔵されている。天保の三大家の一人としてあげられる鳳朗は何度も越後に足を運んでおり、両者の深い交流がこれらの資料から見えてくる。 本研究は地方の文化人の俳諧活動と、諸国を行脚した著名な職業俳諧師との交流の様を明らかにすることを目的とするが、その具体例の一つとして、本稿では二川旧蔵資料を取り上げ、二川と鳳朗との関わりを書簡の記述も読み解きつつ紹介する。併せて二川関連以外の同文庫所蔵の鳳朗関係資料も紹介し、その活動を跡づけることにしたい。The Rekitei Library, owned by Tamaki Tsukasa, houses a collection of written materials that previously belonged to Jisen, who was an affluent farmer and haikai-lover in Uonuma, Niigata during the late Edo period. This collection contains about fifty haikai books and a number of letters addressed to Jisen from the renowned professional haikai poets of the age. The documents reveal that Hōrō, one of the three great haikai poets, frequently visited Niigata and closely interacted with Jisen. This research aims to shed light on the literary activities of the local intellectuals, as well as the interactions among prominent professional haikai poets who traveled around the country. For instance, it uncovers the relationship between Jisen and Hōrō through a close examination of the written materials once owned by the former and the letters the two exchanged. In addition to Jisen-related texts, it also introduces the documents concerning Hōrō, tracing his accomplishments.
著者
金田 房子
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 = National Institure of Japanese Literature (ISSN:18802230)
巻号頁・発行日
no.39, pp.53-75, 2013-03-15

矢口一彡(一七八七~一八七三)は、群馬県八幡八幡宮の神職を継ぎ、神官の地位の復権に尽力するかたわら、俳諧宗匠として活躍した。一多は、はじめ地元高崎の平花庵の点取俳諧に遊んだと考えられ、のち、天保三大家の一人と称された鳳朗(鶯笠)に出会ってからは、その熱心な門人となった。芭蕉百五十回忌の記念として、八幡宮社前に鳳朗の揮毫による芭蕉句碑を建立。その後も生涯にわたって俳諧宗匠・寺子屋宗匠として地域の啓蒙に努めた。矢口家の蔵書には当主による書写年代の書き入れのあるものが多数あり、本稿はそれをもとに矢口一彡の活動を年譜形式にまとめたものである。一彡による集書は、実際につながりのあった人々との俳諧活動などの交流を通じたものが多く、収蔵された俳書や句稿は、在村文化の様相を知る上でも有益である。Yaguchi Issan (1787-1873) succeeded the Sinto priest of Yawatahachiman-gu shrine in Gunma Prefecture. He not only made his best endeavors for the improvement of Sinto priests’ rights, but also lived actively as a teacher of haikai. At the beginning of his career, as a member of the Heika-an group in his hometown, Takasaki, Issan enjoyed Tentori-haikai. Tentori-haikai is a kind of haikai competition that awards prizes to three excellent participants who attain the highest scores.Later when he met Horo, one of the three great haiku poets in Tempo period, he became an eager pupil. To commemorate the 150th anniversary of Basho’s death, Issan erected Basho’s stone tablet in front of Yawatahachiman-gu shrine. The stone was inscribed with Basho's haiku in Horo's handwriting. Throughout his life, he dedicated himself to educating the people of the local areas as a haikai teacher and also as a Terakoya teacher. In this paper, I made a chronology of Issan's life by studying his signatures and memos which he wrote in his collection of books.