著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.1-20, 2019-03-31

いわゆる古本節用集は室町時代中頃に成り、『日葡辞書』は一六〇三年に成立している。ちかい時期に成ったこれら二つの辞書体資料は、室町時代の日本語の観察に使われることが少なくない。特に『日葡辞書』は見出しとして採用した日本語をアルファベットで書いているために、漢字や仮名で書いた場合にはわからない発音がわかる文献として重視されてきた。 標準語形の周囲を(場合によっては)複数の非標準語形がとりまいているというモデルを考えた場合に、非標準語形をどの程度辞書体資料が見出しとするかは、当該辞書体資料の編纂者、編纂目的等によって異なることが推測できる。そうであれば、『日葡辞書』がつねに「万能」ということにならないことはいうまでもない。『節用集』は(必須ではないにしても)見出しとして採用している漢字列に振仮名を施すことが多い。その振仮名は、書写原本のそれを踏襲することももちろんあろうが、書写者が自らの発音に基づいて施すこともあったと推測できる。『節用集』の振仮名は多様で、当該時期の非標準語形が振仮名として施されていることが少なくないことを具体的に指摘し、『日葡辞書』と『節用集』とを併せて観察することが室町時代の日本語研究には必要なことを指摘した。"Setsuyo-shu" is a Japanese dictionary that was completed in mid-Muromachi period, and "Nippo-jisho" is a Japanese dictionary completed in 1603. The two dictionaries have been used frequently to analyze the Japanese language of the Muromachi period. The word entries of "Setsuyo-shu" were written in kanji (Chinese characters) that are often attached with Japanese syllabaries. The word entries of "Nippo-jisho" were written in alphabetical order, interpreted in medieval Portuguese. Since the entries of "Nippo-jisho" were written in alphabet letters, it was possible to know the pronunciation of the Japanese words, unlike words written in Chinese characters or Japanese syllabaries. For example, if the Chinese character「洗濯」is written, the pronunciation of the word is unknown. However, if the word is written in the Jesuit form of alphabet " xendacu," then the pronunciation "sentaku" would be clear. Because of this, in the analysis of the Japanese language during the Muromachi period, there is a possibility that the "Nippo-jisho" was the best well-grounded choice. There are standard kinds of word forms and nonstandard kinds of word forms. In this paper, a model in which some nonstandard kinds of word forms surround the standard kinds of word forms was approached. The fact that not all of these nonstandard kinds of word forms were used as entry words in the "Nippo-jisho" is specifically indicated by comparing the entry words in the "Setsuyo-shu." Several nonstandard kinds of words often appear in the "Setsuyo-shu." The observation of the Japanese language during the Muromachi period will be made more precise with the use of "Nippo-jisho" and by placing the complete "Setsuyo-shu" as a document that reflects the "sway" of a language.
著者
愛甲 雄一 Yuichi AIKO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.147-164, 2020-03-31

一般に国際政治学の中で多数派支配を意味する共和政は、平和と結び付けて語られることが多い。そうした語りを行なった人物の代表的事例がカントであるが、しかし『法の精神』の著者として知られるモンテスキューも、実は同様の指摘を行なっている。ただ国際政治学の中では長い間、このモンテスキューの議論はほとんど取り上げられないままに放置されてきた。そこで本稿では、この研究上の空白を埋めることを通じて、共和政の対外的関係というテーマを今後再考するための足掛かりを得ることを目指したい。 実はモンテスキューの主張は、カントのように、共和政それ自体を平和的と見なすものではない。この政体と対外的な好戦性とは本来矛盾する、というのが彼の見解であり、その理由として、共和政国家が論理的に小国でなくてはならないことが挙げられている。モンテスキューによれば、共和政が持続するためには、私益よりも公益を優先する「徳」が人びとの間に備わっていなければならない。だが徳の維持は大国であるほど難しく、ゆえに共和政は、領土拡大を旨とする好戦的姿勢と両立させることが困難である。こうして対外的な平和の追求が、共和政の維持にとっての必要条件になる。 ところが共和政の歴史は、この政体が好戦的になり得ることを示してきた。実際、マキャヴェリを始めとするモンテスキュー以前の共和主義者たちは、主にローマの事例から、共和政を好戦的あるいは膨張主義的な政体と位置付けていたのである。しかしモンテスキューからすれば、ローマの帝国化は「歴史の偶然」に過ぎず、それと共和政との間に必然的な関係は存在しない。ただ共和政が大国化し得ることは否定できない歴史上の事実であり、だからこそそれを防ぐために、幾つかの策を講じる必要がある。その防止策として彼が提示したのが、以下に挙げる3つの方策であった。すなわち、小国である共和国が連合してその防衛力を拡大させる「連合共和国」を結成すること、専制への防波堤としての自由な制限政体を保持すること、そして「商業の精神」の普及によって平等な社会状態を維持すること、の以上3点である。 今日、行き詰まりを見せる現代社会への処方箋として、「共和主義」の再興を唱える向きは少なくない。だが、共和政の対外的関係というテーマに関して言えば、この点をめぐる現代の共和主義者たちの関心は相対的に希薄なままに留まっている。本稿が示すモンテスキューの国際政治理論は、この文脈において、重要な示唆や知見を与えるものとなるのではあるまいか。

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著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.1-22, 2020-03-31

漢字には「楷書体」「行書体」「草書体」の三つの「書体」がある。日本においては、「楷書体」をくずしたものが「行書体」で、「行書体」をくずしたものが「草書体」ととらえることが多い。しかし「くずす」ということは明確に定義されていない。本稿では、漢字の「草書体」をさらにくずしたものが「平仮名」であると位置付けた。そして、「楷書体」「行書体」「草書体」「平仮名」を、3・2・1・0と数値化して、これらの「書体」を説明することを提案した。これまでの研究においては、「書体」について説明することばがなかったので、この提案は有効なものと考える。In Japanese, there are three terms used to refer to the different styles of writing kanji characters: kaishotai (楷書体), gyōshotai (行書体), and sōsyotai (草書体). "Standard," or "noncursive" kaishotai characters that have been "broken" (くずした) are referred to as gyōshotai, and gyōshotai characters that have been futher "broken" are referred to as sōsyotai. However, the matter of "breaking" (くずす) kanji characters has not yet been adequately clarified. Therefore, this paper uses the term hiragana (平仮名) to refer to sōsyotai characters that have been futher "broken." it assigns the numbers 3, 2, 1, 0, respectively, to characters that are written in the kaishotai, gyōshotai, sōsyotai, and hiragana styles. Since in previous studies there has been no word to adequately clarify the notion of shotai (書体, handwiriting style) this proposal is considered to be valid.
著者
荒尾 禎秀 Yoshihide ARAO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
pp.23-40, 2020-03-31

近世から近代にかけて刊行された漢文資料の中には、補読のための訓点の他に本行の漢字語の左側に振仮名のようにして訳解を付したものが少なからずある。この訳解の性格については、その付された漢字語の意味内容を補足するものだとされることが多い。しかしその証明は十分ではなく、訳解の性格や機能については未だ十分には明らかにされていない。本稿は、この訳解が口語的性格を持つことを確認した。 用いた資料は、中国版本を江戸時代後期に和刻した『福恵全書』である。その漢字語の左側に付された訳解に出現する助詞「ヘ」の多くが、同じ漢字語の漢文訓読としての助詞は「ニ」であることを指摘した。これまで、近世江戸言葉では口語に於いて助詞「ヘ」の使用は格助詞「ニ」の領域を著しく浸蝕していることが明らかにされている。『福恵全書』での事実もそれと軌を一にしている。ここから両者を重ね合せると、訳解に用いている助詞は漢文訓読の伝統的な助詞の用法に対して口語によるものであると考えられる。
著者
今野 真二 Shinji KONNO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
2018-03-31

本稿では十六世紀半ば頃に編纂された「いろは分類」を採る辞書体資料である『運歩色葉集』を採りあげ、「同一と思われる見出しが異なる双つの部に掲げられる」「双掲」という現象に着目した。『運歩色葉集』は「ゐ・え・お」を部としてたてておらず、これらをそれぞれ「い・ゑ・を」部に併せ、全てで四十四部をたてる。したがって、多くの和語は「双掲」されない。「双掲」されている見出しの数は必ずしも多くはないが、拗音、長音が含まれている語がほとんどである。拗音、長音は、室町末期頃までには日本語の音韻として確立していたと考えられており、そうした音韻を含む漢語は、十六世紀半ばにおいても、仮名による「書き方」が揺れていなかった可能性がたかい。漢語は漢字で書くことが標準的であり、漢語の全形を仮名で書くことは必ずしも多くはない。したがって、漢語をどのように仮名で書くかということ自体が、和語と同様に関心事であったとは考えにくい。室町末期頃までに編まれた仮名遣書も、漢語を採りあげることは少ない。そうしたことが、仮名による漢語の書き方が揺れる一因となったことはいえようが、『運歩色葉集』における見出しの「双掲」は「二つの書き方」のどちらからでも求める見出しにたどりつけるための「工夫」といってよい。 In this paper, "Unpoirohashu", title of a dictionary which was edited around 1547, is the focus of analysis. In this dictionary, words that begin with "i" is placed in the "i grouping" just as the entry words are in "iroha" (Japanese alphabetical) order. However, around 1547 the distinction of pronunciation had already disappeared. "I" (い・ゐ) "e" (え・ゑ) "o" (お・を) were grouped in one section, and within that section there were the "i" grouping, "e" grouping, and "o" grouping. In total, there were 44 groupings. Thus, until around 1547 words written with "i" (い~) and (ゐ~) were all in the "i" grouping and those who used the dictionary did not have the problem of finding the words, as one word was not divided into two separate groupings. However, the word "youshou" was found in the "e" (えの部) grouping and "yo" (よの部) grouping. It is assumed that this happened because during those days the same words were written in two different ways "euseu" and "youseu". Such phenomenon is called "soukei". It was pointed out that "soukei" suggests that there were two different ways of writing this word. This writing of one word expressed in two ways can be regarded as "Multi-Expressive Notation System" (Tahyoukisei Hyouki System). Until now the "Multi-Expressive Notation System" was thought to have been administered in the Edo period, but this research highlighted that the previous stage of this system had already been developed before then in the 16th century.
著者
松本 隆 Takashi MATSUMOTO 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = BULLETIN OF SEISEN UNIVERSITY RESEARCH INSTITUTE FOR CULTURAL SCIENCE (ISSN:09109234)

明治の初めから半ばにかけて、心学道話を日本語学習用に加工した教材が相次いで出版された。この時期は、上方語の威信が失墜し、それに代わり東京語に基づく標準的な日本語が形成されていく時期と重なる。小稿は『鳩翁道話』や『心学道の話』を素材とする教材5種の調査をした。両素材は講述筆録であるため話し言葉を学ぶのに向く反面、幕末の刊行で上方語の特徴が濃厚なため新時代の標準モデルにふさわしくない面もある。これら要注意な表現に対し、各教材は注釈を加えたり、上方的でない表現を本文に選ぶなどの処置をとっている。各教材の上方語に対する姿勢は刊行時期によって異なる。早い時期の教材は、東西の言語的な差異を念頭におきつつも、上方語を依然有力な同時代語と捉えている。いっぽう刊行時期が遅くなると、東京語に重心が移りそこを基軸に、距離をおいて上方語を観察する姿勢に変わる。西から東への言語規範の推移は、表面的には刷新に見えるが、根幹においては継承であることを、教材編者ら見識ある非母語話者は心得ていた。そのため旧来の素材からでも新時代に対応しうる言語形式を吸収できたのである。
著者
金田 房子 玉城 司 Fusako KANATA Tsukasa TAMAKI 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.21-37, 2019-03-31

玉城司の所蔵する礫亭文庫には、越後魚沼の富農で俳諧を愛好した増田二川旧蔵の俳書約五十点や当時の著名職業俳諧師からの二川宛書簡などが所蔵されている。天保の三大家の一人としてあげられる鳳朗は何度も越後に足を運んでおり、両者の深い交流がこれらの資料から見えてくる。 本研究は地方の文化人の俳諧活動と、諸国を行脚した著名な職業俳諧師との交流の様を明らかにすることを目的とするが、その具体例の一つとして、本稿では二川旧蔵資料を取り上げ、二川と鳳朗との関わりを書簡の記述も読み解きつつ紹介する。併せて二川関連以外の同文庫所蔵の鳳朗関係資料も紹介し、その活動を跡づけることにしたい。The Rekitei Library, owned by Tamaki Tsukasa, houses a collection of written materials that previously belonged to Jisen, who was an affluent farmer and haikai-lover in Uonuma, Niigata during the late Edo period. This collection contains about fifty haikai books and a number of letters addressed to Jisen from the renowned professional haikai poets of the age. The documents reveal that Hōrō, one of the three great haikai poets, frequently visited Niigata and closely interacted with Jisen. This research aims to shed light on the literary activities of the local intellectuals, as well as the interactions among prominent professional haikai poets who traveled around the country. For instance, it uncovers the relationship between Jisen and Hōrō through a close examination of the written materials once owned by the former and the letters the two exchanged. In addition to Jisen-related texts, it also introduces the documents concerning Hōrō, tracing his accomplishments.