著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.103-117, 2015-03-31

本稿は、J・バトラーの一九八〇年代における身体論を考察する。バトラーの代名詞といえる『ジェンダー・トラブル』における理論的観点は一挙に形成されたわけではない。それは八〇年代における思索を通じて、ゆっくりと形成されたのである。八〇年代のバトラーにとって、第一義的な問題は身体であり、ジェンダーもそのような思索の延長にある。身体とは何か、身体の問題にいかにアプローチすべきかという問題は、八〇年代のバトラーを悩ませた大きな問題であった。この問題へのアプローチは八〇年代を通じて、「現象学からフーコーへ」の移行として描くことができる。逆にいえば、現象学との対決は『ジェンダー・トラブル』におけるバトラーの理論を生み出すうえでひじょうに重要な契機だった。本稿では、私たちはバトラーの思索において現象学が果たした役割を明らかにし、それがいかにフーコーの系譜学へと移行するかを示したい。This paper examines Judith Butler's thought regarding the body in the 1980s. Her theoretical perspective in Gender Trouble (1990) which has become a synonym for Butler, was not created at once. It was gradually formed thorough her speculations during the 1980s. In this paper, we show how her theory in Gender Trouble had been created through her thought in the 1980s. For Butler in the 1980s, the primary problem is the body, where gender is a facet of the problem. What is the body? How should we approach the body? These questions are the problems Butler engages in the 1980s. We can trace her approach to the body in the 1980s as the turn "from phenomenology to genealogy." In turn, her confrontation with phenomenology played a very important part in the establishment of her theory in Gender Trouble. Butler fi rst found phenomenology a method for approaching the body, redefining genealogy as theorized by Foucault, thorough her later critique of phenomenology, at least in 1989. In this paper, we illustrate the role played by phenomenology in Butler's thought in the 1980s, and how she shifts from phenomenology to genealogy.
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.34, pp.163-180, 2013

ジュディス・バトラーがスピノザの熱心な読者であるということはあまり知られていない。しかし、スピノザは彼女にとってきわめて重要な思想家である。実際、彼女は『ジェンダーをほどく』(2004)で「スピノザのコナトゥス概念は私の作品の核心でありつづけている(198 頁)」と述べている。本論はこの言葉の意味を明らかにしようとするものである。バトラーがスピノザの『エチカ』に最初に出会ったのは思春期に遡る。その後、彼女はイェール大学の博士課程でヘーゲルを通して間接的にスピノザと再会する。この二番目の出会いは、彼女の学位論文『欲望の主体』(1987)を生み出すことになる。最後に、このスピノザからヘーゲルへの移行によって、彼女は「社会存在論」を確立することができた。バトラーの著作におけるスピノザのコナトゥス概念に着目することで、私はこれらの運動を明らかにするだろう。そして、このような考察を通して、バトラーの思想においてコナトゥス概念が持つ意味も明らかになるだろう。It is not well known that Judith Butler is an avid reader of Spinoza. However, Spinoza is a very important philosopher for her. Indeed, she said in Undoing Gender (2004) "the Spinozan conatus remains at the core of my own work (p.198)." This paper tries to elucidate the meaning of this sentence. Butler rst encountered Spinoza's Ethics during her adolescence. Afterwards, she indirectly met Spinoza again through Hegel during her doctoral studies at Yale University. This second encounter led to the production of her dissertation, Subjects of Desire (1987). Finally, by this journey from Spinoza to Hegel, she could establish "social ontology." I will make these movements clear by paying attention to the Spinozan conatus in Butler's works and we can understand what is meant by conatus in Butler's thought.
著者
藤高 和輝 Fujitaka Kazuki フジタカ カズキ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.163-180, 2013-03-31 (Released:2013-03-31)

ジュディス・バトラーがスピノザの熱心な読者であるということはあまり知られていない。しかし、スピノザは彼女にとってきわめて重要な思想家である。実際、彼女は『ジェンダーをほどく』(2004)で「スピノザのコナトゥス概念は私の作品の核心でありつづけている(198 頁)」と述べている。本論はこの言葉の意味を明らかにしようとするものである。バトラーがスピノザの『エチカ』に最初に出会ったのは思春期に遡る。その後、彼女はイェール大学の博士課程でヘーゲルを通して間接的にスピノザと再会する。この二番目の出会いは、彼女の学位論文『欲望の主体』(1987)を生み出すことになる。最後に、このスピノザからヘーゲルへの移行によって、彼女は「社会存在論」を確立することができた。バトラーの著作におけるスピノザのコナトゥス概念に着目することで、私はこれらの運動を明らかにするだろう。そして、このような考察を通して、バトラーの思想においてコナトゥス概念が持つ意味も明らかになるだろう。 It is not well known that Judith Butler is an avid reader of Spinoza. However, Spinoza is a very important philosopher for her. Indeed, she said in Undoing Gender (2004) “the Spinozan conatus remains at the core of my own work (p.198).” This paper tries to elucidate the meaning of this sentence. Butler rst encountered Spinoza’s Ethics during her adolescence. Afterwards, she indirectly met Spinoza again through Hegel during her doctoral studies at Yale University. This second encounter led to the production of her dissertation, Subjects of Desire (1987). Finally, by this journey from Spinoza to Hegel, she could establish “social ontology.” I will make these movements clear by paying attention to the Spinozan conatus in Butler’s works and we can understand what is meant by conatus in Butler’s thought.
著者
藤高 和輝 Fujitaka Kazuki フジタカ カズキ
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.71-86, 2016-03-31

Judith Butler is well known as a feminist and queer theorist. Also, her thought is understood to have been infl uenced by poststructuralism. However, her philosophical background also includes Hegelian philosophy. Indeed, her academic career started from a study of Hegel, which was published as Subjects of Desire: Hegelian Refl ections in 20th Century France (1987). In this sense, it can be said that Hegelianism is an indispensable to comprehending her thought. Thus, we must elucidate how Butler interprets Hegel, and how her Hegelian background is linked to her own theory from Gender Trouble (1990) on. Therefore, this article examines Butler's Hegelianism, focusing on a reading of Subjects of Desire. From the fi rst to third sections, I clarify the "Hegelian subject" Butler describes in Subjects of Desire. In the fourth section, I prove that the Hegelian subject is structuralized by melancholy. Through these discussions, I would like to suggest a connection between Butler's early work on Hegel and her theory of melancholy after Gender Trouble.ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの転覆』(1990年)の出版によってフェミニスト/クィア理論家として知られ、またその思想はポスト構造主義に連なるものとして理解されている。しかし、バトラーの思想的バックグラウンドはヘーゲル哲学にある。バトラーのキャリアはヘーゲル哲学研究に始まり、へーゲル哲学を扱った彼女の博士論文は一九八七年に『欲望の主体―二〇世紀フランスにおけるヘーゲル哲学の影響』として出版されることになる。この意味で、「バトラーのへーゲル主義」は彼女の思想を理解する上で欠くことのできない視角である。したがって、『欲望の主体』におけるバトラーのヘーゲル解釈がどのようなものであり、それが『ジェンダー・トラブル』以後のバトラー自身の思想にどのような影響を与えたのかが考察されなければならない。そこで本稿では、バトラーの『欲望の主体』を中心に「バトラーのへーゲル主義」を考察する。第一節から第三節では、バトラーが描く「へーゲル的主体」とは何かを明らかにする。第四節では、バトラーが提示した「ヘーゲル的主体」がメランコリーの構造をもつものであることを論証する。それによって、初期のへーゲル論と『ジェンダー・トラブル』以後のメランコリー論の架橋を図りたい。
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.71-86, 2016-03-31

ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの転覆』(1990年)の出版によってフェミニスト/クィア理論家として知られ、またその思想はポスト構造主義に連なるものとして理解されている。しかし、バトラーの思想的バックグラウンドはヘーゲル哲学にある。バトラーのキャリアはヘーゲル哲学研究に始まり、へーゲル哲学を扱った彼女の博士論文は一九八七年に『欲望の主体―二〇世紀フランスにおけるヘーゲル哲学の影響』として出版されることになる。この意味で、「バトラーのへーゲル主義」は彼女の思想を理解する上で欠くことのできない視角である。したがって、『欲望の主体』におけるバトラーのヘーゲル解釈がどのようなものであり、それが『ジェンダー・トラブル』以後のバトラー自身の思想にどのような影響を与えたのかが考察されなければならない。そこで本稿では、バトラーの『欲望の主体』を中心に「バトラーのへーゲル主義」を考察する。第一節から第三節では、バトラーが描く「へーゲル的主体」とは何かを明らかにする。第四節では、バトラーが提示した「ヘーゲル的主体」がメランコリーの構造をもつものであることを論証する。それによって、初期のへーゲル論と『ジェンダー・トラブル』以後のメランコリー論の架橋を図りたい。
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.103-117, 2015-03-31

本稿は、J・バトラーの一九八〇年代における身体論を考察する。バトラーの代名詞といえる『ジェンダー・トラブル』における理論的観点は一挙に形成されたわけではない。それは八〇年代における思索を通じて、ゆっくりと形成されたのである。八〇年代のバトラーにとって、第一義的な問題は身体であり、ジェンダーもそのような思索の延長にある。身体とは何か、身体の問題にいかにアプローチすべきかという問題は、八〇年代のバトラーを悩ませた大きな問題であった。この問題へのアプローチは八〇年代を通じて、「現象学からフーコーへ」の移行として描くことができる。逆にいえば、現象学との対決は『ジェンダー・トラブル』におけるバトラーの理論を生み出すうえでひじょうに重要な契機だった。本稿では、私たちはバトラーの思索において現象学が果たした役割を明らかにし、それがいかにフーコーの系譜学へと移行するかを示したい。
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.163-180, 2013-03-31

ジュディス・バトラーがスピノザの熱心な読者であるということはあまり知られていない。しかし、スピノザは彼女にとってきわめて重要な思想家である。実際、彼女は『ジェンダーをほどく』(2004)で「スピノザのコナトゥス概念は私の作品の核心でありつづけている(198 頁)」と述べている。本論はこの言葉の意味を明らかにしようとするものである。バトラーがスピノザの『エチカ』に最初に出会ったのは思春期に遡る。その後、彼女はイェール大学の博士課程でヘーゲルを通して間接的にスピノザと再会する。この二番目の出会いは、彼女の学位論文『欲望の主体』(1987)を生み出すことになる。最後に、このスピノザからヘーゲルへの移行によって、彼女は「社会存在論」を確立することができた。バトラーの著作におけるスピノザのコナトゥス概念に着目することで、私はこれらの運動を明らかにするだろう。そして、このような考察を通して、バトラーの思想においてコナトゥス概念が持つ意味も明らかになるだろう。
著者
藤高 和輝 フジタカ カズキ Fujitaka Kazuki
出版者
大阪大学大学院人間科学研究科 社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.73-87, 2014-03-31

ジュディス・バトラーにとって、スピノザは重要な思想家である。実際、バトラーは『ジェンダーをほどく』(2004年)で「スピノザのコナトゥスは私自身の作品の核心でありつづけている」(Butler 2004, 198)と述べている。それでは、いかなる意味でスピノザのコナトゥスはバトラーの哲学の「核心」にあるのか。本論文は、前回の論文「ジュディス・バトラーにおけるスピノザの行方(上)―「社会存在論」への道」に引き続きこの問題を考察するものであり、とりわけバトラーの「倫理学」に焦点を当てて探求するものである。私たちはこれらの考察の結果、バトラーの倫理学においてコナトゥスが基盤的な役割を担っていること、また、スピノザの徳がバトラーの考える倫理のモチーフのひとつであることを見出すことになるだろう。