著者
岸上 伸啓 キシガミ ノブヒロ Nobuhiro KISHIGAMI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2006-03-24

本論文はカナダ極北地域に住む先住民イヌイットの食物分配に関する文化人類学的研究である。本研究の目的は、1980年代から2001年頃までを対象としてケベック州極北部ヌナヴィク地域のアクリヴィク村においてイヌイットがいかなる理由で、どのように食物を分配し、それがどのような社会的な効果や機能を生み出しているかに関して、社会変化や社会関係と関連づけながら記述し、分析することである。その上で、変化しつつあるイヌイット社会において食物分配の実践が果たしてきた役割について考察する。 本論文は6章からなる。第1章では、本論文の目的を述べた後、論文全体の概要について述べる。第2章では、食物分配とは何かを定義した後、イヌイットをはじめとする狩猟採集民社会における食物分配に関する研究を、社会・人類学的研究と生態学的研究(生態人類学と進化生態学)に大別して整理をする。その上で、本論文で取り扱う問題を設定し、この研究の学術的な意義や仮説について述べる。本研究の仮説はイヌイット社会の経済的変化が急激に進む中で、食物分配の実践を通してイヌイットの社会関係が再生産されてきたというものである。そして本章の最後では、現地調査について概略する。 第3章は、本論文の調査対象地であるカナダ・ヌナヴィク地域ケープ・スミス島周辺の自然環境と歴史について記述する。ここでは、現在のイヌイット社会が世界システムや国家の中に包摂され、その一部として存在していることを強調する。 第4章では、1980年代から2000年にかけてのアクリヴィク村の経済構造を貨幣経済と生業経済の点から概略した後に、アクリヴィク村の家族・親族、世帯、キャンプ集団、村落構造、婚姻制度、養子縁組制度、同名者関係、助産人関係、友人関係について記述する。 第5章では、アクリヴィク村において観察された食物分配の全体像を提示した後、ハンター間の獲物の分配、ハンターから村人への獲物や食物の分配、村人間での食物分配、村における食事を通しての食物分配、キャンプ地における食物分配、村全体での共食会、村外との食物分配、そのほかの食物分配や交換、そしてケベック州ヌナヴィク地域で1980年代半ばに創設されたハンター・サポート・プログラムとそれを利用した村全体での食物分配の諸事例を紹介する。そのうえで、これらの食物分配の特徴、その時間的な変化と連続性について述べる。 第6章では、現在のイヌイット社会の食物分配の特徴や内容を、本論文で提起した食物分配の新たな類型に基づきながら検討する。また、アクリヴィク村の事例を用いて、狩猟採集民社会の食物分配の研究から引き出されてきたいくつかの仮説を検討することにより、現代のイヌイットの食物分配の特徴を指摘する。さらに、イヌイットが食物分配の実践を通していかに拡大家族関係や同名者関係などの社会関係を再生産してきたことを検討する。そのうえで、本研究から引き出された結論を要約する。 本論文の結論は、以下の通りである。 (1)アクリヴィク村の食物分配には、基本形として「分与」、「交換」、「再分配」が存在している。さらにハンター・サポート・プログラムによる分配や村全体での共食は、ボランニーの「再分配」の形態である。アクリヴィク村の事例に基づくと、イヌイットの食物分配の中心は、「交換」ではなく、「分与」や「再分配」である。 (2)アクリヴイク村の事例では、「狩猟採集民の分配は分与である」とするバード=デイヴイッドの説(Bird・David1990)や「狩猟採集民の食物分配は再分配である」とするウッドバーンの説(Woodburn1998)をある程度支持している。食物分配を食物の「交換」として理解し、食物分配の形態と社会的な距離との関係をモデル化したサーリンズのモデル(Sablins1965)に関しては、全体的な傾向としてアクリヴィク村の事例はモデルを支持するものの、大型動物の肉の分配(分与)や老人・寡婦・病人への食物分配(分与)は親族関係の有無に関係なく実践されているため、モデルの反例となる事例が存在している。 (3)アクリヴィク村の事例に基づくと、イヌイットの現在の食物分配の機能には、1)カントリー・フードを入手する手投としての機能、2)世帯間での食物の平準化機能、3)食物分配には既存の社会関係を確認し、維持する機能や、食物分配を意図的にしないことによって既存の社会関係を壊す機能、4)ハンターが分与の実践によってコミュニイティー内から社会的な名声や敬意を獲得する手段としての機能、5)文化的な価値観を実現させるという精神的な満足機能、6)コミュニティー意識やエスニック・アイデンティティーの生成・維持機能などがある。このように現在のアクリヴィク村の食物分配は複数の機能を持ち合わせた実践である。特に、食物分配は、食料を必要とする人にとって有利に働く実践である。 (4)アクリヴィク村のイヌイットの食物分配の大半は、親族関係や同名者関係など社会関係に沿った実践であるが、共労、場の共有(コミュニティーの成員であること)、弱者(もたざる者)であること、政治協定による′公認条件など社会関係以外の要因に基づく食物分配が存在する。そして食物分配の実践は、拡大家族関係など社会関係やコミュニイティー意識を確認させ、再生産させる。 (5)地域的にも、時間的にも極北地域のユピート・イヌイット社会における食物分配の形態や機能には差異が見られる。ヌナヴイク地域のアクリヴィク村の事例は、政治協定によって制度化された食物分配を実践している点ではユニークであるが、大半の食物分配が拡大家族関係に沿って実践されている点や「分与」や「再分配」の形態が主流である点では、ほかの地域の事例と共通点が認められる。 (6)食物分配は社会関係や世界観と深く相互に結びついているため、食物分配の衰退は拡大家族関係や世界観の変化などを生み出す原因のひとつになると考える。アクリヴィク村の事例のように新たな食物分配が制度化されたとしても、村人の狩猟・漁労活動が低下すれば、それに連動しながら食物分配の頻度が低下し、分配の範囲が狭まる可能性がある。 (7)現在のヌナヴィク地域のイヌイットは、国家や貨幣経済(世界経済システム)の中に取り込まれているが、カナダ政府やケベック州政府との政治交渉と協定を通して新たな社会を構築してきた。本論文ではその一例として、ヌナヴィク地域のイヌイットは、政治交渉を通して国家や州政府とうまく折り合いをつけ、国家や州政府が提供する制度や資金を利用しつつ、食物分配を実践し続けることによって、彼らの生活を組織する上で核となる社会関係を再生産させてきたことを例証した。カナダの先住民イヌイットの社会は、「国家に抗する社会」や「国家に抗せなかった社会」ではなく、「国家を受け入れ、利用した社会」である。
著者
岸上 伸啓 Nobuhiro Kishigami
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.35, no.3, pp.399-470, 2011-02-25

文化人類学者は,さまざまな時代や地域,文化における人類とクジラの諸関係を研究してきた。捕鯨の文化人類学は,基礎的な調査と応用的な調査からなるが,研究者がいかに現代世界と関わりを持っているかを表明することができるフォーラム(場)である。また,研究者は現代の捕鯨を研究することによってグローバル化する世界システムのいくつかの様相を解明し,理解することができる。本稿において筆者は捕鯨についての主要な文化人類学研究およびそれらに関連する調査動向や特徴,諸問題について紹介し,検討を加える。近年では,各地の先住民生存捕鯨や地域捕鯨を例外とすれば,捕鯨に関する文化人類学的研究はあまり行われていない。先住民生存捕鯨研究や地域捕鯨研究では日本人による調査が多数行われているが,基礎的な研究が多い。一方,欧米人による先住民生存捕鯨研究は実践志向の研究が多い。文化人類学が大きく貢献できる研究課題として,(1)人類とクジラの多様な関係の地域的,歴史的な比較,(2)「先住民生存捕鯨」概念の再検討,(3)反捕鯨NGO と捕鯨推進NGO の研究,(4)反捕鯨運動の根底にある社会倫理と動物福祉,およびクジラ観に関する研究,(5)マスメディアのクジラ観やイルカ観への社会的な諸影響,(6)ホエール・ウォッチング観光の研究,(7)鯨類資源の持続可能な利用と管理に関する応用研究,(8)クジラや捕鯨者,環境NGO,政府,国際捕鯨委員会のような諸アクターによって構成される複雑なネットワークシステムに関するポリティカル・エコロジー研究などを提案する。これらの研究によって,文化人類学は学問的にも実践的にも捕鯨研究に貢献できると主張する。