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『河内名所図会』の織女石(星田妙見宮) https://t.co/Fkat3ugRnI
https://t.co/53VZkwJw08 『河内名所図会』に描かれている橋はこの橋だから、逢合橋とは関係がない。 https://t.co/JOhokAKT4J
『椿井文書』(2020)P.222が融通念仏寺縁起とする逢合橋が「天ノ川橋」なら(『私部村田畑絵図帳』(1762)) https://t.co/SNpf2xa4gV 、 河内名所図会に描かれている橋 https://t.co/SRNfujpxjI は観光ガイド本の想定図かしら? 天野川が淀川へ入る河口に架かる橋の名前が記録された古文書が見つからない https://t.co/g9uJcQujRG
橋の名前が書いてない。 これも「天ノ川橋」だろうか? それとも参勤交代時の「天ノ川仮橋」なのだろうか? 「天川 新古 かりくらし かた野の 真柴をりしきて 淀の川瀬の 月をミるかな 左近衛中将公衡 彦ほしよ これ ひらかたの 馬やらふ 浪花 大江丸」河内名所図会 6巻 https://t.co/JmUVlFtbnG
字観音寺が「(枚方驛の)公館=御茶屋」と書かれてるけど https://t.co/2MRfN9Cxrc 実際は現・跡地と現・墓地の旧地のどちらにあったんだろう? https://t.co/hOnenog9wM 一条寺の記録 https://t.co/agagNwUSW1 「百済王氏末裔で本多善光末裔の本多内膳正政康 https://t.co/QJ1GoLKEMQ 」は謎めいてる
1801年河内名所図絵は河内国交野郡式内社片野神社は坂村「交野神社」御祭神は牛頭天王と https://t.co/XiERHXge4q 椿井文書メモ
磐船 https://t.co/XiBf4Uxmrr 4村分霊で星田村へ住吉四神が来て元々あった交野社(古宮)が小社になったは古老の口伝で史実か伝承かは不明。 1704~1711年頃「星田神社……祭神は住吉四神……交野社あり、饒速日命を祀り一般に古宮……宝永年間……」 P.336,交野町史改訂増捕二,1963 椿井文書メモ
@historian_chop 河内名所図絵の碑文の中の「交野神社」ではなく本文なのですか? https://t.co/XiERHXge4q 椿井文書メモ https://t.co/ZIYgJeEE5X
「交野大明神」が出てくるのは お寺の修正月勸請神名帳。 それ以外の記載は1843年星田村明細書「,末社交野大明神小社,」しか見つけられない。 式内社は「片野神社」。 交野神社と書いたのは1801年『河内名所図絵』中の寛政8(1796)年碑文。 https://t.co/XiERHXge4q 椿井文書メモ https://t.co/3unTE3K2ie
@historian_chop 1735年幕府の五畿内志が「片野神社…在坂村 今稱 一宮」 https://t.co/VwyZLQTKXG と書き 1801年河内名所図絵が「交野神社…坂村…牛頭天王」 https://t.co/XiERHXge4q と書き 1813年,神名帳考証土代,伴信友が「片野神社 在坂村 今稱 一宮」 https://t.co/hMlBaSFsOJ と追認した後で 椿井文書メモ
ちなみにこの碑文は『河内名所図会』にも収録されている。https://t.co/CS2lIJ1vEP
星田妙見宮(妙見神祠)の織女(たなばた https://t.co/gAFVAUgjH0 )石が 江戸時代の本 https://t.co/Fkat3ugRnI に載っている。 日本の #七夕 天稚彦草子絵巻(ベルリン国立東洋美術館)は後花園天皇時代(1428-1464年) だそう https://t.co/zgsGqfxqra https://t.co/iywVPDMM03
1801年河内名所図会6巻 「藤坂村の東北御墓谷にあり石標王仁之墓」 https://t.co/g6BjsoeHeS 椿井文書メモ7
@TaniYoko 河内名所図会6巻 「藤坂村の東北御墓谷にあり石標王仁之墓」 https://t.co/Qux3NLeH8Q 1895年前内閣府書記官長高橋健三(吟淵)と内藤湖南 https://t.co/jQru2z1LCM 1900年大日本地名辞書 「大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟」 https://t.co/p3Sulvu6vY 2005年椿井文書論文では津田の新田=藤坂
三之宮神社は『椿井文書』で馬部氏が参照した「当郷旧跡名勝誌」によれば嘉吉2年(1442年)にはあった。 一の宮と二の宮はそれ以前だろうけど https://t.co/zlE9Vp9Oop いつ頃かな? 河内名所図会 https://t.co/XiERHWY4Qi にあるように牛頭天王と帝釈天なので仏教色色濃いから、廃仏毀釈で苦労したかも https://t.co/YioClCVPWt
河内名所圖會の郡津村の梅塚・本塚 https://t.co/g8hO4C4232
中山観音寺址の牛石、星石、鏡石、牽牛石神-呼ぶ人の信仰により異なるわけで、「星田神祠(※現星田妙見宮)……土人、織女石とも妙見石とも呼ぶ、……抑、妙見尊は、神道家には天御中主尊と称じ、陰陽家には北辰星といひ、日蓮宗には妙見菩薩と仰て、」 https://t.co/Fkat3ugRnI #七夕 #椿井文書 https://t.co/MHd4UkFAQx
徳川家康も大神君と書かれるみたい。 星田村の「星田店」(五畿内志 https://t.co/DXDaLkulHi ) 「星田尊跡」(河内名所図会 https://t.co/Fkat3ugRnI ) の「大神君」とは、本来は三輪山の神の事ではないかと土地柄思う。家康の伝承も有名だけど。
河内名所図会「妙見神祠……神躰巨石三箇……土人、織女石とも妙見石とも呼ぶ。」 https://t.co/Fkat3ugRnI
「久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳」万葉集 石船=交野の磐船 https://t.co/764AcFC8iN 高津=交野の郡津(こうづ郡鬥) 天之探女=天稚彦の神話 と中世の人達は見立てて天稚彦草子を感じ取ったのかもしれないよ? 交野の天野川ほとりは七夕の和歌が沢山詠まれたし。 #椿井文書 https://t.co/JztiBfxoNK
河内国観心寺の神名帳 https://t.co/ETPemuO5De の 河内国・石舩大明神=岩舩大明神はやはり石舩巌じゃないかな https://t.co/XiBf4Ufddj 。 4か所に祭神が割れたけど河内国は天田神社と星田神社。 小松神社は星田妙見宮、 交野大明神が星田神社、 石舩大明神は石舩巌の船巌。。。
1803年星田村明細書「住吉大明神,末社天満宮」P.43,西井長和,星田懐古誌(下巻),交野詩話会,1979 河内名所図絵(1801)「交野神社……坂村 https://t.co/XiERHWY4Qi 」 1806年河内摭古小識(三浦蘭阪)「星田村住吉祠石塔正平廿一年」 #椿井文書
承前)「西宮記、交野以百濟爲検校 https://t.co/uAB4yIVQxI 」137頁,神祇全書第1輯,皇典講究所,1906 五畿内志(1735)「片野神社……坂村 https://t.co/VwyZLQBBJy 」 河内名所図絵(1801)「住吉神祠(星田神社) https://t.co/Fkat3ugRnI 」 #椿井文書
維南有箕、不可以簸揚。 維北有斗、不可以挹酒漿。 維南有箕、載翕其舌。 維北有斗、西柄之揭。 磐船神社(巌舩 https://t.co/fyMPptXxz5 )の「皚酵橋いかるがばし」 https://t.co/ooV9PKTyfM 皚-霜雪白貌 https://t.co/mUXptojTuu 酵-酒滓,酒母 https://t.co/GHcwwTJGlt
江戸時代の観光案内書・河内名所図会第6巻の妙見神祠(星田妙見宮)・織女石があり、現在「たなばたいし」としているけれど、万葉集や和歌でもそう読んでいるから、特に変ではない #七夕 https://t.co/dmjwCeHRZi
ウヒャア~これが獅子窟寺か‼ https://t.co/pOm3lJnvbG #河内名所図会
本尊薬師佛 行基の作 https://t.co/pOm3lJnvbG
@tonchi_jin 織女石(妙見石)ですね https://t.co/jCgEVY1gNr
@iwatekanbun @hageaso @gishigaku ・山城国との国境にある宇山村飛び地で #アテルイ は本当に処刑され、その埋葬地が片埜神社旧社地の牧野公園にあった牧野阪古墳(消滅)で、河内鑑名所記の祠 https://t.co/iGVPJDoheX や河内名所図会の宮寺 https://t.co/LTXw97UL5J だった など、どういう可能性が考えられるでしょうか?
1801年の河内名所図会にも小松神社(星田妙見宮)の織女石は書いてある https://t.co/dmjwCeHRZi #七夕
河内名所図会に書いてあったからではないかしら。それとも椿井政隆(1770~1837)は河内名所図会(1801)の王仁博士の墓の記述 https://t.co/8YjGC9riAj に影響を与えることができたのですか? #アテルイ @winker0013 https://t.co/GHGGS9Q9cp
中山観音寺跡の牛石(牽牛石)は祭壇のように土が盛り上がっている場所にあった。まだ測っていないのでわからないけれど、おそらく獅子窟寺の牛臥石 https://t.co/1TZ764UiWP もこの冬至の日の出線の上にあると思う。木々がなければ双方が見渡せる位置にある。昔の僧侶達は何を見ていたのだろう? https://t.co/dk47wOkr0Q
妙見山(x:-133724.961,Y:-32639.573)牛石(牽牛石)の中山観音寺跡(X:-134303.800,Y:-31635.824)天田神社(X:-135949.683,Y:-28555.385)王の墓(亀山院陵 https://t.co/1TZ764UiWP ;X:-136342.138,Y:-27837.411)、興福寺別院鶯滝宝光山歓禅院歓喜天(X:-145262.049,Y:-11363.813)は冬至日の出の線上に並ぶ https://t.co/3u0EBgSnPS
継体天皇の今城塚古墳(X:-127502.264,Y:-37035.637)、降星山光林寺の星石 https://t.co/dmjwCeHRZi (星御前;X:-136597.771,Y:-30175.611)織女石のある星田妙見宮(X:-137570.322,Y:-29444.408)、手白香皇女陵墓(X:-158764.922,Y:-13694.094)もほぼ直線で https://t.co/TsIX48aUeA
天野川水源が貝原益軒が書いた田原の里「此谷のおくに、星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也」 https://t.co/QUzqxY8E3U で、交野と田原の里は天磐舩 https://t.co/xxjHjrbtGB 伝承がある磐船で共同祭祀してた https://t.co/5rHnPX7jN0 から、馬部隆弘先生否定の七夕伝承はあるよ
天野川のある枚方・交野は河内国交野郡だけど星田妙見宮に織女石 https://t.co/dmjwCeHRZi 、機物神社祭日は七月七日 https://t.co/8YjGC9riAj 、渚の院で在原業平が七夕の詩を詠み https://t.co/nxU6m0gBv2 、漢民族系渡来人交野忌寸の本貫地となると、そういう伝承は生まれるでしょうね #アテルイ https://t.co/hyS8vv1zCz
天野川のある枚方・交野は河内国交野郡だけど星田妙見宮に織女石 https://t.co/dmjwCeHRZi 、機物神社祭日は七月七日 https://t.co/8YjGC9riAj 、渚の院で在原業平が七夕の詩を詠み https://t.co/nxU6m0gBv2 、漢民族系渡来人交野忌寸の本貫地となると、そういう伝承は生まれるでしょうね #アテルイ https://t.co/hyS8vv1zCz
んで、『日本城郭全集』による大日砦と移転前の白山神社は位置が一致(洒落ではない)するわけですが、江戸時代に刊行の『河内名所図会』には、砦に関係しそうな記載はなさそうでした(汗) 国立国会図書館デジタルコレクション「河内名所図会 六」(17コマ目に白山権現祠) https://t.co/XP2Vlm95Bq
継体天皇の本当の陵墓と言われている今城塚古墳と手白香皇女陵墓の間にあるのは、星田妙見宮(小松明神灌頂録)の織女石と降星山光林寺星御前だけど https://t.co/dmjwCeHRZi https://t.co/TsIX48aUeA
神道家は天御中主、陰陽家は北辰星、日蓮宗は妙見菩薩と呼んだそうな。そういう信仰があったんだろうけれど、他の神社でもそういうのはあったんだろうか https://t.co/dmjwCeHRZi
河内名所図会では星田妙見宮(小松神社)の旧名は「小松明神灌頂録」 https://t.co/dmjwCeHRZi 。その妙見山の一番上にあるのは稲荷神社。本地垂迹説によれば、ダキニ天だそうな。即位灌頂ではダキニ天真言をとなえるけれど何か関係があるのかないのか 。織女石(たなばたいし)の別名は妙見石で、
継体天皇の本当の古墳と言われている古墳と手白香皇女の陵墓との間にあるのが、織女石(たなばたいしby河内名所図会 https://t.co/dmjwCeHRZi )と降星山光林寺星御前神祠by「星田妙見山影向石略縁起J(小松神社蔵) https://t.co/YgtLIL469h と天野川 https://t.co/TsIX48aUeA
星田妙見宮(妙見神祠)の織女石と光林寺の星御前(星石)。妙見神祠=星田妙見宮の正式名称は小松神社だけれど、江戸時代の観光案内・河内名所図会では「旧名小松明神灌頂録」と書いてあったのに気が付いた。大嘗祭の代わりの仏式の即位灌頂の「灌頂」と、やはり関係がありそう https://t.co/dmjwCeHRZi
普見山獅子窟寺の獅子窟は金剛般若窟。巨石群の寺だから堅磐(かしわ)の寺とは言えるけれど。百重ケ原はあの辺りではある。その普見山からの冬至-交野柏原の郊祀があった日-の日の出は東大寺大仏殿から昇る。 https://t.co/pNwZF6XDNe https://t.co/BfveJQ32wn
交野柏原 https://t.co/X4ruzxrXEn 百重ケ原かしえがはら https://t.co/h681zIpOZ6 柏原かしわばら天皇 https://t.co/h2gU6piMlY 堅磐かしわ https://t.co/a0aGi4VT2a 王の墓は別名百重ガ原陵。私市駅東の花崗岩地帯? https://t.co/9OrPtsijPq
柏かしわ・はく https://t.co/XpSLyS3J3o 交野柏原 https://t.co/X4ruzxrXEn 百重ヶ原(かしえがはら) https://t.co/h681zIpOZ6 加志波良比古 https://t.co/L80YIdV7jo “難波江の、藻に埋もるる玉柏”=玉堅磐、柏=堅磐。郊祀は交野堅磐原、禁野の台地か、磐船 https://t.co/fyMPptXxz5 所轄の私市村? https://t.co/KdEHO08hAU
柏かしわ・はく https://t.co/XpSLyS3J3o 交野柏原 https://t.co/X4ruzxrXEn 百重ヶ原(かしえがはら) https://t.co/h681zIpOZ6 加志波良比古 https://t.co/L80YIdV7jo “難波江の、藻に埋もるる玉柏”=玉堅磐、柏=堅磐。郊祀は交野堅磐原、禁野の台地か、磐船 https://t.co/fyMPptXxz5 所轄の私市村? https://t.co/KdEHO08hAU
河内名所図会では杉村。全然方角が違う https://t.co/1BEE89Pxdf https://t.co/3eBIwfG6sJ
交野=百重が原。ってか、今の百重が原の定義が山際過ぎる。春日-私部-倉治-郡津-村野-鷹塚山は田園地帯。「交野なる 百重が原を つかのまも 恋ずやあらぬ 花の都を」 鴨長明 https://t.co/VIwCoQxlbs |  https://t.co/h681zIpOZ6 https://t.co/c7sU7zHse0
郊天祭祀があった交野柏原(野)。柏はかしわ、かや、かし、ヒャク、ハク。原はら、わら、わた、ばら、ばる、ゲン、ガン。枚方市の旧交野原または交野市私市を百重ケ原と河内名所図会では記載している。今は伝亀山上皇陵周辺(私市)説が、でも、 https://t.co/h681zIpOZ6 https://t.co/65bpk2ieea
@momo0078 河内名所図会の「百重ケ原」ですが、ふりがなの仮名は「かしえはら」でしょうか。「ももえはら」でしょうか? https://t.co/h681zIpOZ6
1 1 https://t.co/Xg8gEaAL0e https://t.co/DwKME6xxkt
https://t.co/q2frclJa8e このページの前から5項目目の鍛冶秦行綱宅址のところの、後ろから2行目の「秦ノ有成」ってこれまさか石切丸の作者の三條有成のことか?

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編集者: Yoko Ai
2020-04-21 14:24:32 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

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