著者
蓑輪 顕量
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.1-10, 2016-12-20 (Released:2017-10-17)
参考文献数
11
被引用文献数
5

In the 1990s, samatha and vipassanā being introduced by Theravada monks into Japan, the interest in Buddhist meditation once again arose. One remarkable aspect of this movement is that this interest was found in ordinary society, rather than in academic circles. Later, the introduction took the form of “mindfulness,” which was less in the sense of religious practice. Much later, after the 2000s, academic fields like psychology, neuroscience, and Buddhist studies came to have an interest on this field. In recent years, they have come to question the difference between the terms chi 知 and nen 念.I myself made have researched this question through materials of the Japanese Hossō School. I focused on two monks, Jippan 実範 (?–1144) and Ryōhen 良遍 (1194–1252). In a work titled Shinrishō 真理鈔, Jippan writes that “sensitive consciousness” would be called “non-consciousness” or nirvikalpa. In the Shinjin yōketsu 真心要決 of Ryōhen, he writes that “seeing without discriminating” and “hearing without discriminating” is the state of non-consciousness. To express being in such a state, he used the words shōchi 証知 or chi, not nen. Judging from this, chi seems to have been used for expressing the state of “non-consciousness.”
著者
安中 尚史
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.703-710, 2017-03-20 (Released:2018-01-16)
参考文献数
5

The Nichiren sect’s first priest to study abroad was Matsuki Bunkyō 松木文恭, a pupil of Arai Nissatsu 新居日薩. Arai promoted the modernization of Nichiren Buddhism, and Matsuki studied English in Shanghai in 1886, and later went to the U.S. In those days, Arai engaged in educational reform of the Nichiren sect and organized subjects such as English and mathematics in the educational structure of Nichiren Buddhism, aiming at educational enrichment. Moreover, he had his pupils study not only at the educational facilities of the Nichiren sect but also at Keiō Gijuku 慶応義塾. Arai recognized the educational importance of the times, and we may conclude that he had Matsuki study abroad so that his pupil could acquire Western knowledge, and pursue language study. This paper considers the conduct of Matsuki and the regulations for students from the Nichiren sect studying abroad.
著者
関戸 堯海
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.1118-1125, 2015

『立正安国論』の直接の執筆の理由は,正嘉元年(1257)から文応元年(1260)にかけて発生した天変地夭などの災害である.災難の興起の理由について日蓮は諸経典を紐解き検討した.災難の興起について論じた,これに先立つ著作として『災難興起由来』『災難対治鈔』『守護国家論』などがある.『立正安国論』は,文応元年(1260)七月十六日に,前執権北条時頼に奏進された諌暁の書である.時頼は仏教を篤く信仰していた.これが,日蓮が『立正安国論』を彼に奏進した理由の一つである.『立正安国論』では,法然の『選択本願念仏集』などの経論疏を抄録して,浄土教批判を展開し,他国侵逼難と自界叛逆難を予言して,『法華経』に帰依すべきことを勧めている.けれども,『法華経』の教義や理念については詳しく論じられていない.これは,日蓮が公場対決を期していたことに由来すると考えられている.なお,法然批判の先駆者として,園城寺の公胤,定照,華厳宗の高弁などがある.『立正安国論』は旅客(北条時頼)と僧房の主人(日蓮)との,「九問九答」と「客の領解」(十番問答)によって構成されている.それを序分・正宗分・流通分の三段に分けて考えてみると,第一問答から第八問答までが序分,第九問答が正宗分,第十段の客の領解が流通分となる.序分では「災難の由来と経証」「謗法の人と法」「災難対治」「謗法の禁断」などについて説かれ,念仏を禁断することによって国難を防ぐことを明らかにする「破邪」の段であるとされる.そして,第九問答が正宗分であり,他国侵逼難と自界叛逆難を予言し『法華経』に帰依すべきことを勧める「顕正」の段である.流通分は第十段の「客の領解」のみとなっている.考察の結果として,日蓮の法華最勝義については要略して述べるにとどまっていることがわかった.批判の主眼を法然『選択集』に絞り,北条時頼から召喚があった時には,日蓮の宗教観に関する詳細な面談を遂げようという『立正安国論』の趣旨が再確認できたと思われる.
著者
岡崎 康浩
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1133-1138, 2006

本論は, アヴィータ論のシャスティタントラからウッドヨータカラにいたる展開を因の三相の観点から論じ, ウッドヨータカラのこの論に対する貢献を明らかにしようとしたものである. シャスティタントラのアヴィータ論は, 夙にフラウワルナーによって再構成されたが, 彼の再構成は, その論証式, 論証形式という点でいくつか不足している点がある. その不足部分を補って再考した場合, アヴィータの論証は五肢作法の理由・例示・適用・結論に残余法を加えたような論証形態になっており, これを後の三相説から見ると残余法の部分が余計であるように思われる. ディグナーガは残余法を除き三肢作法の理由が帰謬形式になっているものをアヴィータとして提示したが, 因の第1相と抵触するとした. これに対し, ウッドヨータカラは否定的属性も主題の属性になりうることを主張し帰謬的性格を保持したまま因の三相説の枠組みに組み入れたのである.
著者
赤羽 律
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1217-1224, 2014-03-25 (Released:2017-09-01)
被引用文献数
1

Bhaviveka (ca. 490/500-570)によって,Nagarjuna (ca. 150-250)の『根本中論』(Mulamadhyamakakarika)に対する注釈書として書かれたPrajnapradipaは,サンスクリット原典が散逸し,今日我々が目にすることができるのはチベット語訳と漢訳『般若灯論』のみである.しかし,月輪賢隆氏によって漢訳の不備が指摘されて以来,漢訳は殆ど研究対象として扱われてこなかった.本稿では,月輪氏の指摘を紹介するとともに,第8章の議論の一部を採りあげ,漢訳とチベット語訳の対比を元に,月輪氏の指摘を確認しつつも,漢訳が必ずしも不備ばかりでないことを示す.また,『根本中論』の偈を推論式に構成して注釈する際に,チベット語訳に於いて見出される推論式構成要素の説明部分が一貫して漢訳『般若灯論』に欠落している特徴を指摘し,漢訳とチベット語訳それぞれの元になったサンスクリット原本にそもそも差があった可能性を提示する.加えて,反論と答論が示され,その反論の一部が漢訳に見出されない場合,その見出されない反論部分に対する答論部分もまた綺麗に欠落していることがしばしば見出されることから,仮に両訳の元となったサンスクリット原本が同一であり,漢訳者が議論を一部省略したと想定するとしても,翻訳者Prabhakaramitraが議論を踏まえた上で省略した可能性が高いことを明らかにした.