- 著者
-
青木 隆浩
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.197, pp.321-361, 2016-02-29
本稿では,明治時代から1980年代までの長期にわたり,日本における美容観の変遷とその原因をおもに化粧品産業の動向から明らかにしたものである。そのおもな論点は,明治時代以降の美容観が欧米化の影響を受けながらも,実際に変化するには長い時間がかかっており,欧米化が進んだ後でも揺り戻しがあって,日本独自の美容観が形成されたということであった。まず,明治時代といえば,白粉による白塗りと化粧品の工業製品化による一般家庭への普及がイメージされるが,実際には石鹸や化粧水,クリームといった基礎化粧の方がまず発達していったのであり,メイク方法は白粉をさらっと薄く伸ばす程度のシンプルなものだった。口紅やアイメイクに対する抵抗感は,現在から考えられないほど強かったため,欧米の美容観はなかなか受容されなかった。1930年代に入ってから,クリームや歯磨,香油などの出荷額が伸びていくが,第二次世界大戦による節制と物品税の大増税によって,すぐに化粧をしない時代に戻っていった。その後,1960年前後までの日本の女性は,クリームや化粧水による基礎化粧はするものの,メイクはほとんどしなかった。欧米型のメイク方法は,1959(昭和34)年におけるマックスファクターの「ローマンピンク」キャンペーンと1960(昭和35)年におけるカラーテレビの放送開始を契機として,普及し始めたと考えてよい。とくに1966(昭和41)年からそのキャンペーンにハーフモデルを起用して成功を収めたことが,ハーフモデルの日焼けした肌と大きな目に憧れる結果となって,欧米型のメイクが普及する大きな要因となった。ところが,1970年代の初めにハーフモデルを起用した日焼けの提唱がいったん終わり,その後,日本の美が見直されていくことになる。さらに,1980年代に入ると自然派志向やソフト志向が顕著となり,その中でアイドルタレントが化粧品のプロモーションに起用されるようになると,日本独自の自然でソフトな女性像,つまり1980年代の「かわいらしさ」のイメージが形成されていった。