著者
荻原 智美
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.217-232, 2021-03

本稿では日本人がハワイの伝統舞踊であるフラhulaを踊ることの意義、日本でフラが学ばれる現状を修士論文で考察するための予備考察として、日本におけるフラの受容とその背景を検討した。フラはハワイに西洋文化が本格的に流入したとされる1820年以前から存在し、ハワイ人の宗教観を伴うものであった古典フラの「フラ・カヒコhula kahiko」と、欧米要素を取り入れた娯楽性の高い現代フラの「フラ・アウアナhula 'auana」に大きく分類される。後者はハワイの観光地としての「楽園」イメージを作り上げるために用いられた。つまり商業的な側面ももったフラである。日本でフラが受容された要因として、商業的な面もあるフラ・アウアナが日本に流入したこと、カルチャーセンターにフラのクラスが設置されたことがある。その受容の背景には日本人がハワイに抱くイメージが影響している。本稿では、まず日本人がハワイに抱いたイメージの変化を確認し、次にカルチャーセンターにおけるフラをみていった。結果、終戦後から海外渡航自由化となる1964年前後まで、日本人にとってハワイは憧れの場所で、「楽園」「夢の島」というようなイメージが抱かれていた。そのような状況において「楽園」を連想させるようなフラ・アウアナは日本で受容された。一方、1970年代以降になると比較的簡単にハワイ旅行が可能になったこと、ハワイ全体で日本人観光客を満足させるための取り組みが行われていたことから、日本人のハワイに抱くイメージは新鮮味に欠ける「定番」の観光地に変化した。初期のフラクラスは1970年代末に設立されたが、カルチャーセンターが拡大したのは1980年代で、参加するために十分な資金と時間のある中年の主婦が主な対象となった。その時期にカルチャーセンターでフラを学ぶ女性たちには、フラ・アウアナが人気であった。しかしハワイが訪れやすい観光地になったことで、現地のフラや音楽の演奏に触れる機会が増加し、ハワイの音楽とフラの習得をしたいと考える「本物志向」の日本人が出現した。そして1990年代初頭から、日本人教師は古典フラのカヒコも教え始めた。このようにハワイに近いフラを目指す動きが強まったことで、ハワイで開催される競技会への参加や、ハワイ人教師とつながりをもつクラスも見られることから、日本においてフラは受容の段階から、展開と発展の時期に入ったと考えられた。今回はフラの受容に関して、ハワイへのイメージとカルチャーセンターという視点から検討したが、さらに他の視点からの検討を行うことが必要になる。またカルチャーセンターの生徒や教師へのインタビューやアンケート調査、フラに関する雑誌の調査により、日本でフラが受容の段階を経て展開と発展したその後の状況、そして日本人がフラに求めているものを考察することを今後の課題とする。
著者
横井 雅子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.33-40, 2014-03

本稿は平成23〜25年度科学研究費補助金(基盤研究B)による研究プロジェクト「ドイツ・フォークトラントにおける楽器製造の歴史と現状に見る伝統継承と地域再生」に基づき、ドイツ・フォークトラント地方と隣接して楽器製造により16世紀から知られてきたチェコ・西ボヘミア地方の楽器産業の様相を検討したものである。ドイツのフォークトラント地方では大小の楽器会社・工房がそれぞれの特色を生かしながら現在も地域内の市町村の主要産業を形作ると同時に、楽器製造の技術の継承を体系的に行い、また公立、私立の楽器博物館・コレクションの存在や楽器演奏のコンクール、フェスティヴァルなどによって観光化が図られている。一方のチェコ・西ボヘミアの現状については近年の報告が限定的であったため、3年間にわたって現地調査を重ねた。調査の視点は以下の通りである。 / (1)調査地における現在の楽器製造の状況把握 / (2)楽器製作の技術の伝承の様子の確認(特に体系的教育) / (3)調査地の楽器製造史に関する当該地の認識 / (4)楽器製造に関わるイヴェントの有無、地域振興への寄与という点からの観察 / 調査地はクラスリツェ、ルビ、およびヘプの3か所である。管楽器を中心に製造するクラスリツェでは大手メーカー以外には楽器製造を手掛ける個人の工房はなく、また楽器製造の技術の伝承を体系的に行う教育機関が閉鎖され、市が所有していた楽器コレクションも非公開の状態で保存されるなど、「楽器の町」と呼ばれてきた存在感にも陰りが感じられる。ルビは一貫して弦楽器製造で知られてきた町で、民営となった旧国営会社と後発の民営会社の他、複数の個人工房が活動しており、ある程度の活気が感じられるが、8年前より当地にあった楽器製作を教える専門学校が20km離れたヘプに移転し、楽器作りの技術の伝承に関わる状況は楽観視できない。なお、楽器の品評会は依然としてこの町で行われており、また専門学校にあった楽器コレクションも旧国営企業のショールームで公開されており、その点ではクラスリツェよりは好ましい環境が残っていると判断できる。チェコの楽器産業は国内経済が好景気と見なされていた2000年代半ばにも売上高、雇用者数、輸出状況のいずれにおいても下降傾向にあり、とりわけ生産高においては2000年代後半には劇的に減少している。この背景には東アジア諸国の安価な楽器が世界市場を席巻していることが挙げられるだろう。ドイツ側でも決して楽観できる状況ではないが、「楽器製造の地域」という特徴を生かした活性化の試みが見られる。楽器産業が依然として町の主たる産業である西ボヘミアの楽器作りの町でも、こうした特徴を活用した仕組みを作ることによって現状にいくらかでも変化をもたらすことが必要なのではないかと結論づけた。
著者
坂本 光太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.125-140, 2020-03-31

《エシャンジュ Échanges》(1973 / 1985)は、ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b. 1934)自身のトロンボーン奏者、即興演奏者としての経験を積極的に使用した金管楽器ソロ作品であり、本人が演奏することを前提として作曲された。「この記譜法はパズルに等しい」という本人の言及からも伺えるように、本楽曲の記譜をそのまま演奏することは困難を極める。本稿の目的は、1973年版と1985年版の2種類の楽譜、1978年と1992年の自作自演録音をそれぞれ比較し、グロボカールの作曲者と演奏者の両面を検討することによって、作曲者本人ではない奏者による《エシャンジュ》演奏実践の可能性を呈示することである。楽譜の分析として、1973年版と1985年版の比較を行った。前者には即興演奏こそ明確に認められていないものの、形式的構造などの様々な実践的アイデアを見いだすことができ、その実演が想定されていることが伺える。それに対し、後者の記譜にはより強固に「音色の研究」という実験精神が前面に押し出され、より理念的であるが、一方でこの作品の即興演奏が認められている。自作自演録音の分析から、部分的に楽譜から抜粋して演奏する部分が存在しつつも、記譜と演奏実践に大きな乖離があるということで明らかになった。いずれの録音も、演奏全体は即興的でありながら、1973年版の楽譜と同じように、形式的構造で統一感を保っている。また、グロボカールは「音色の研究」のために、楽譜に書かれていない様々な工夫を行い、多彩な音色やそれに伴う楽想を実現している。以上二つの分析から、《エシャンジュ》は指定されたプリパレーションを用いた音色の研究のための即興的パフォーマンスであるといえる。楽譜は、具体的な演奏内容が示してあるものというよりは、物理的なセッティング(プリパレーション)の交換による即興的パフォーマンスのための「指示書のようなもの」であると考えたほうがよいだろう。演奏実践において重要なことは、音楽的な強い推進力と音の連続性を持って、全体としてのまとまり・形式感・統一感を保ちながら、様々な工夫をもって音色を追求することであり、それは記譜されたシンボルを正確に再現することに優先する。一方で、記譜されたシンボルは完全に無視されるものではなく、演奏者は記譜から全体の構成――例えば1978年の録音のABAのような形式――の着想を得ることできるだろう。本楽曲の演奏は、楽曲全体の音響自体がノイズであるがゆえに漫然としやすい。しかしそれゆえに様々な個別の音響をまとめ、一つの楽曲に統一する構成が必要とされるのであるのである。
著者
江崎 公子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-14, 2010-03

本研究は、近代日本の始まりの時点で、「音楽」がどのように認識されていたかについて、小中村清矩著『歌舞音楽略史』と『古事類苑 楽舞部』に着目し分析するものである。『古事類苑』は明治12(1880)年3月8日に当時の文部省編輯局長であった西村茂樹の建議によって、前近代の日本の文化を集大成した百科事典である。『古事類苑』編纂初期の責任者が小中村清矩(文政4(1822)年12月江戸~明治28年10月東京)である。そして同書建議の翌年、明治13年7月に執筆したのが『歌舞音楽略史』(明治21年2月刊)であった。小中村の『歌舞音楽略史』の特徴は各芸の起源と沿革とをあわせて考える点である。各芸・ジャンルを連続体とみなしながら、項目にそって各種文献から用例を列記することで、連続する動態として一定の概念を示している。また文献と共に類語も呈示されることで、用語の広まりや普及あるいは廃れる用語の現象をも推測できるものであった。この考え方は、重層化しつつ連続している前近代の音楽に対して、一連のジャンルの同種群を想定し、音楽における体系化の形成を試みていたといえる。記述は、自分の解釈を極力抑え、言辞の研究を通じて歴史的事実や知識を示していた。一方『古事類苑』は各芸・ジャンルが完全に独立した状態にわけられ、事項により資料が配列された歴史全書であった。しかし、ジャンルわけされてしまっているため、沿革や類種といった展開してゆく部分については分かりづらい。しかし、『古事類苑』は当時「大義名分論」とよばれた部立てという構造化を意図したものであった。文化全体の序列・類型化によって小項目を説明し、再び全体の構造を示すという類書の方法である。小中村が『歌舞音楽略史』で複数の枝分かれを含めて音楽を考察した視点と、文化全体の類型化のなかで音楽を考察した『古事類苑 楽舞部』ではデータ構造の考え方が大きく違っていた。しかし両書に共通して指摘できることは三点あった。まず記述方法の姿勢である。入門書や芸談ではなく、対象となる芸・ジャンルが存在したその時代の文学等を含んだ幅広い文献を求め、そこから抽出された「事実」から考察を出発し、さらに後世に書かれたもので検討する小中村の考証の仕方は、両書の基本であった。次に歌舞あるいは楽舞という書名からも、現代の「音楽music」より広範囲を対象とし、舞や芝居も含めた総合的領域を考察の対象としていたことがわかる。そして、両書の構造化の在り方は異なるものの一連の歌舞・音楽全体を対象として何らかの構造性をあたえるという発想は、近世には見られなかった視点ではなかろうか。しかし、小中村が文献実証主義を貫こうとしたにもかかわらず、文化の序列化はその後加速される。この傾向は音楽だけではなく、近代日本の社会の方向性でもあったと考えられる。
著者
坂本 光太
出版者
国立音楽大学大学院
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 = Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.177-193, 2019-03-29

ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b.1934)はフランス生まれのスロベニア人作曲家、トロンボーン奏者、即興演奏家である。彼の代表作と目される事も多い金管楽器ソロ作品、《レス・アス・エクス・アンス・ピレ Res/As/Ex/Ins-pirer》(1973)は、「身体性」というイメージで漠然と語られこそすれ、今まで詳細に分析・検討されることはほとんどなかった。本稿は、グロボカールの作曲の師であり、《セクエンツァ第5番 Sequenza V》(1966)を共同で作ったルチアーノ・ベリオ Luciano Berio(1925-2003)の影響を指摘しながらこの楽曲の作品を詳細に分析し、その数的な構造性と美学を明らかにすることを目的とする。まずグロボカールと、ベリオの《セクエンツァ第5番》の関係について触れた後に、その影響を踏まえながら、6つの観点(1.特殊奏法の使用法と2.楽曲を構成する10のセクションの「小節」数の枠組み、3.奏法のモード的な配置方法、4.音列、5.ダイナミクス、6.音声学的な要素)から、それぞれの数的な構造性を分析した。その結果、《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》においてグロボカールは、ベリオの《セクエンツァ第5番》から、音声学的要素、音色の拡大(種々の特殊奏法の使用)、身体性の導入などの点において大いに影響を受けながらも、それらを徹底的に拡大し、さらに体系化・組織化したこと、そしてその体系化・組織化には、意図的とも言える欠落を伴っているということが明らかになった。ベリオの楽曲では数回用いられるに過ぎなかった吸気による奏法を、楽曲の根幹に関わるコンセプトとして用い、演奏者に限界までの身体的負担を強いる事によって、楽曲を、演奏そのものが崩壊していくというプロセスに変えてしまったことは、Beck(2014)やグリフィス(1981)も指摘しているように、この楽曲に独自の意味を持たせている。すなわち、「演奏者の身体と楽器は、正確に音を出すための装置である」という規範を反転させ、生身の人間の身体が関わる時の、システムの否応なしの崩壊を現出しているのである。そして、楽曲中の各パラメーターに現れる数的な構造の中の意図された欠落は、自壊に至る身体のプロセスと共に、「完全な数的構造」=「体系化・組織化」という規範から、音楽そして身体の逸脱(解放)を重要な美的契機として呈示している。
著者
今野 哲也 Tetsuya Konno 国立音楽大学音楽研究科
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.123-138, 2010-01-01

本研究は、アルバン・ベルク(Alban Berg 1885-1935)の《4つの歌 4 Lieder》作品2(1909-10)より、第2曲「眠っている私を運ぶSchlafend tragt man mich」、および第3曲「今私は一番強い巨人を倒した Nun ich der Riesen Starksten uberwand」の2曲について考察するものである。ベルクは、作品2の第4曲「微風は暖かくWarm die Lufte」から無調性へと移行したと言われていることからも、この第2、3曲は和声語法上の転換点として捉えられる。しかし実際に分析を進めてみると、従来の方法での和声分析が充分可能であることが分かった。本稿の目的は、和声分析を主な観点としながら、詩の内容と関連させながら考察を進め、この2曲がどのような楽曲構造を形成しているのかを明らかにしてゆく事である。尚、研究方法は、調性作品として分析が可能であることから、島岡譲(Yuzuru Shimaoka 1926-)分析理論を基本的に用いることとする。歌詞はドイツ生まれのユダヤ人、アルフレート・モンベルト(Alfred Mombert 1872-1942)の連作詩、『灼熱する者Der Gluhende』(1896)全88編の中から選ばれている。モンベルトは表現主義の過度期の作家として分類され、ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844-1900)からの影響も指摘されている詩人である。第2、3曲の詩を考察してみると、ロマン派までの文学で慣用的に用いられてきた言葉と共に、ニーチェに関連していると思われる言葉も多く見出される。こうした言葉は、和音のひびきや動機の技法によって緻密に表現されており、本稿はこの観点からの考察も進めてゆく。ところで、作品2の分析を進めてゆく過程で、第2、3曲は、構想の段階から、2曲で1つの楽曲構造を形成しているという結論に達した。両者の構造を個別に見てみると、第2曲は「es→Es→Es-As」の3部構造、第3曲は「as→d -F→es-Es」の3部構造となり、それぞれ開始する調とは異なる調で終結する事となる。そこで、第2、3曲がペアで1つの構造を形成していると仮定し、両者の主調をes-mollで一貫させて考察してみると、「es→ Es→Es-As|as→d F→es-Es」という構造が浮かび上がってくる。つまり、中間に位置する「As|as」は、主調に対するⅳ度調として機能しているという解釈が可能となる。こうした楽曲構造と詩の内容とを関連させて考察した結果、主人公が眠りにある状態が描かれている場面では基本的にes-moll(Es-dur)が、アクティヴで覚醒状態にあると思われる場面ではas-moll(As-dur)、そして再び眠りにとらわれてゆく場面では再びes-moll(Es-dur)へと回帰してゆくという見解を持つに至った。本稿の締めくくりでは、以上の分析結果を踏まえながら、作品2全体と、ベルクの初期語法について敷衍する。
著者
水谷 彰良
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.59-74, 2010-03

ソルフェッジョsolfeggioと呼ばれる歌唱練習曲は、17世紀末〜18世紀初頭のイタリア(とりわけナポリの音楽院教育)において確立をみたが、教師が個々の弟子のために作曲して与える教材のため、未出版のまま長く埋もれていた。その意義がフランスで認知され、イタリア語のsolfeggoに由来するsolfegeがフランス語の語彙として初めて登場したのは1769年であった。その3年後の1772年にパリで出版されたのが、世界初の系統的ソルフェッジョ集『イタリアのソルフェージュSolfeges d'Italie』である。編者ルヴェスクとベシュはルイ15世時代のフランス王室聖歌隊の歌唱指導者で、pages de la musiqueと呼ばれる少年聖歌隊員の教材として、これを編纂出版した。『イタリアのソルフェージュ』は前記二人の編者が、レーオ、ドゥランテ、ポルポラ、スカルラッティ、ハッセなどナポリ派の重要作曲家・声楽教師のソルフェッジョを蒐集し、これを教育目的に則して分類配列し、低音部に和声を表す数字を付して刊行したもので、母音歌唱による歌の学習システムを初めてフランスに導入したという点でも画期的意義を備えていた。同書はパリ音楽院において1822年まで教材として推奨され、10種を超える異版も世に出たが、その真価は19世紀半ばに忘れられ、現在も研究対象とされず、再出版も行われていない。本稿は研究的視点から『イタリアのソルフェージュ』の初版(1772年)に遡り、その構成と内容を明らかにするとともに、第二版(1778年)との比較を通じて第二版が初版の単なる再刷ではなく、構成の変更、楽曲の追加と差し替えを施し、新たな彫版者が285頁分の原版を作成したことを確認した。筆者が独自に作成し、典拠と注釈付きで付録とした14種(異版を含め18点)の刊本リストも、『イタリアのソルフェージュ』が高く評価され、広く流布したことの証となる。同書は卓越したカストラート歌手を輩出したイタリアのソルフェッジョ教育の最重要資料(楽譜素材)であり、その存在と意義を再確認することは、19世紀初頭に活性化する組織的な音楽院教育の方法論と歌唱教材の変遷を理解する上でも不可欠である。
著者
今野 哲也
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.33-48, 2015

本研究は、とくにロマン派以降の作品で愛好され、無調性作品にも多くの例を見出し得る、ひとつのひびき(短3度+短3度+完全4度+短2度の循環)を対象とする。それは伝統的な和声学の中では位置付けがなされなかったが、島岡讓(1926-)の提唱する「クリスタル和音Kristallakkord」(以下"Kr.")は、このひびきの特質を明らかにする試みの第一歩と考えられる。その名称は「このひびきには透明感が感じられ、キラリと光るクリスタルのようだ」という島岡の言葉に由来し、減7の和音の構成音が長2度上方に転位することで生じる、偶発的形態と定義付けられる。島岡による詳細な説明は未公表だが、筆者がテーマとする無調性作品以降の和声分析と連繋させるためにも、Kr.を勘考することは有益と考える。そこで本稿は島岡氏の許諾の下、Kr.の原理を論考しながら、理論化を試みることを目的とする。またその考察を通じて、無調性以降のKr.についても、新たなかたちで認識する。そのため、本研究の関心はまず調性作品に向けられるが、Kr.を理解する上で、島岡が系統立てた理論における「ひびき」と「かたち」、「ゆれ」(転位)と「偶成」、「和音」と「非和音」の概念は不可欠となる。上記の概念の下でKr.は、「ゆれ」の所産による「偶成」であり、伝統的な和声理論のどのような「ひびき」や「かたち」とも一致しない構造を持つため、「偶成非和音」と位置付けられる。「ゆれ」によって生じる同時対斜(減8度・長7度)の緊張度の高い音程が、Kr.の特徴となる。また「偶成」である以上、Kr.はつねに「ゆれ」の解決を前提とする必要があるし、減7の和音が原和音ならば、「ゆれ」の解決の後には限定進行音を正しく解決させる必要もある。本稿は考察の便益上、Kr.をI型:「ゆれ」の解決音を伴うタイプと、II型:「ゆれ」の解決音が同時に配置されるタイプに区分し、減7の和音のどの構成音が「ゆれ」るかで∩3型、∩5型、∩7型、∩9型に区分する。たとえば∩7型のKr.は、L.v. ベートーヴェン(1770-1827)《ピアノ・ソナタ第30番ホ長調》作品109の第I楽章の第9〜10小節のドミナントの中に見出されるし、∩9型は、M. ラヴェル(1875-1937)《ソナティナ》第III楽章の第76〜94小節に、「ゆれ」(短調の固有音[vii])と、構成音の導音[↑vii]に生じる同時対斜(減8度)による、絶巧な用法も見出される。 Kr.の理論化を試みた結果、それはつねに「偶成非和音」に類別され、何らかの「和音」に照らし合わせて論ずることが困難であった点に、従来の和声学で位置付けがなされなかった理由を、本稿は観取する。そして無調性以降に見られるKr.は、19世紀〜20世紀の調性と無調性に関して、より鮮明なかたちで、「偶成」から「和音」へと認識された「ひびき」が存在したことを裏付ける、ひとつの証左と仮説付けるものである。
著者
小島 芙美子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.49-64, 2009

ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach(1685~1750)のカンタータ第199番《私の心は血の中を泳ぐMein Herze schwimmt im Blut》(1713年初演)は、数少ないソプラノ・ソロ・カンタータ作品の1つである。そして、私自身が実際に、初めてバッハのカンタータ全曲の演奏に取り組んだ、思い出深い作品でもある。詩人ゲオルグ・クリスティアン・レームスGeorg Christian Lehms(1684〜1717)は、歌詞台本の中に、「私」という人物を登場させ、その心の変容、すなわち「悔い改め」のプロセスを描いた。「悔い改め」とは、キリスト教の信仰において、最も重要な心的行為の1つである。それは、深いルター派プロテスタント信仰を持っていたバッハの宗教曲を理解するために、重要なキーワードになっている。では、バッハは、「悔い改め」をどのように表現したのであろうか。その問題を考察していく最初の手がかりとして、カンタータ第199番を取り上げた。聖書、及びルター派プロテスタント思想の理解をまず念頭に置きながら、カンタータ全曲の歌詞を研究していった結果、バッハのカンタータのテキストが、単に自由詩であるのではなく、詩人レームスのとても深い聖書理解と、整合された聖句箇所の組み合わせによって、テキスト全体が成り立っていることを、改めて実感することができた。この作品では、「私」が主人公である。演奏するものにとっても、「私」は私自身に置き換えられる。それは、ひとつ間違えると、曲の持つすさまじいまでの感情に、演奏者が埋没しかねないことをも意味する。しかし、第4曲目の「悔い改め」のアリアが持つ、その穏やかな音楽の中で、演奏者、そして聴き手は、なんともいえない安らぎに満たされることだろう。それは「悔い改め」という概念が、人にとって、宗教や時代という枠を超えた、普遍的なものであるからなのかもしれない。バッハの声楽曲を演奏する者は、歌詞(言葉)の理解を第一に求められる。そこで今回の論文は、作品に用いられたテキストの理解を研究の目的としている。
著者
中村 匡宏
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.67-79, 2014

本論の目的は、『シュプレヒシュティンメSprechstimme(以下,Sst.)』の技法をある水準まで高めたアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg 1874-1951)の作品を整理、考察し、現代の声を用いる芸術作品の創作における作曲技法的問題と可能性を発見する事である。本論は2部で構成する。第1部ではシュプレヒシュティンメの技法の前身と考えられる『レチタティーヴォRecitativo』『メロドラマMelodrama』『ジングシュピールJingspielの台詞部分』の3つの事項を挙げる。シェーンベルクにSst.の創作のきっかけを与えたのは19世紀の作曲家エンゲルベルト・フンパーディンク( Engelbert Humperdinck 1854-1921)のオペラ《王様の子供たち》で用いた唱法であると言われることが多いが、とりわけ17世紀以降の声楽作品、オペラから見てみも、Sst.の定義が曖昧すぎてSst.の起源の発見は困難である。同様『メロドラマ』や『ジングシュピールの台詞部分』に関しても、音楽を語りに付随させる事は演劇の発祥まで辿らなくてはならない。この疑問は、20世紀のシェーンベルクの用いたSst.の技法、記譜法からも検証し、これらの技法、記譜法の目的を整理することで、Sst.との関連性を見いだせる可能性がある。第2部ではSst.を用いたシェーンベルクの作品全てを概観し、用いられている記譜法全てをまとめSst.の記譜の使い分けを分類する。結果シェーンベルクの使用しているSst.の記譜法は5種類あり、その用法の分類は『音高(メロディ)とリズムが指示されている唱法』『音程関係(イントネーション)とリズムが指示されている唱法』『タイミング(語りだし)のみの指示がされている朗読』の3つであった。シュプレヒシュティンメと音楽に同一の価値をもたせる、もしくはシュプレヒシュティンメの音楽的存在感が背景の音楽に負けない芸術作品の制作をするためには声そのものの『音色』の指示に加えて『イントネーション』『リズム』『発音のタイミング』が記譜されることが最も重要になると考えられる。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-16, 2011

初期ロマン派の時代に、ピアノ音楽の分野で独自の芸術的境地を打ち立てたフレデリック・ショパン(Frederick Chopin 1810〜49年)は、ピアノのペダリングにおいても新たな地平を切り開いた。本研究は、ショパンの《24の前奏曲》作品28-1, 2及び13の自筆譜を資料とし、彼のペダリングについて考察したものである。ピアノのペダルの基本的な用い方は、バスでペダルを踏み、非和声音の前でそれを上げる方法であり、ショパンも基本的にはこの方法に従った。しかし、彼は、個々の曲の音楽的内容に応じ、より多様な方法でペダルを用いていた。《24の前奏曲》作品28の第1番ハ長調は一定のモチーフの反復からなるが、ショパンは曲の頂点や再現部の前、或いはコーダでペダルを短縮し、響きを抑制していた。これは、主観的な表現を避け、古典的な形式感を尊重すると共に、この前奏曲集の後続の曲に音楽的な発展の可能性を残す内容となっている。こうした方法は、表現の抑制によって詩性の美学を浮かび上がらせるものと言える。また、同第2番イ短調には、ペダルの指示が一つしか記されておらず、それはコーダの前で響きを暈し、影を落とすような内容となっていた。この一つのペダルは、暗く、深いこの曲の詩的想念と結びつき、あたかも死の世界を暗示するような存在となっている。これに対し、この前奏曲集の中程に位置する第13番嬰ヘ長調は明るい響きを持ち、この曲の前半では、ペダルによってフレーズの頂点に充実した響きと色彩を与え、フレーズに呼吸を生み出していた。また、この曲の後半では、主旋律の上に付加された声部に対応してペダルが用いられており、倍音を増幅させるような効果を生み出していた。これらは、ショパンのペダリングとベル・カントとの関連を示すものである。ショパンのペダリングは、多彩な方法によって個々の作品の芸術的内容を鮮明に描き出し、この前奏曲集においては、曲集全体の構成とも関係していた。本研究では、こうした考察を経て様々な示唆を得ることが出来た。特に、第1番のペダルの短縮は、エキエル版やペータースの新批判版等の最新の原典版にも充分に反映されておらず、ペダリングによる響きの抑制という新たな概念を提示することになった。この点は、ピアノのペダリングを考える上で重要な問題となろう。また、第2番で一つだけ記されたペダルのシンボリックな意味や、第13番に見られたペダルのベル・カント的な表現効果など、有益な知見が得られた。ショパンのペダリングは彼が愛用したプレイエル・ピアノの軽く、透明な響きを源泉とするものであるが、本研究によって、新たな視点から、彼の芸術的思考の一端に光を与えることが出来た。
著者
稲崎 舞
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.97-110, 2009

本研究は、イーゴル・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky,1882-1971)の12音技法作品の楽曲構成原理を解き明かそうとする試みの一つである。ストラヴィンスキーの全時代の作品を通して表れている特徴として、しばしば指摘されるのは、「ブロック・ジュクスタポジション」と呼ばれる楽曲構造である。確かに、完成された楽曲をスタティックなものとして捉えた場合に、この構造は、12音技法作品においても見出すことができる。しかしながら、12音技法による個々の音列と、こうした構造との間の関係性に対しては、十分に論じられていないように思われる。そこで本研究では、完成された楽曲をスタティックなものとして捉えるのではなく、楽曲が完成されるまでの作曲プロセスを辿る形でこの問題に近づくことを試みた。今回、1951年以降に書かれた12音技法作品を対象に、パウル・ザッハー財団所蔵のマニュスクリプトに基づき、分析を行った結果、作曲プロセスは、大きく二段階に分かれていたことが確認された。第一段階は断片的なスケッチを作る作業で、第二段階はそれらの断片的スケッチを繋ぎ合わせて全体を構築してゆく作業である。しかし、断片的なスケッチをただ並置させただけでは、全体性の保証は得られないはずである。なぜ、断片的なものから全体を構築してゆくことができたのか。この問題を考察するにあたり、《レクイエム・カンティクルス》(1965-66)のスケッチの断片に執拗に繰り返されていたある音に着目した。その音とは、ストラヴィンスキーが晩年に多用した「6音ローテーション・システム」によって見出された音であった。「6音ローテーション・システム」とは、エルンスト・クルシェネク(Ernst Krenek, 1900-91)が創案した12音技法の発展的な用法である。このシステムのうちの「音程のローテーション」によって導き出された「同一音から成る垂直配列音」が、断片と断片の「ジョイント」のような役割を担っていた。このことから、二段階の作曲プロセスの前段階に、全体の整合性をとるための「ジョイント」となる音として、「同一音から成る垂直配列音」を断片の中に設定するという作業があったのではないか、という仮説を立てるに至った。ストラヴィンスキーは、12音技法というオートマティックな性質をもったシステムを使用しながらも、それが完全にオートマティックになることを避けたのである。こうした問題は、12音技法作品においてのみならず、「ストラヴィンスキーは、作曲行為の中で、部分と全体の関係性をどのように捉えていたのか」という根本問題とも深く関わるであろう。