- 著者
-
沢崎 久木
- 出版者
- 日本フランス語フランス文学会
- 雑誌
- フランス語フランス文学研究 (ISSN:04254929)
- 巻号頁・発行日
- no.83, pp.24-33, 2003-10-21
この小論は,フローベールの『ボヴァリー夫人』の中から,女主人公エンマが過去を振り返る場面を三つ選び,その草稿を検討して,フローベールにおける創造と記憶について考察したものである.小説中エンマは,まだ見ぬ恋人や憧れのパリの生活を空想する一方で,絶えず過去の思い出を振り返っている.エンマばかりではなく,他の作中人物,シャルルやルオー爺さん,薬剤師オメーにいたるまで,しばしば懐古にふけるさまが描かれている.回想は,いわゆるボヴァリスムと対をなす,この小説に描かれている心理の重要な一面であり,また,小説内ですでに語られた事柄に繰り返し言及することで,事件に乏しいこの物語に重層性を与え,かつ作中人物の生きる世界の閉鎖性・単調さを強調していると言える.一方草稿研究は,作家の作品創作の過程をたどり,この記憶という主題に関して言えば,フローベールがこうしたエピソードをどのように構想し,小説内の回想の効果をいかに活用したかを明らかにする.特に例に挙げるような回想場面では,作中人物が(小説内の)自分の過去を振り返るのみならず,自作の最初の読者である作家自身が,そのエピソードを書きながら,執筆中の小説のすでに書き終えた部分(とその草稿),あるいは執筆中のエピソードのためのセナリオや草稿の記憶を想起しているわけで,推敲の跡に,その作家自身の創作の記憶,エクリチュールの記憶,個々のパッセージの推敲だけではなく,小説全体を通しての推敲というものをたどることができるのではないだろうか.