著者
真田 良枝
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.21-29, 2009-01-01

私がテキストとして取り上げたのは、宮崎監督が唯一劇画として措いた作品「風の谷のナウシカ」である。宮崎監督は、映画を作成する以前から、劇画として「風の谷のナウシカ」を措いていたのである。映画作品は単行本全七巻の漫画全体から見ると序盤に当たる2巻目の途中まで連載された時点での作品であり、映画公開後に連載を再開した劇画とは内容が全く異なる。ナウシカは映画の時よりもさらに深く、腐海と人間に関わり、腐海の謎を解く旅を続けていく。私はナウシカを、人間と腐海、生と死、光と闇などの中間に位置する存在、「中間者」であると考えた。作品当初から描かれる人間と腐海の「中間」ということだけでなく、物語が進むとともに経験する生命の生と死、善と悪など様々な要素に対しても彼女が中間であろうとしたと考える。しかし、彼女が物語の終焉とともに何処へ行ったのかについては、宮崎監督自身も明確な答えを出してはいない。本論文では、彼女がどのような中間に位置しているのかをテキストを基に考察し、ラストで描かれることのなかったナウシカの行方について論じた。なお、使用するテキストは、宮崎駿『劇画 風の谷のナウシカ』(徳間書店1983-1995)とし、第一章以降このテキストを引用する際は、著者名・著書名を省略することとする。
著者
岡崎 祥子
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.12-20, 2009-01-01

誰もが知っている古典といえば、『竹取物語』である。竹取の翁とかぐや姫を中心に、難題求婚譚、申し子譚、そして羽衣説話に通じる物語の構成をなしているものである。中には、平安文化を象徴する「あはれ」を思わせる内容も含まれ、『源氏物語』において「物語出来きはじめの祖」と称されるに至っているのは周知のことである。本研究においては、その『竹取物語』について、かぐや姫という存在に焦点をあて、考察している。具体的には、「かぐや姫が翁の元に現れ、再び月の世界へと帰っていくという流離の秘密を探り、かぐや姫が月の世界で犯した「罪」は何か、それに対する「罰」は何かについて考察する」という研究主題を設定し、『竹取物語』の世界観をもとにしながら研究を進めた。最終的には、かぐや姫の「罪」と「罰」について筆者自身の結論を導き出した。
著者
菊地 悟
出版者
岩手大学
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.109-101, 2007

一般的に、日本語では性差が大きく、会話文を並べただけでどれが男性のものでどれが女性のものか、判断することができると言われている。判断のポイントは、特に一人称・二人称の代名詞、また、文末の終助詞であり、「俺は待ってるぜ」「私は待ってるわ」「お前にできるかな」「あなたにできるかしら」といった文から、それぞれの発話者の性別を推測することは容易であろう。しかし、たとえば女性特有の終助詞とされる「かしら」を、実際の日常会話の中で耳にすることはほとんどない。テレビドラマや小説・戯曲など創作の中では、男女を書き分けるのにうってつけの素材として今でも重宝に使われているかもしれないが、たとえば学生や院生に聞いてみても「使ったことがない」「使う人を見たことがない」という答えが返ってくるような状態である。である。こうした変化について、遠藤織江は、『日本語学研究事典』の「女性語」の項で、以下のように述べている。現在「女性語」の特徴は、女性専用の終助詞・人称詞・感嘆詞の使用と、動詞の命令形不使用などにあるとされる。しかし、最近の調査では、従来女性専用とされた「かしら」「だわ」「のよ」のような文末用法を使用する女性が減っていること、男性専用とされた、文末の「だ」「だよ」「なあ」、動詞に直接接続する「よ」などを使用する女性が増えてきたこと、スポーツ場面などで命令形や「ぞ」を使う女性がみられることなど、女性専用用法とされた用法の減退と、男性専用とされた語や用法を取り入れている女性が増えていることなどが報告されている。筆者は岩手大学教育学部の「日本語のヴァリエーション」という授業の1コマで、言語の性差の問題を取り上げてみた。具体的には昭和57(1982)年、男女のデュエット曲としてヒットした「三年目の浮気」(作詞・作曲:佐々木勉、歌:ヒロシ&キーボー)の歌詞を提示し、男女のパートを交換して書き換えるという課題に取り組ませてみた。筆者の記憶には、かつて「ザ・ベストテン」という番組で1回限りの企画として同様の試みを行ったことが、今なお鮮明に残っている。はや四半世紀も前のことではあるが、そのときの歌詞もほぼ覚えているつもりである。男女の人称代名詞と終助詞を機械的に入れ替えていたほか、元歌のリフレインの部分で男性の言葉が命令調の「大目にみろよ」から懇願調の「大目にみてよ」に変化するくだりが、替え歌の女性の言葉では「大目にみてよ」から「大目にみてね」への変化に置き換えられていたのが印象的であった。なるほど、女性には命令表現が許容されていないのか、と思ったものである。今回の課題でも、ほぼ同様な書き替えが見られるのではないかと想定していたのであるが、学生から提出された課題に目を通したところ、現代の大学生は必ずしも以前なら当然想定されたような変更を加えているわけではないことに気が付いた。そこには、前述のような、言語の性差の減退現象の一端が現れているのかもしれない。そこで、本稿では学生の了解のもと、その提出物を資料として、現代大学生がどのように歌詞の変更を行ったかを紹介し、現代における言語の性差意識について考察を加えてみることとする。

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著者
中村 一基 NAKAMURA Kazumoto
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-9, 1996-01-01
著者
岡崎 祥子
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.12-20, 2009-01-01

誰もが知っている古典といえば、『竹取物語』である。竹取の翁とかぐや姫を中心に、難題求婚譚、申し子譚、そして羽衣説話に通じる物語の構成をなしているものである。中には、平安文化を象徴する「あはれ」を思わせる内容も含まれ、『源氏物語』において「物語出来きはじめの祖」と称されるに至っているのは周知のことである。本研究においては、その『竹取物語』について、かぐや姫という存在に焦点をあて、考察している。具体的には、「かぐや姫が翁の元に現れ、再び月の世界へと帰っていくという流離の秘密を探り、かぐや姫が月の世界で犯した「罪」は何か、それに対する「罰」は何かについて考察する」という研究主題を設定し、『竹取物語』の世界観をもとにしながら研究を進めた。最終的には、かぐや姫の「罪」と「罰」について筆者自身の結論を導き出した。
著者
小倉 希美
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
no.19, pp.42-48, 2014-07-05
著者
中村 一基
出版者
岩手大学
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-9, 2006

日本において、《遺骨》はどのような思想史的な意味の中に置かれたのか。そのことを考える視点として、釈迦の遺骨(=仏舎利)に焦点を当てる。このことを考えることは、仏教をめぐる《聖遺物信仰》を考えることでもある。仏像が《偶像崇拝》を象徴するように、仏舎利は仏像以前からの《聖遺物信仰》の象徴であった。その意味で仏舎利信仰は仏教のもっとも根源的な信仰の姿を伝えている」(内藤榮「「仏舎利と宝珠」展概説」、奈良国立博物館編『特別展「仏舎利と宝珠-釈迦を慕う心」』、二〇〇一年一七二頁。本稿の基本的な構成・趣旨は、この概説に沿っている。)仏舎利を納める仏塔とともにアジアへ広がった。遺骨の聖性は釈迦に限定された特殊なものだったのか。《遺骨》は舎利信仰と接触することで、聖性への契機を掴んだのでないか。山折哲雄氏は仏教と結びついた舎利崇拝は、上層階級に受け入れられ、漸次一般に浸透していったが、「あくまでも「仏」という特定のカリスマの「舎利」にたいする崇拝」であり「例外的な遺骨崇拝」である(「死と民俗-遺骨崇拝の源流-」『死の民俗学』岩波書店、一九九〇年、四八頁)という前提に立ちながらも、五来重氏の元興寺極楽坊の納骨器研究に着日'、「わが国における仏舎利崇拝と納骨信仰とが共通の文化的土壌から生み出された同血の信仰形態であるということに、とくに注意喚起しておきたい」(同、六〇頁)と述べておられる。筆者も仏舎利崇拝と我が国における遺骨崇拝に基づく納骨の習俗とが、接点をもっているのではないかと考える。本稿は、そのことを明らかにするために、印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本と釈迦の遺骨が《仏舎利》という崇拝の対象として辿った道筋を、日本の仏舎利信仰を中心に歴史的に俯瞰しながら、日本の《遺骨崇拝》形成にどのような思想的接触を持っていったかを探りたいと思う。ただ、「日本の舎利信仰は舎利は釈迦の遺骨である」という常識を一度払拭しないと理解できないほど、複雑に入り組んでいる」(内藤榮、前掲概説、同頁)のも事実である。
著者
小倉 希美
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.42-48, 2014-07-05
著者
中村 一基 NAKAMURA Kazumoto
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-7, 1994-01-01

菅原道真(菅相公)の左遷が何故起こったのか。『北野天神縁起』では宇多上皇と醍醐天皇とが政を道真一人に任せる事を密議、道真はその事を左大臣時平への憚りから辞退したが、時平はその事を漏れ聞いて無実の事を讒奏、その結果の左遷であるという。宇多上皇の道真への信任の厚さが、時平に危機感を感じさせ讒奏という行為に及ばせ、その讒奏に醍醐天皇が惑わされた結果の道真の不幸であるという。道真は『北野天神縁起』においては全くの犠牲者として描かれている。このような左遷をめぐる理解は、中世においては、北畠親房の「或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰たまひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれけるにや、左相いきどをりをふくみ、さまざま讒をまうけて、つゐにかたぶけたてまつりしことこそあさましけれ。し(『神皇正統記』醍醐天皇条)と同じ視点である。そして、讒奏に惑わされ道真を左遷した醍醐天皇について「此君の御一失と申伝はべり」(同前)とその過ちを認める。ただ、親房は「此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年の故にや、左相の讒にもまよはせ拾けむ。聖も賢も一失はあるべきにこそ。」(同前)と幼さ故の醍醐天皇の未熟さを擁護することで、道真左遷の罪を首謀者時平に限定する。近世に入って、林鷺峰が「天皇ノ弟ヲ齊世親王卜云。菅丞相ノ婿ナリ。故ニサキニ宇多ノ譲位ヲヲサへトドメラレケルハ。齊世ヲ太子二立ントタクミナリト。時平奏聞セラレケルトナン。天皇今年十七ナレバ。其実否ノ沙汰モナカリケルカ。時平代々ノ執政ニテ。威強テ専二執行ヒケルトキコへシ。」(『日本王代一覧』醍醐天皇条)と、その讒奏の内容が皇位継承に関わった事を明確にした。この事を裏付けるのが、醍醐天皇の道真左連の宣命である。そこには、道真が「欲行廃立。離間父子之慈。淑皮兄弟之愛。」(『政事要略』巻廿二 年中行事八月上〈北野天神会〉)と、醍醐天皇を廃して齊世親王を立てようとしたとあり、その事が罪状の中心となっている。新井白石の『読史余諭』に『神皇正統記』『日本王代一覧』が引用され、伊藤梅宇の「左大臣時平おもへらく、われ摂家の身として微賤の凡人と相ならんで国政をとり、却っておされたる事を恨みて光卿定国などと謀りて、当今の齊世親王は菅丞相の聟となればこれを帝位につけ申さんと謀れる由を讒奏し給ふ。」(『見聞談叢』巻之一、四 菅原道真)、また安積澹泊の「讒を信じて姦を容れ、大いに主徳を累はせしは、啻に道真の不幸なるのみならず、抑々亦、帝の不幸なり。」(原漠文。『大日本史列伝賛藪』巻三上、菅原道真伝の賛)と時平(及びその一派)の讒奏が道真の不幸を招いたという認識に変化はない。その認識は、秋成が愛読した禅僧日初の『日本春秋』の「貶右大臣菅原道真為太宰権帥〈二十五日〉、先是上朝覲朱雀院、法皇謂上日、道真年高才賢挙国之所望也、宜任用、乃召道真宣其旨、時平聞之大忌、於是竊與源光、藤原菅根等屢讃之、方是時、時平妹穏子為皇妃、上皇落飾之後嬖於本朝、又菅根淵子入内承寵、是以内外讒行、道真為其女婿齊世親王謀廃立云、上不察虚実卒黜道真。」(延喜元年正月条)においても同じである。秋成以前、道真左遷に関わる歴史認識に大きな差異は見えない。しかし、『春雨物語』「海賊」に現れた「菅相公論」【注(1)】は、道真の寵臣性を際立たせ、左遷の原因を道真自身に求めるなど、宣命の「右大臣菅原朝臣寒門与利俄尓大臣上収拾利。而不知止足之分。有専権之心。以佞諂之情欺惑前上皇之御意。」(『政事要略』巻廿二)に通じ合う視点を持ち、それまでの道真諭とは異なる。本稿では、その意味を、秋成の不遇薄命説との関わりから論じてみたい。
著者
李 蓮花 劉 麗芸
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
no.14, pp.114-110, 2009

日本語は中国語に比べてみても、その構成が極めて複雑な言語だと考えられる。例えば、文章を構成する要素一つを採ってみても、平仮名、片仮名、ローマ字が混雑し、また表現様式にしても尊敬語、丁寧語、謙譲語などがあり、これらを文脈に沿って適切に使い分けなければならない言葉である。さらには、これらの「単語形式」や「言い回し」は文章が書かれる時代の社会背景や生活スタイルによっても様々な変化を生み出している。いわゆる流行語などのように時代と共に消えてゆく言葉もあれば、突如として新しく生まれ出て来る言葉もある。これだけではなく、言葉の持つニュアンスの違いをも生み出している。
著者
藤井 知宏 菊地 悟 近藤 澄江 菅原 るみ子
出版者
岩手大学
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.72-56, 2006

昨今の「学力低下」を巡る論議とともに問題視されていることに「活字離れ」「読書離れ」ということがあげられる。しかし、「活字離れ」はここ最近において問題とされてきたわけではなく、毎日新聞社、全国学校図書館協議会主催の「学校読書調査」(後掲)においても、小学生の不読率は一定率を示し、良くもなければ極端に悪いという結果にもなっていない。
著者
野坂 幸弘
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.1-14, 2014-07-05
著者
中村 一基
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-9, 2000-11-25

死後、肉体は腐る。しかし骨は朽ちず。ただ、その骨もいづれの日か朽ちる。それが、自然の摂理である。この自然の摂理の過程のなかに、人間は火葬という葬法をもちこみ、骨化を早める。骨化が白骨を目指したとしても、はたして白骨は遺骨の意識と結びつくのか。古代から中世にかけての葬送史を俯瞰した時、〔納骨/散骨〕という遺骨処理に注目せざるを得なかった。それは、どの程度の浸透力をもって人々の葬送習俗の規範となったのか。〔納骨/散骨〕という遺骨処理の方法は、〔遺骨尊重/遺骨軽視〕の意識とパラフレーズするのか。さらに、霊魂の依代としての骨という観念と、祖霊信仰の成立との関連は霊肉二元論の次元では把握しきれない問題を孕んでいる。その意味で、山折哲雄の次のような方法論は示唆的であった。「死」の問題を「霊と肉」の二元的構図のなかでとらえようとする方法にたいして、もう一つ、「霊と肉と骨」という三元的な立体構成のなかで考察する方法が、わが国の場合とりわけ有効でもあり、かつ必要でもあるのではないか。(『死の民俗学-日本人の死生観と.葬送儀礼-』第1章「死と民俗-遺骨崇拝の源流-」)白骨という強力な磁場が遺骨崇拝に働いているのではないか。山折が「遺骨崇拝の源流」を考える上で、重要なモメントとしてあげる「十一-十二世紀における納骨信仰の形成」(同)の背後に、白骨という強力な磁場の存在を思い描く。さらに、磁場の形成に民俗としての〔〈白〉のシンボリズム〕が強く働いているのではないか。
著者
張 瑞雪
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
no.17, pp.36-48, 2012-07-14

中国人日本語学習者の視点から見ると、日本語条件表現と対応する中国語の複句も条件複句だという表面的な判断が一般的である。しかし、筆者は以上のー面的な考えに疑問を感じてきたことが本研究のきっかけとなっている。日本語条件表現と対応する中国語複句は、条件複句だけではなく、仮設複句・推断複句・継起複句も含む。しかも、それらは不可欠重要な要素である。条件複句・仮設複句・推断複句は中国語では因果複句に含まれるので、大まかに言えば、日本語条件表現と中国語因果複句の対照研究という、より大きな枠組みの中で研究を進める必要がある。日本語条件表現を「ば」、「と」、「たら」、「なら」四種類に分けて、中国語因果複句と対照した結果、以下のことが明らかになった。1、「ば」形式について、中国語で対応する因果複句は条件因果複句、仮設因果複句、推断因果複句であるが、関連詞を使わない場合もある。2、「と」形式について、中国語で対応する因果複句は条件(順接条件)因果複句、仮設因果複句、推断因果複句、継起並列複句であるが、関連調を使わない場合もある。3、「たら」形式について、中国語で対応する因果複句は条件因果複句、仮設因果複句、推断因果複句であり、継起並列複句に対応する場合もある。4、「なら」形式について、中国語で対応する因果複句は仮設因果複句、推断因果複句である。事実性については、ヤコブセン(2010)が現実の世界以外に可能世界までも拡張的に想定することによって仮定的・反事実的意味が生じるという観点を呈示している。筆者は更に、所謂「現実の世界」を「事実」・「実現される可能性が高い」•「実現される可能性が低い」の三つのレベルに分け、「反事実」を加えた四つのレベルを日本語条件表現分析の観点とする。さらに、話し手が文全体の命題(論理的関係)に対して持つ心的態度(モダリティ)は、事実性の度合いとの微妙な関係にあり、事実性と併せて日本語条件表現の分析の観点として用いることができると考えた。
著者
中村 一基
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-9, 2006-12-08

日本において、《遺骨》はどのような思想史的な意味の中に置かれたのか。そのことを考える視点として、釈迦の遺骨(=仏舎利)に焦点を当てる。このことを考えることは、仏教をめぐる《聖遺物信仰》を考えることでもある。仏像が《偶像崇拝》を象徴するように、仏舎利は仏像以前からの《聖遺物信仰》の象徴であった。その意味で仏舎利信仰は仏教のもっとも根源的な信仰の姿を伝えている」(内藤榮「「仏舎利と宝珠」展概説」、奈良国立博物館編『特別展「仏舎利と宝珠-釈迦を慕う心」』、二〇〇一年一七二頁。本稿の基本的な構成・趣旨は、この概説に沿っている。)仏舎利を納める仏塔とともにアジアへ広がった。遺骨の聖性は釈迦に限定された特殊なものだったのか。《遺骨》は舎利信仰と接触することで、聖性への契機を掴んだのでないか。山折哲雄氏は仏教と結びついた舎利崇拝は、上層階級に受け入れられ、漸次一般に浸透していったが、「あくまでも「仏」という特定のカリスマの「舎利」にたいする崇拝」であり「例外的な遺骨崇拝」である(「死と民俗-遺骨崇拝の源流-」『死の民俗学』岩波書店、一九九〇年、四八頁)という前提に立ちながらも、五来重氏の元興寺極楽坊の納骨器研究に着日'、「わが国における仏舎利崇拝と納骨信仰とが共通の文化的土壌から生み出された同血の信仰形態であるということに、とくに注意喚起しておきたい」(同、六〇頁)と述べておられる。筆者も仏舎利崇拝と我が国における遺骨崇拝に基づく納骨の習俗とが、接点をもっているのではないかと考える。本稿は、そのことを明らかにするために、印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本と釈迦の遺骨が《仏舎利》という崇拝の対象として辿った道筋を、日本の仏舎利信仰を中心に歴史的に俯瞰しながら、日本の《遺骨崇拝》形成にどのような思想的接触を持っていったかを探りたいと思う。ただ、「日本の舎利信仰は舎利は釈迦の遺骨である」という常識を一度払拭しないと理解できないほど、複雑に入り組んでいる」(内藤榮、前掲概説、同頁)のも事実である。
著者
中村 一基
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-8, 2007

義経と弁慶の五条大橋での対決場面に相当するほどの、わくわくする対決場面が他にあるだろうか。千本の太刀を集めることを目標として、京の町を徘徊する僧兵姿の弁慶が、五条大橋で千本目に当たる黄金の太刀を帯びた女装の笛吹き童子牛若丸に遭遇、太刀をめぐって闘いを行ない、牛若丸の圧倒的な強さの前に降り、主従の約束をするという、《義経伝説》の中でも最も親しまれた場面である。現在、この場面を描いた多くの絵(挿絵・浮世絵が大半)が残っているが、七つ道具を背負った弁慶の大薙刀が振り下ろされ、牛若丸が軽やかに飛翔してそれをかわしている構図が、その絵の定番の構図である。本稿では、飛翔する《笛吹き童子》に象徴される芸能神義経誕生の神話にこだわってみたい。
著者
八重樫 幸孝
出版者
岩手大学語文学会
雑誌
岩大語文 (ISSN:09191127)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.24-27, 2014-07-05