著者
横井 修一 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-8, 2003

筆者は1979年に行動科学研究講座に着任して以来、社会調査の授業や社会調査関係の特別研究・「特殊実験調査」あるいは修士論文等の担当学生に調査の指導を行ってきたが、常に頭を離れない問題があった。それは、「機縁法による調査結果の信頼性」という問題である。 筆者自身の調査経験に基づく「機縁法でも信頼性はもちうる」という確信はあったものの、調査方法論に依拠した明確な説明は調査法関連の文献にはまったく見当たらなかった。「見当たらなかった」と敢えて過去形にする必要もない位に、調査法に関するどのような文献でも問題そのものに触れられることすらないのである。 筆者自身の学問的な立場としては、プラグマティズムの考え方に影響を受けて実践指向が強く、「応用社会学」(今流には"臨床社会学的")のパラダイムに賛成なので、そうしたパラダイムに基づく方法論的考え方はできているつもりではあるが、そうした考え方からの説明が必ずしも受け入れられるとは限らない。 指導している学生諸君に説明すると、何やら分かったような顔をするのであるが、そうした学生諸君がいざ発表会の場で、「機縁法調査では信頼性がないのではないか」という批判を受けると、たちまち自信を失って批判に同調するか、「後で考えてみます」と逃げるのがせいぜいとなる。それはそれで無理からぬことで、(指導)教官の言うことだから「そうなんだろう」とその場では一応納得したように思えても、明確な論理として示されることがない以上、現代的な("過度の")実証主義の風潮の下では十分に納得するのは困難である。 そこで、この小論では、機縁法による調査(すなわち「サンプリング調査」でない調査)であっても信頼性を持ちうることを、調査事例(いずれも行動科学研究室の「特殊実験調査と社会調査実習で得られた調査結果)を用いて論証してみたい。
著者
定島 尚子 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-5, 1995-09-01

お盆やお彼岸に先祖の墓参りをする人がクリスマスを祝い、その一週間後には神社に初詣でに行く…。私たち日本人の生活では、神道の要素、仏教の要素、キリスト教の要素が混在している。私達にとって宗教とは、神とは、どのような存在なのだろう。かつてイザヤ・ベンダサンは、「日本人は日本教徒等という自覚は全くもっていないし、日本教等という宗教が存在するとも思っていない。…(中略)…しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚せぬまでに完全に浸透しきっているからである」(1)という指摘をしている。とすれば、“日本教”の教義、即ち、日本人の信仰形態の基底となる意識とはなんだろう。日本人の神観念の特徴の一つに“神人合一観”があると言われるが、私はこの言葉に深い興味を覚えた。つまり日本人にとって神霊は、極めて身近な存在と観念されているが故に殊更に意識することが無いのではないか、と考えたのである。こうした観念こそが、私達自身にさえ自覚し得ない程に深く浸透している宗教の基になっているように思える。そこで本研究ではこうした観点から日本人の神観念について考察していくことにする。
著者
川原 正広 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.22, pp.1-8, 2006

我々は仕事の期日が迫っているときや人との待ち合わせに遅れそうな時、"時間がない"や"時間が足りない"といった時間的プレッシャーを感じることがよくある。このような時間的なプレッシャーは時間的切迫感と呼ばれる。Winnubst(1988)はこの時間的切迫感を時間に対する不安の典型的な現象の一つであるとし、時間的不安と呼んでいる。生和・内田(1991)は、時間不安があらゆる不安に共通した不安であり、その傾向が強い人は時間に追い立てられ、落ち着きのない生活態度を余儀なくされると述べている。時間の経過が不安の対象となる原因は、時間と課題の難易度が結びつくことによる情報処理量に対する時間的制約感と考えられている(生和・内田,1991)。また折原(1998)は、時間のイメージや時間的評価が時間不安と深く関連することや、不安感覚が個人の時間的評価や時間イメージによって大きく異なることを指摘している。 さて時間的切迫感を主な特徴とする時間不安は、ストレスやタイプA行動パターン、強迫神経症など精神的健康や精神障害との関連が多く検討されている。たとえばAbraham(1965)は金銭的強迫態度と時間に対する強迫態度の関連について検討を行ない、強迫神経症者の多くにお金と時間に対する強迫的態度が認められることを指摘している。またFriedman & Rosenman(1974)は、タイプA行動パターンを有する人の最も顕著な特徴として時間的切迫感をあげている。 またその一方で時間不安、タイプA行動パターンは、個人の失敗傾向との関連についての検討もいくつか行われている。Fletcher, McGeorge, Flin, Glavin & Maran(2002)は、ストレスフルな状態や、時間的に切迫した状態の中で発生する問題が能力の限界を超えたとき、状況の中に潜む潜在的なエラーと結びつき、安全についての意図しない結果につながると述べている。また、Wallace, Kass & Stanny(2002)は、失敗傾向とタイプA行動パターンの関連について、認知的失敗の傾向を測定するCognitive Failures Questionnaire(CFQ ; Broadbent, Activity Survey(JAS ; Zyzanski & Jenkins,1970)を用いて検討を行い、双方の間に関連性があること見出している。さらにRothroch & Kirlik(2003)は、熟練した作業者が、時間的に切迫した状況で、まれに起こる予測できない事象に適応することができず、エラーを起こす可能性があると指摘している。このような知見を考慮すると個人の時間不安やタイプA行動パターンと失敗傾向の間には何らかの関連が推測される。しかしHobbs(2001)は、時間的切迫感と失敗行動の関連について、物忘れなど記憶に関するエラーである「ラプス」や、適用するルールやルールの適用の仕方を知らないことによって生じる「知識ベースのミステイク」と関連すると考えられるが、その実証的な検証は全く行われていないと述べている。またWallace et al.(2002)も、認知的失敗とタイプA行動パターンの関連は今日まであまり深く検討されていないと述べている。HobbsやWallace et al.の知見は、時間的切迫感やタイプA行動パターンと失敗傾向の関連についての検討が不十分であることを指摘しているものと考えられ、双方の関連についてはさらなる実証的な検討が必要と言えるであろう。そこで、本研究では時間不安、タイプA行動パターン、失敗傾向に関する質問紙調査を用い、双方の関連性について検討を行った。
著者
横井 修一 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.27, pp.1-17, 2011

2008年6月8日午後、日曜の歩行者天国で賑わう秋葉原の交差点で、26歳の青年が7人死亡10人重傷という無差別殺傷事件を起こした。この秋葉原事件は人々に大きな衝撃を与え、直後からマスコミの集中報道が続き、事件をめぐって数多くの論評がなされたが(注1)、報道・論評において注目されたのは無差別大量殺傷という事件の凶悪さよりもむしろ、犯人Kの犯行に至るプロセス・背景である。 「無差別殺傷事件」とは、犯人と特定の関係性がない人々が殺害される事件であるが、社会的に衝撃を与えるのはその「凶悪」性ではなく犯行が常識では理解できないというその不条理性であり、それ故にその社会的な背景要因が注目されるのである(注2)。 秋葉原事件が社会学的にも注目される理由は、この事件が「<現在>の全体を圧縮して代表(大沢真幸)(注3)しており、事件は「戦後日本に何回かあった大きな転換点の一つ」(見田宗介)(注4)と見られるからである。この事件は現代日本社会、とりわけ青年世代が直面する人間関係の希薄化問題(注5)を考察する<範例>(注6)となる。 この事件は、①Kの犯行までの生活体験に現代青年の人間関係の問題性が典型的に表出されていて世代論的に論じるのに妥当な<範例>であるとともに、②反響の大きかった事件なので事例として考察するための情報が多く、③社会的な関心が大きいので読者に分かりやすい事例ともなる点でも<範例>(注7)に適している。 本稿の課題は人間関係希薄化問題の検討であり、犯行要因の究明自体を課題としているのではないが、考察の<範例>に適していると言えるためには、犯人Kの人間関係の希薄さが犯行要因として重要であったことが前提となる。そこで、はじめに犯行要因をめぐる議論を検討し、その後でKのケースを<範例>として青年世代の人間関係の問題点を明らかにしてゆく。
著者
横井 修一 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-11, 2012-08-31

「学問にはどんな意義があるのか」という疑問や悩みをもつことは、近年少なくなったと言われるが、恐らく現在も大学では、漠然とであれ新入生から教師まで一度は持たれる問いであろう。それは大学卒業後の人であれば、学問・研究に関わらない立場で学問と関わる意味は何かという問題であり、本紙の読者には職業上の専門知識との関係なしに<行動科学>という学問に関わる意味は何かという問題で、より広げて言えば<行動科学>(注1)という学問は私たちの生活でどのような意義をもつかという問題である。 この『現代行動科学会誌』の読者である現代行動科学会会員の大半が<行動科学>を学んだ卒業生であるが、職業として学問(教育・研究)に関わる人は一部であるし、臨床心理学関連の専門職のように<行動科学>が職業的な専門知識として必要とされている人々も多数派ではない。大多数の会員にとっては職業上の「専門知識」と直結しないとすれば、その<行動科学>の学問的な知識はどのような意味を持つのであろうか。 本稿では以上の問題について、<行動科学>をひとまず「社会学」に置き換え、私たちの日常生活において社会学がどのような意味をもつかという問題として、M.ブラウォイの「公共社会学」論を踏まえながら考えてみたい。 ブラウォイ(Michael Burawoy)は公共社会学論に関する論文を2004年以前にもいくつか著しているが、中心となるのはアメリカ社会学会における会長講演(2004年)をそのまま活字化した次の論文である。講演の全文はきわめて明晰なもので、その後に書かれた論文で取り上げられている論点が、本稿に関連する限りではすべて展開されている。 Michael Burawoy, 2004, For Public Sociology PRESIDENTIAL ADRESS, American Sociological Review, 2005, Vol.70(February:4-28) 本稿におけるブラウォイの紹介は主としてこの論文に基づいており、その引用や参照箇所は単に該当頁だけを付記する。引用文中の「・・・・」は省略を、「[]」は原文にない補いを示す。なお、本稿の「注」は研究論文の作法としての論拠の提示や補足であり、本稿の内容自体は本文だけでも理解されるのではないかと思う。 本稿の1~4節はブラウォイの公共社会学論の―本稿の主張の基礎となる部分の―紹介で、5~6節がブラウォイの議論を踏まえた筆者の主張である(注2)。
著者
横井 修一 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.28, pp.1-11, 2012

「学問にはどんな意義があるのか」という疑問や悩みをもつことは、近年少なくなったと言われるが、恐らく現在も大学では、漠然とであれ新入生から教師まで一度は持たれる問いであろう。それは大学卒業後の人であれば、学問・研究に関わらない立場で学問と関わる意味は何かという問題であり、本紙の読者には職業上の専門知識との関係なしに<行動科学>という学問に関わる意味は何かという問題で、より広げて言えば<行動科学>(注1)という学問は私たちの生活でどのような意義をもつかという問題である。 この『現代行動科学会誌』の読者である現代行動科学会会員の大半が<行動科学>を学んだ卒業生であるが、職業として学問(教育・研究)に関わる人は一部であるし、臨床心理学関連の専門職のように<行動科学>が職業的な専門知識として必要とされている人々も多数派ではない。大多数の会員にとっては職業上の「専門知識」と直結しないとすれば、その<行動科学>の学問的な知識はどのような意味を持つのであろうか。 本稿では以上の問題について、<行動科学>をひとまず「社会学」に置き換え、私たちの日常生活において社会学がどのような意味をもつかという問題として、M.ブラウォイの「公共社会学」論を踏まえながら考えてみたい。 ブラウォイ(Michael Burawoy)は公共社会学論に関する論文を2004年以前にもいくつか著しているが、中心となるのはアメリカ社会学会における会長講演(2004年)をそのまま活字化した次の論文である。講演の全文はきわめて明晰なもので、その後に書かれた論文で取り上げられている論点が、本稿に関連する限りではすべて展開されている。 Michael Burawoy, 2004, For Public Sociology PRESIDENTIAL ADRESS, American Sociological Review, 2005, Vol.70(February:4-28) 本稿におけるブラウォイの紹介は主としてこの論文に基づいており、その引用や参照箇所は単に該当頁だけを付記する。引用文中の「・・・・」は省略を、「[]」は原文にない補いを示す。なお、本稿の「注」は研究論文の作法としての論拠の提示や補足であり、本稿の内容自体は本文だけでも理解されるのではないかと思う。 本稿の1~4節はブラウォイの公共社会学論の―本稿の主張の基礎となる部分の―紹介で、5~6節がブラウォイの議論を踏まえた筆者の主張である(注2)。
著者
細越 久美子 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.13, pp.7-13, 1997

「カルチャー・ショック」という言葉は、留学や海外旅行などでの異文化体験に限らず、日常用語として用いられている。学術用語としての「カルチャー・ショック」は、Oberg,K. が1950年代に紹介したのが最初といわれており、その後異文化間接触研究の中で重要な概念として使われてきた。しかし、その概念の普及に比してこの用語が体系的に整理されているとは言い難い。ここで取り上げる Furnham,A.f. & Bochner,S. の Culture Shock : Psychological reactions to unfamiliar environments (1986,Routledge) は、異文化間接触に関連する諸研究を「カルチャー・ショック」の観点から整理した包括的な書の一つといえる。本報告では本書の主要部分を要約・概説すると共に、現代の異文化間接触研究への示唆について考察する。その際、筆者が留学生の異文化適応を素材として整理してきた、異文化間接触における「緩衝機能(buffering function)」(細越,1996a,b,1997)と本書の「カルチャー・ショック」の視点との関連についても論及する。 本書の第一部では留学、移民、国際協力、国際ビジネス、観光などの異文化間接触を総括的に論じ、その形態を滞在期間、目的、異文化への関わり方等の諸次元で分類している。第二部ではこうした様々な人の精神的健康や心理学的特徴について諸説している。第三部は、本書の中心である「カルチャー・ショック」について論じており、そこでは不慣れな環境の中でどう対処するか、(つまり Furnham らの見方では)自分を取り巻く関係をどのように説明するか、が取り扱われている。さらに「カルチャー・ショック」についての伝統的な説明(「カルチャー・ショック」は運命的なものであり、それを避けるには移住者の選別などが必要であるといった考え)から、最近の説明(その人を取り巻く様々な関係性の変化という観点)に至る研究が紹介されている。そして第四部としては、カルチャー・ショックへの対処方略、特にソーシャル・スキルや文化学習の方法が展開されている。さらに異文化環境におけるソーシャル・サポートの重要性についても指摘している。
著者
加藤 孝義 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.28, pp.12-17, 2012

私の研究テーマは視覚を中心とした認知心理学であるが、この研究の焦点を空間認知に絞って進めてきた。伝統的な課題なのでテーマも多様で、個人の扱い得る能力をはるかに超えているなと実感しながら、これらの研究成果は岩手大学の紀要「アルテス・リベラレス」に投稿し続けた。しかし話題があまりにも専門的過ぎて、読者は極端に限られていたと思える。『空間のエコロジー』を出版した1986年頃になって、研究課題の枠を広げてみると、空間認知の問題は社会や文化との関連が浮き彫りになり、異文化の視点からみても広範なそして多様な課題と関連していることに思い至った。そのような文脈からみた一つの話題を今回は紹介しようと思う。
著者
加藤 孝義 現代行動科学会誌編集委員会 KATO Takayoshi
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.25, pp.24-33, 2009

西欧の合理主義思想がもたらした現代社会のテクノロジーは、確かに人類の福祉・幸福に多大な恩恵をもたらした。しかし、これによる知性偏重の弊害が感性という人間性の側面を損なう負の遺産をもたらしたことも事実である。本論では、この抑圧されていたともいえる人間性を支える感性を復活させ、それと知性との調和的統合こそが、来るべき世紀の人間像として重要な意義をもっているという新しい人間観を、知性と感性の相互関係のモデルを試論的に考え提案した。
著者
定島 尚子 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-5, 1995-09-01

お盆やお彼岸に先祖の墓参りをする人がクリスマスを祝い、その一週間後には神社に初詣でに行く…。私たち日本人の生活では、神道の要素、仏教の要素、キリスト教の要素が混在している。私達にとって宗教とは、神とは、どのような存在なのだろう。かつてイザヤ・ベンダサンは、「日本人は日本教徒等という自覚は全くもっていないし、日本教等という宗教が存在するとも思っていない。…(中略)…しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚せぬまでに完全に浸透しきっているからである」(1)という指摘をしている。とすれば、"日本教"の教義、即ち、日本人の信仰形態の基底となる意識とはなんだろう。日本人の神観念の特徴の一つに"神人合一観"があると言われるが、私はこの言葉に深い興味を覚えた。つまり日本人にとって神霊は、極めて身近な存在と観念されているが故に殊更に意識することが無いのではないか、と考えたのである。こうした観念こそが、私達自身にさえ自覚し得ない程に深く浸透している宗教の基になっているように思える。そこで本研究ではこうした観点から日本人の神観念について考察していくことにする。
著者
藤沢 佳充 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.16, pp.19-28, 2000

心的イメージ研究が「復活」を果たした1960年代後半以降、認知心理学においては心的イメージや夢、空想、白昼夢などといった「心の中」で生じる現象に関する研究が数多く行われるとともに、その研究の持つ重要性も広く認識されるに至っている。これらの心的現象は感覚・知覚と異なって外部からの刺激とは独立に生じるものであることから、Antrobus(1968)やSinger(1988)はそれらを総称して"刺激独立型思考(stimulus-independent thought)"という名称を与えている。そして刺激独立型思考の現象的特徴(特に心的イメージの現象的特徴)を中心とする多くの問題が明らかにされてきているが、一方でその産出過程については未だ解明されていない点が多い。今回本研究で取り上げる刺激独立型思考の産出過程と注意資源の配分の関係に関する問題も、それら未解明の問題の1つである。 一般に我々は、周囲の状況が目まぐるしく変化する場合よりも、変化の少ない単調な状況にいる場合のほうが空想をしたり、白昼夢を見たりする、すなわち刺激独立型思考を産出することが多い(Antrobus, Snger, & Greenberg, 1966)。また、我々が刺激独立型思考を産出しているとき、それにあまりに没頭していると周りの状況の変化に気づかないことがある。これらの事実は、刺激独立型思考は外部に注意を向ける必要が少ない場合に、そして心の内部に注意を向けている場合に産出されるということを示しているように思われる。これに関連する知見として、例えばRichardson(1994)は、刺激独立型思考の1つである心的イメージの産出には心の内部に注意を向けることが必要であると述べているし、またTellegen & Atkinson(1974)もイメージや空想などに没頭する人ほどそれらにより多くの注意を向ける傾向が強いとしている。 これらのことから、刺激独立型思考の産出過程と注意との間には密接な関係があると推測することができる。しかしながら、残念なことにこの推測は大きな弱点を抱えている。なぜなら、上に挙げた例やRichardsonらの主張はあくまで経験的な事実に基づくものに過ぎず、実験による十分な検証を受けたものではないからである。刺激独立型思考の産出にとって、心の内部に注意を向けることが本当に必要な条件なのか。反対に、外部に注意を向けているときには刺激独立型思考の産出は行われないのか。刺激独立型思考と注意との関係を明らかにするためにはより詳細な実験的検討が加えられなければならない。
著者
細江 達郎 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.6-10, 1995-09-01

概ね行動科学の実証的方法は研究者が対象者になんらかの刺激を与えそれに対する反応を問う形をとる。研究活動が研究者の自ら設定する枠組みにそって対象に接近するという自覚的な活動であるかぎり、当然な営みであることといえる。しかし、ほとんどの実験科学において当然視されているこの方法に関して、こと人間を対象とする分野においては問題無しとはされない。それどころか特に人間関係やその相互影響を主たる対象とする社会心理学では、いわゆる社会心理学の危機論争の中で、実験の人為性や非日常性といった批判を受けることとなる。その論争の中で示されたものの一つに実験的方法以外の看過されてきた手法の見直しがある。すでに1966年にWebb,J.E., et al.がUnobtrusive Measures : Nonreactive Research in the Social Sciences という示唆的な書を出しているが、必ずしも十分知られた立場とはいえない。ここではそういった論議に沿いながら、この立ち場を紹介するともに、特に観察法について触れ、その応用可能性について考察する。
著者
佐藤 文子 山口 浩 現代行動科学会誌編集委員会
出版者
現代行動科学会
雑誌
現代行動科学会誌 (ISSN:13418599)
巻号頁・発行日
no.24, pp.12-26, 2008

PIL(Purpose-In-Life Test)はロゴセラピーの理論に基づき実存的欲求不満を測定する心理検査である。日本版PILではPart Aの質問紙法に加えてB(文章完成法)、C(自由記述)も数量化し標準化した。原案者のクランバウら1,3)はPIL得点は年齢要因とかかわりないと述べ、すべての年齢に共通する判定基準を示している。しかし日本版ではPIL得点に年齢要因が関与することが示唆され、'93のマニュアル12)、'98の改訂版13)いずれも年齢段階別の判定基準を設定してきた。しかしこれまでは高齢者のデータが少なく、年齢に若干偏りがあったこともあり、65歳以上はT値換算ができずにいた。'08の改訂15)では高齢者群データを補充し、年齢を今まで以上に厳密に統制して妥当性を再検討した。その結果、総得点では成人群と高齢者群の間に有意差は見られなかった。他方判定基準の設定に際しては主として総得点分布から35歳未満と36歳以上の2群に分けることになった。今回はA,BC共通に2群に分けたので、テストとしてはわかりやすくなったが、妥当性検討は総得点についての統計的分析に基づくもので、年齢要因の意味的側面についてはマニュアル、ハンドブックでは十分には論じられていない。 PILデータと年齢要因との関連について検討の必要な課題を整理してみると、 ①年齢を統制しての妥当性の検討に際して、10歳刻みでそれぞれの年齢段階の総得点の有意差を検討し、いくつかの年齢群に分けて妥当性を検討したが、年齢段階と得点差の関連については、'08のマニュアルおよびハンドブックでは充分に考察されなかった。 ②判定基準の設定に際しては総得点の分布の統計的な検討に加えて臨床的経験的解釈も加味して35歳以下と36歳以上の2つの年齢群に分けたが、この区分のロゴセラピー的意味については充分に論じられていない。 ③PILの解釈はA,BCの総得点の差のみでなく、BCの下位評価項目得点プロフィールや記述内容なども考慮してなされるが、これらの側面についての年齢要因の検討はマニュアル、ハンドブックではほとんどふれられていない。 本論文では総得点に加えてPIL得点を構成している諸側面に年齢要因がどのように影響しているかを検討し、それはロゴセラピー理論の観点からどのように解釈されるかを考察する。そのためにⅡでロゴセラピー理論において年齢要因が意味・目的経験にどのようにかかわると考えられているのかをフランクルならびにロゴセラピー関連の文献から検討する。次いでⅢでこれまでのPILデータを年齢要因あるいはライフサイクル論を考慮した群間で検討し直す。具体的には、(1)'08改訂のデータの年齢段階別の結果を再検討し問題点を整理する。(2)標準化データから年齢およびライフサイクル論を考慮していくつかの群を抽出し、①PILの標準的分析、②BC・人生態度局面の類型化の比較、③一般的人生態度と過去の受容・意味づけとの関連の群による特徴をPIL-B-2およびB-4項目の内容分析から検討する。