著者
広瀬 淳子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.119-152, 2011

本稿は学習院大学に埋もれていた華族会館旧蔵洋書についての調査報告である。 明治2 年の布達により新たに華族と称されるようになった旧諸侯(大名)と公卿(公家)たちによって明治7 年に設立された華族会館は、明治10 年に学習院を創立した際、図書館を作る目的で収集していた資料のほとんど即ち和漢書9,159 冊及び洋書1,614 冊を学習院へ寄贈した。 その事実を裏付ける『華族会館寄贈図書目録』が学習院大学図書館書庫に眠っていた。 そのなかの洋書目録は日本語で記載されているため、表示された書名等を手掛かりに原書をすべて同定することは不可能であった。そこで、学習院が明治30 年以前に受入れた洋書のなかで明治10 年(1877 年)までに出版されたものを選び出してその蔵書印等を調査した結果、836 冊の華族会館旧蔵洋書を確認した。そうしてリストを作成すると、明治初期の新しい国造りに向けたコレクションが浮かび上がった。その多くは勝海舟をとおして徳川宗家から寄贈されたものである。Kazoku Kaikan, the Peer's Club established in 1874 by peers, former feudal lords and high court nobles, planned to have its library, and collected books. In 1877 Kazoku Kaikan founded the school named Gakushuin for the children of its members and transferred most of its book collections, 9,159 Japanese and Chinese books and 1,614 Western books to the library of the school, and became the patron of the library. This transfer and the history of individual book became traceable by the recent discovery of the catalogue, prepared in 1879 and written in Japanese under the title of Kazoku Kaikan Kizo-tosho Mokuroku, of the transferred books, within the Gakushuin University Library. The author found out 836 Western books bearing the ownership stamps of the Kazoku Kaikan in the Gakushuin University Library collection, by investigating the books published before 1877, and accepted by Gakushuin Library before 1897. These books were published in the United States of America, Great Britain, France, Germany, etc., and turned out to be a leading collection to promote modernization of Japan in early Meiji Era. Most of the literatures were contributed by the Tokugawa Shogunal Household by the arrangement of KATSU Kaishu. The story about the Japanese and Chinese books donated by the Tokugawa Shogunal Household was described before(No. 8 of this journal).
著者
塩谷 清人
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.206-197, 2005

イギリスは名誉革命が終った17世紀末からは、王権が抑制され、近代議会制度が急速に成長していく。いわゆるトーリーとホイッグという二大政党の色分けがはっきりしていくのもこの時代である。両党は政策の広報活動としてジャーナリズムを利用した。「出版物許可法」失効(1695)を機に新聞、雑誌が一気に出版された。当時のその現象を「ペーパー戦争」と呼ぶ。文学者たちもその動きに巻き込まれた。デフォーとスウィフトが政治的に活躍したのはちょうどその時期だった。 この時代を代表するこの二人の作家は直接には面識がない。まだ宗教と政治との関係が色濃い時代で、トーリーと英国国教会、ホイッグと非国教徒の結びつきは強かった。デフォーは非国教徒で当然ホイッグと見られていた。一方スウィフトは英国国教会の聖職者であるがホイッグ党に友人が多かったため、当初ホイッグ系と見られていた。その二人がロバート・ハーリーという政治家のもとで一時期執筆活動をした。ハーリーはもともとホイッグだったが首相(1710 年~ 1714 年)時代はトーリー党を率いて組閣していた。そこで二人はそれぞれホイッグからトーリーへ変節したと非難される。 当時スペイン継承戦争が延々と続いていて、その終結をめぐって二大政党ではげしく論争があり、ハーリーはその早期停戦を目指してフランスと秘密交渉をし、その結果が公表された。この論戦でデフォー、スウィフトはハーリーの意向にそってそれぞれ論文を書いた。それが『金のかかるこの戦争を早急にやめるべき諸理由』と『同盟諸国の行状』である。彼らはほぼ同時期に同じ趣旨のものを書いたが、二人が相談しあったということはない。その結果、この二論文は両者の特徴がよく出たものになった。デフォーは、ハーリーの御用ジャーナリストであったから、その立場からホイッグ系の戦争継続支持者を説得する内容になる。スウィフトは辛らつな筆致で有名な作家で、自由な立場だったから当然ホイッグ側を猛烈に攻撃していく。結果的にスウィフトの論文のほうが多大の影響を与えて、ユトレヒト条約締結の方向へ一挙に進む。 二つの論文とそれを書いた作家の背景を知ることで、時代と作家、思想などさまざまな面が見えてくる。After the Glorious Revolution in 1688, Great Britain developed the modern parliamentary system, limiting monarchical power. The Tories and the Whigs fiercely competed for the ruling power. Both parties tried to take advantage of journalism to promote their beliefs. After the expiration of the Licensing Act(1695), many newspapers and magazines were published. Almost all writers were involved in this, known as "the paper war". The political activities of Daniel Defoe and Jonathan Swift coincided with this movement. Defoe and Swift did not know one another personally, but both supported the policies of Tory politician Robert Harley, then the Prime Minister, who wanted to end the War of the Spanish Succession quickly. Both Defoe and Swift, who had been regarded as Whigs, were accused of conversion. Under the direction of Harley, each man wrote articles on the issue without knowing about the other's writings. Defoe wrote Reasons Why This Nation Ought to Put a Speedy End to This Expensive War, and Swift wrote The Conduct of the Allies. Each article is quite distinct from the other: Defoe tried to persuade the Whigs to end the war, while Swift aggressively assaulted them. Swift's article persuaded the public and parliamentary opinion, and the parties involved in the war signed the Treaties of Utrecht. A comparison of these articles and their backgrounds reveals that both writers wrote under certain pressures but they nevertheless conveyed distinct opinions and exemplified the complexities of the political circumstances.
著者
真澄 徹
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.129-148, 2009

心理臨床家にとって、自分自身の心理過程を検討することはクライエントを理解することと同様に極めて重要である。「セラピスト・フォーカシング」はセラピストがある事例を担当するうえでの自分自身のフェルトセンスに触れることによって、体験過程の推進が生じるのを促す方法である。本研究は、セラピスト・フォーカシングの1 セッションを提示し、初心心理臨床家にとってのセラピスト・フォーカシングの意義について、セラピストは「何を」「どのように」してその過程で体験していくかを考察し、その上でセラピスト・フォーカシングとスーパービジョンの組み合わせについて検討した。その結果、セラピスト・フォーカシングがフォーカサーとガイドとの2 者関係の相互作用によって事例の理解を促すという点と、セラピスト・フォーカシングによりセラピストが体験過程に触れることにより、スーパービジョンに主体的に望むことができるという点が示唆された。