著者
竹内 みちる 樂木 章子
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.81-89, 2006-06-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
21

本稿では、現代の養子縁組にまつわる暗いイメージの歴史的形成プロセスを検討した。徳川期には、養子は「イエ」存続のための方法として武士階級でも庶民階級でも広く行われており、そこには暗いイメージがないばかりか、養子にいった方が得という明るいイメージさえあった。本稿では、共同事業体的性格を有していた「イエ」が事業内容を減じ、明治・戦前期の「家」へと縮小し、戦後さらに子育てのみを事業とするまでに極限的に縮小した形態として、現在の「家庭」を位置づけた。そこには、欧米の家庭(family)のような独立した2人の個人が結婚し、同じく独立した個人としての子を育てるという個人主義の原則は希薄である。わが国のように「個人」というポジションが希薄であれば、産みの親に育てられず、「家庭」に属すことのできない子(養子の候補)は、何のポジションももたない不幸な存在とみなされ、その不幸な存在を引き取らざるをえない養子縁組にも暗いイメージがつきまとう。
著者
杉万 俊夫
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.17-32, 2010-07-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
20

現代日本社会の特徴の一つを、「集団主義-個人主義」をめぐる3つのトレンドによって考察する。ただし、本稿で用いる「集団主義」、「個人主義」の概念は、従来、社会心理学で用いられてきた同名の概念とは、基本的に性格を異にする。すなわち、本稿では、規範を身体の溶け合いから擬制される「第三の身体」の声であると捉える大澤(1990)の規範理論に依拠し、第三の身体が具象的身体とオーバーラップする段階を集団主義、そのオーバーラップを減じ、第三の身体が不可視の抽象的身体となった段階を個人主義と定義する。 欧米では、「集団主義(前近代)→個人主義(近代)→身体の溶け合いへの回帰(ポスト近代)」という歴史的経路を辿ったのに対し、現代日本社会には、①集団主義からマイルドな個人主義へと向かうトレンド、②マイルドな個人主義から本格的な個人主義へと向かうトレンド、③マイルドな個人主義から溶け合う身体へと回帰するトレンドの3つが共存していることを、具体的な社会現象の例をあげつつ指摘した。20年程度の近未来を見通すとき、③のトレンドが急速に主流になるであろうことを予想するとともに、このトレンドを②のトレンドと見誤ってはならないこと(平易に言えば、集団主義の減退を個人主義化と見誤ってはならないこと)を強調した。
著者
鮫島 輝美
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.33-61, 2010

本研究は、現代医療の欠陥として、医師-患者関係における2つの問題点を指摘した上で、フィールドワークで接した医師と住民の姿を理論的に考察することを通じて、それら2つの問題点を克服する方途を提言しようとするものである。まず、第1節では、現代医療の2つの問題点として、①患者という人間ではなく、患者の「病気」だけが医療の対象とされる傾向があること、②病気の専門家である医師と患者の間に、「強者-弱者」の関係が形成される傾向があることを指摘する。さらに、それらの問題点を、フーコーの言う「生-権力」が閾値を超えて過度に強化された帰結であることを論じる。次に、第2節では、筆者のフィールドワークに基づき、2つの問題点を克服する実践例を紹介する。第3節では、まず、「生-権力」概念を、大澤の規範理論に基づき再定位する。すなわち、「(a)原初的な規範形成プロセス → (b)規範の抽象化 → (c)規範の過度の抽象化 → (d)原初的規範形成フェーズへの回帰」という一連の規範変容プロセスにおいて、「生-権力」の形成・強化は(b)の最終段階、「生-権力」の過度の強化は(c)に対応することを論じる。それに対して、上記の実践例は、(d)原初的規範形成フェーズ((d)の段階)を具現化したものであり、したがって、過度に強化された「生―権力」を原因とする上記2つの問題を克服する方途を示唆するものと考察される。
著者
竹内 みちる 樂木 章子 杉万 俊夫
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.62-75, 2010

親の育児放棄や幼児虐待が報道されるたびに、人々の批判の矛先は母親に向けられる ---- 自分の腹を痛めた子に、なぜそんなむごいことをするのか、と。そこには、「自分が産んだ子は自分が育てるべし」という社会規範を見て取ることができる。 本論では、あえて、「産んだら育てるべし」という規範とは正反対の規範、すなわち、「産んでも育てなくてもよい」という規範の可能性を、筆者が行った現場研究をもとに検討する。それを通じて、社会が子どもを育てるということに関して新たな視座を提供する。 筆者が現場研究を行ったのは、「環の会」という特定非営利活動法人(NPO)であった。「環の会」の活動には、「産んだら育てるべし」という規範とは異なった規範が存在していた。すなわち、「環の会」のリーダーは、予期せずして妊娠した女性からの連絡に昼夜を分かたず対応し、もし自分で育てることができないのであれば、特別養子縁組をすることも一つの選択肢であるとアドバイスをしていた。また、「環の会」では、育て親候補者の募集も行っており、育て親に対しては、産みの親の存在を早期から子どもに伝えること、産みの親への感謝を忘れぬこと、また、産みの親が望む場合には、「環の会」を通じて、産みの親と子どもの接触を保つことを指導していた。 「環の会」の現場研究を通じて、同会の活動には、生まれた子を「産みの親が育てるべし」とするのではなく、「産みの親が育てられない場合には、社会が育てていく」という姿勢を見て取ることができる。同会の活動は、社会が、生まれた子を無条件に受け入れ、育てていくための、いわば窓口としての機能を果たしているものと考察した。
著者
蘇米雅
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.102-130, 2010-07-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
34
被引用文献数
1

本稿は、中国・内モンゴルにおいて自然保護政策として実施された生態移民が、地域生活に及ぼす影響を環境正義の観点から考察する。1949年以降、内モンゴルでは、国策として、遊牧から定住への移行が強制され、さらに放牧地が細分化・固定化されたため、草原は耕地化され、その結果、砂漠化が進行、大都市でも黄砂被害が深刻な問題となった。政府は、黄砂被害を食い止めるために、生態移民政策を打ち出した。その政策は、砂漠化の原因は過放牧にあるという前提に立ち、草原を囲い込んで禁牧にするとともに、牧民を都市に移住させるというものだった。本研究は、内モンゴル正藍旗にあるオリックガチャーとバインオーラガチャーという2つの村における生態移民の経緯を、参加観察によって詳しく追尾し、環境社会学で議論されている「環境正義」について新しい視点を導入しようとするものである。 バインオーラガチャーでは、2002年の生態移民によって、牧民は30キロ離れた移民村に移動、集住することになった。生業も、モンゴル牛数10頭の放牧から輸入ホルスタイン牛数頭の畜舎飼育に変化した。高価なホルスタイン牛の購入費は、借金として村民の肩にのしかかった。かつては自家消費に回していた牛乳も商品化され、生活のすべてが貨幣なしには成立しなくなった。また、村民全員に集住が強いられたため、元の村の構成単位(ホトアイル)は壊され、近隣の結びつきは弱体化してしまった。そのような村民が、生活の現状をなげくとき、現状と対比されるのは、元の牧民生活だった。 2004年、バインオーラガチャーよりも早く生態移民が実施されていたオリックガチャーの移民村で、村民の一部が、違法行為を覚悟で、元の草原で再放牧に乗り出した。彼らは、畜舎で飼っていたホルスタイン牛を連れて、元の草原に戻り牧民生活を再開したのだ。それは、も元のホトアイルを新しい形で創造する試みであり、モンゴル語の「スルゲフ」(再生)を連想される試みであった。 本稿では、再放牧の動きを、新しい共同性に基づく正義に支えられた動きであると考察した。すなわち、地検・血縁による自然的共同性でもなく、また、生態移民政策に見られるような人為的共同性でもない。一見、昔の共同性への回帰に見えはするが、それは、人々が内発的に創造する共同性、すなわち、内発的共同性に基づく正義が再放牧を支えているのではなかろうか。
著者
鮫島 輝美
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.33-61, 2010-07-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
21
被引用文献数
1

本研究は、現代医療の欠陥として、医師-患者関係における2つの問題点を指摘した上で、フィールドワークで接した医師と住民の姿を理論的に考察することを通じて、それら2つの問題点を克服する方途を提言しようとするものである。まず、第1節では、現代医療の2つの問題点として、①患者という人間ではなく、患者の「病気」だけが医療の対象とされる傾向があること、②病気の専門家である医師と患者の間に、「強者-弱者」の関係が形成される傾向があることを指摘する。さらに、それらの問題点を、フーコーの言う「生-権力」が閾値を超えて過度に強化された帰結であることを論じる。次に、第2節では、筆者のフィールドワークに基づき、2つの問題点を克服する実践例を紹介する。第3節では、まず、「生-権力」概念を、大澤の規範理論に基づき再定位する。すなわち、「(a)原初的な規範形成プロセス → (b)規範の抽象化 → (c)規範の過度の抽象化 → (d)原初的規範形成フェーズへの回帰」という一連の規範変容プロセスにおいて、「生-権力」の形成・強化は(b)の最終段階、「生-権力」の過度の強化は(c)に対応することを論じる。それに対して、上記の実践例は、(d)原初的規範形成フェーズ((d)の段階)を具現化したものであり、したがって、過度に強化された「生―権力」を原因とする上記2つの問題を克服する方途を示唆するものと考察される。
著者
竹内 みちる 樂木 章子
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.81-89, 2006

本稿では、現代の養子縁組にまつわる暗いイメージの歴史的形成プロセスを検討した。徳川期には、養子は「イエ」存続のための方法として武士階級でも庶民階級でも広く行われており、そこには暗いイメージがないばかりか、養子にいった方が得という明るいイメージさえあった。本稿では、共同事業体的性格を有していた「イエ」が事業内容を減じ、明治・戦前期の「家」へと縮小し、戦後さらに子育てのみを事業とするまでに極限的に縮小した形態として、現在の「家庭」を位置づけた。そこには、欧米の家庭(family)のような独立した2人の個人が結婚し、同じく独立した個人としての子を育てるという個人主義の原則は希薄である。わが国のように「個人」というポジションが希薄であれば、産みの親に育てられず、「家庭」に属すことのできない子(養子の候補)は、何のポジションももたない不幸な存在とみなされ、その不幸な存在を引き取らざるをえない養子縁組にも暗いイメージがつきまとう。
著者
蘇米雅
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.102-130, 2010

本稿は、中国・内モンゴルにおいて自然保護政策として実施された生態移民が、地域生活に及ぼす影響を環境正義の観点から考察する。1949年以降、内モンゴルでは、国策として、遊牧から定住への移行が強制され、さらに放牧地が細分化・固定化されたため、草原は耕地化され、その結果、砂漠化が進行、大都市でも黄砂被害が深刻な問題となった。政府は、黄砂被害を食い止めるために、生態移民政策を打ち出した。その政策は、砂漠化の原因は過放牧にあるという前提に立ち、草原を囲い込んで禁牧にするとともに、牧民を都市に移住させるというものだった。本研究は、内モンゴル正藍旗にあるオリックガチャーとバインオーラガチャーという2つの村における生態移民の経緯を、参加観察によって詳しく追尾し、環境社会学で議論されている「環境正義」について新しい視点を導入しようとするものである。 バインオーラガチャーでは、2002年の生態移民によって、牧民は30キロ離れた移民村に移動、集住することになった。生業も、モンゴル牛数10頭の放牧から輸入ホルスタイン牛数頭の畜舎飼育に変化した。高価なホルスタイン牛の購入費は、借金として村民の肩にのしかかった。かつては自家消費に回していた牛乳も商品化され、生活のすべてが貨幣なしには成立しなくなった。また、村民全員に集住が強いられたため、元の村の構成単位(ホトアイル)は壊され、近隣の結びつきは弱体化してしまった。そのような村民が、生活の現状をなげくとき、現状と対比されるのは、元の牧民生活だった。 2004年、バインオーラガチャーよりも早く生態移民が実施されていたオリックガチャーの移民村で、村民の一部が、違法行為を覚悟で、元の草原で再放牧に乗り出した。彼らは、畜舎で飼っていたホルスタイン牛を連れて、元の草原に戻り牧民生活を再開したのだ。それは、も元のホトアイルを新しい形で創造する試みであり、モンゴル語の「スルゲフ」(再生)を連想される試みであった。 本稿では、再放牧の動きを、新しい共同性に基づく正義に支えられた動きであると考察した。すなわち、地検・血縁による自然的共同性でもなく、また、生態移民政策に見られるような人為的共同性でもない。一見、昔の共同性への回帰に見えはするが、それは、人々が内発的に創造する共同性、すなわち、内発的共同性に基づく正義が再放牧を支えているのではなかろうか。
著者
竹内 みちる
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.158-174, 2010-07-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
11

いつまでも老いることのない高齢者----「何歳になっても現役」というように、往年と変わらぬ存在としての高齢者。その一方、寝たきりの高齢者。周りの人にケアしてもらわなければ、明日をも生きられない高齢者。我々の持つ高齢者に対するイメージは、現在、この2つに分極化している。我々は、いつから、このような単純で貧困なイメージしかもてなくなったのだろうか。現実の高齢者は、より多様で固有の生を生きているのではないだろうか。本研究は、上記のようなパターン化した「高齢者」の意味を再検討し、そこに欠落している可能的意味を探ろうとするものである。さらに言えば、かつては存在したにもかかわらず、ここ半世紀の中で消滅した「高齢者」の意味を再発見し、その現代的意義を考察しようとするものである。 本研究の方法的特徴は、政府機関が実施した世論調査の質問票をテキスト分析の俎上に載せた点にある。特に、本稿の中で扱った世論調査の内でも、1954年の世論調査は、高齢化が注目を浴びるはるか以前、高齢者が政策的課題として本格的に組み込まれる以前に実施されたものであり、極めて重要な分析対象である。 本稿では、まず、本研究の目的と方法を述べた上で、上記の1954年調査を分析し、それ以降急速に消滅していった「高齢者」概念を指摘した。すなわち、1954年の世論調査では、高齢者は、他の世代とは異なり、「自らの来たりこし道を振り返り、来たるべき死を直視する」存在であったことを指摘した。次に、その概念が、いかなる「高齢者」概念によって代替されたのかを、同じく高齢者を調査対象とした1960年代以降の調査票を分析しながら明らかにした。最後に、より積極的に、「来たりこし道をふりかえり、死を直視する」高齢期を再発見することの現代的意義について論じた。
著者
東村 知子
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
ジャーナル「集団力学」 (ISSN:21854718)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.69-80, 2006-06-01 (Released:2013-04-16)
参考文献数
4

本研究は、障害児の親のピアサポートグループにおける支援の意義を明らかにするものである。地域の障害児親の会の中で、学齢期の子どもの親が中心となっている「T会」においてフィールドワークを行い、定期的なピアカウンセリングと学習会の2つの活動について考察した。ピアカウンセリングでは、主に教師や周囲の保護者との関係について話し合われ、学習会は、親と学校が新しい障害児教育に共に取り組んでいくための関係づくりの場となっていた。T会の意義として、①親の多様な経験がグループとして蓄えられ、アドバイスに生かされていること、②親にとって必要な時に頼れる「基地」となっていること、③外部の親にも情報を発信し、親と関係者をつなぐ取り組みを行っていることの3点が見出された。