- 著者
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山岸 健
- 出版者
- 作新学院大学
- 雑誌
- 作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
- 巻号頁・発行日
- vol.4, pp.15-36, 2006-03-23
人間は、これまでなんとさまざまな仕方と方法で人間の生活と生存がそこで可能となるような居場所、身心のくつろぎと安らぎが得られるところ、よりどころと支えとなるような舞台、まさにトポスを築きつづけてきたことだろう。住居としての家や庭は、人びとの日々の暮らしにおいて、まことに大切なトポスだったのであり、家や庭に情熱を傾注した人びとは、決して少なくなかったのである。洋の東西にわたってさまざまな庭や庭園が見られるが、庭とは、本来、パラダイス、楽園だったのだ。家族生活は、家庭生活と結ばれているといえるだろう。グループやグループ・ライフは、トポスや風景に根をおろしているといっても過言ではないだろう。人びとが、私たちの誰もが、そこで生きている世界は、社会的文化的世界、人間的世界、日常的世界だが、きわめて人間的な表情と姿を見せながら、このような世界においてクローズ・アップされてくる人間の風景こそ庭なのである。庭は、自然と文化の微妙な融合、自然に根ざした人間のモニュメンタルなトポス、まさに記念碑、モニュメントそのものなのである。庭は、目の楽しみと慰めにすぎない光景ではない。視野ばかりか、聴覚の野、嗅覚の野、手で触れることができる野など、さまざまな野があるのである。庭と呼ばれる造形や形象、風景には、音が漂い流れており、トポスとしての、道としての庭においては、水の音や風の音が、また、香りや匂いが、体験されるのである。サウンドスケープ、音の風景は、さまざまな庭、ほとんど人間の眺めともいえる庭においても体験されるのである。人間は、なんとさまざまな仕方で、時間、空間、それぞれを意味づけるために心をくだいてきたことだろう。どのような生活においてであろうと、人間は、庭や庭に相当するものを求めつづけてきたのである。庭の片隅、片隅には、人びとの思いが、にじみ出ているといってもよいだろう。ジャンケレヴィッチは、郷愁を時の香りと呼んだが、人間の庭には、時の香りが満ち満ちているように思われる。庭は特別に注目される記憶のトポス、記憶のよりどころなのである。正岡子規においての庭、柳田國男の庭園芸術と庭へのアプローチ、クローズ・アップされてくるさまざまな庭は、表情、雰囲気、風景は、まことにさまざまだが、いずれも人間にとってまことに興味深い鏡なのである。文化と自然、人間と自然、人間的なトポス、時間と空間、人びとがそこで生きている日常的世界、人間の生活と生存……このようなモチーフへのアプローチを試みようとするときには、庭は、有力なひとつの糸口になるのである。庭とは、人間の感性と想像力、イマジネーション、ヴィジョンに磨きがかけられるトポスだが、庭で体験される道は、なかなか魅力的だ。庭の道は、道の晴れ舞台なのである。庭が借景を迎え入れる舞台となっていることがある。枯山水と呼ばれる庭がある。水の庭がある。すべての庭は、風の庭といえるだろう。庭は、アートの衣をまとった自然なのである。音の庭がある。庭で体験される音の風景がある。意味のなかで生きている人間にとって、庭は、奥深い意味のトポスではないかと思う。庭は、人間に生存のチャンスを与えてくれるトポスなのである。