著者
西田 直樹
出版者
作新学院大学
雑誌
作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.67-81, 2004-03-30

『往生要集』は985年の成立から現代に至るまで多くの日本人に読まれ、彼らの他界観に影響を与えた。しかし、同じ詞章の『往生要集』であっても、読み手が抱くイメージは時代によって大きく異なっている。特に「修羅道」のイメージは時代による変移が激しい。本研究では、19世紀中期に活躍した八田華堂金彦という絵師に注目した。彼は『和字絵入 往生要集』(天保14年本)と『平かな絵入 往生要集』(嘉永再刻本)の挿絵を描いているが、二本の「修羅道」挿絵を比較すると、それらを一見しただけではとても同じ絵師の手による挿絵とは思えないほど異なっている。なぜ同一の絵師が、わずか5年から10年の間に、これほど異なる修羅道の挿絵を描いたのか。また、八田華堂金彦が『往生要集』の詞章からイメージした「修羅道」とは如何なるものであったのか。『往生要集』の解釈史研究という視点から考察した。
著者
西田 直樹
出版者
作新学院大学
雑誌
作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.63-84, 2005-03-23

天保14年(1843年)に刊行された『和字絵入 往生要集』は、所謂「後期仮名書き絵入り往生要集」に属する本である。本研究において取り上げる第12図「大焦熱地獄」は元版本(寛文11年本〔1671〕)の挿絵とは大きく異なる場面を描いている。この第12図の分析を通して、江戸時代後期(天保年間)に生きた絵師八田華堂金彦の『往生要集』「大焦熱地獄」の解釈を歴史的視点から探った。
著者
山岸 健
出版者
作新学院大学
雑誌
作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.15-36, 2006-03-23

人間は、これまでなんとさまざまな仕方と方法で人間の生活と生存がそこで可能となるような居場所、身心のくつろぎと安らぎが得られるところ、よりどころと支えとなるような舞台、まさにトポスを築きつづけてきたことだろう。住居としての家や庭は、人びとの日々の暮らしにおいて、まことに大切なトポスだったのであり、家や庭に情熱を傾注した人びとは、決して少なくなかったのである。洋の東西にわたってさまざまな庭や庭園が見られるが、庭とは、本来、パラダイス、楽園だったのだ。家族生活は、家庭生活と結ばれているといえるだろう。グループやグループ・ライフは、トポスや風景に根をおろしているといっても過言ではないだろう。人びとが、私たちの誰もが、そこで生きている世界は、社会的文化的世界、人間的世界、日常的世界だが、きわめて人間的な表情と姿を見せながら、このような世界においてクローズ・アップされてくる人間の風景こそ庭なのである。庭は、自然と文化の微妙な融合、自然に根ざした人間のモニュメンタルなトポス、まさに記念碑、モニュメントそのものなのである。庭は、目の楽しみと慰めにすぎない光景ではない。視野ばかりか、聴覚の野、嗅覚の野、手で触れることができる野など、さまざまな野があるのである。庭と呼ばれる造形や形象、風景には、音が漂い流れており、トポスとしての、道としての庭においては、水の音や風の音が、また、香りや匂いが、体験されるのである。サウンドスケープ、音の風景は、さまざまな庭、ほとんど人間の眺めともいえる庭においても体験されるのである。人間は、なんとさまざまな仕方で、時間、空間、それぞれを意味づけるために心をくだいてきたことだろう。どのような生活においてであろうと、人間は、庭や庭に相当するものを求めつづけてきたのである。庭の片隅、片隅には、人びとの思いが、にじみ出ているといってもよいだろう。ジャンケレヴィッチは、郷愁を時の香りと呼んだが、人間の庭には、時の香りが満ち満ちているように思われる。庭は特別に注目される記憶のトポス、記憶のよりどころなのである。正岡子規においての庭、柳田國男の庭園芸術と庭へのアプローチ、クローズ・アップされてくるさまざまな庭は、表情、雰囲気、風景は、まことにさまざまだが、いずれも人間にとってまことに興味深い鏡なのである。文化と自然、人間と自然、人間的なトポス、時間と空間、人びとがそこで生きている日常的世界、人間の生活と生存……このようなモチーフへのアプローチを試みようとするときには、庭は、有力なひとつの糸口になるのである。庭とは、人間の感性と想像力、イマジネーション、ヴィジョンに磨きがかけられるトポスだが、庭で体験される道は、なかなか魅力的だ。庭の道は、道の晴れ舞台なのである。庭が借景を迎え入れる舞台となっていることがある。枯山水と呼ばれる庭がある。水の庭がある。すべての庭は、風の庭といえるだろう。庭は、アートの衣をまとった自然なのである。音の庭がある。庭で体験される音の風景がある。意味のなかで生きている人間にとって、庭は、奥深い意味のトポスではないかと思う。庭は、人間に生存のチャンスを与えてくれるトポスなのである。
著者
福島 明子 Meiko Fukushima 作新学院大学人間文化学部 SAKUSHIN GAKUIN UNIVERSITY
出版者
作新学院大学人間文化学部
雑誌
作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-20, 2008-03

本研究では、栃木県那須鳥山市烏山地区の山あげ祭を対象として、当番町、時代、および祭への関与に着目しながら、山あげ祭のイメージや心理的機能について検討を行った。SD法により、金井町は派手で賑やかなイメージ、仲町は静かでこぢんまりとしたイメージ、鍛冶町は豪華でありながら伝統を重んじる質実剛健なイメージなど、各当番町の個性が浮き彫りにされた。各当番町が個性を固持することは、自町のアイデンティティや誇り、他町への競争意識を高め、6年に一度当番町を務めあげるにあたっての原動力、鳥山全体として山あげ祭を継承するモチベーションとなっていると考えられる。因子分析により、山あげ祭の心理的機能として「集団における自己実現」「自由」「神聖さ」「自尊心」「協同」の5因子が抽出された。男性、自営業者、宮座に入っている人、若衆経験者はより集団における自己実現欲求を、宮座に入っている人はより神聖さや自尊心を、高齢者はより自尊心や協同欲求を充足させていた。量的データによる検討で、従来人々が各当番町、現在および昔の若衆に対して漠然と抱いてきた特質が確認されると同時に、何百年間もの間、変遷を遂げつつ継承されてきた伝統的祭のなかに今なお固有の祭の精神が受け継がれていることが示唆された。
著者
村澤 和多里
出版者
作新学院大学
雑誌
作新学院大学人間文化学部紀要 (ISSN:13480626)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-15, 2005-03-23

E.H.エリクソンのアイデンティティ論は、1950年代のアメリカにおいて、既存の社会に対して反抗的な「青年文化」を理解する枠組みとして生み出され、1970年代には日本においても青年心理学の基礎に位置づけられた。しかしながら、1980年代にはいるとエリクソンの理論は急に色あせたものとなり、論壇からは「退場」していった。現代、「ひきこもり」などの青年期の問題について理解・援助していく上で心理と社会を包括的にとらえるパラダイムが必要であると思われるが、エリクソンに代わるものはいまだに登場していない。本論文ではあらたなるパラダイムの可能性を探る第一歩として、エリクソンのアイデンティティ論について概観し、また相対化することを目的として、社会学者P.L.バーガーのアイデンティティ論と比較検討した。エリクソンの理論の限界としては時代的コンテクストを相対化する視点を持ち得なかった点を、バーガーの理論の限界としては結果的に人間から社会への働きかけの可能性が示されていない点を指摘し、新たな理論への可能性としてエリクソンにおけるアクチュアリティの概念に注目した。