- 著者
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サンワル マーク R
- 出版者
- 兵庫県立大学
- 雑誌
- 兵庫県立大学看護学部・地域ケア開発研究所紀要 (ISSN:18816592)
- 巻号頁・発行日
- vol.14, pp.17-35, 2007-03-15
アルバート・J・ノック(1870?-1944)は、20世紀初めのリバタリアンの思想と主張の際立った代表者であった。ルードビッヒ・フォン・ミーゼス、マレー・N・ロートバード、アイン・ランドなどの後続の思想に影響を与えたリバタリアンの運動は、今日においてさえ、先駆的な自由の唱道者と評論家としてノックに懐古的な賛辞を送っている。本論文は、ノックがまさに輝かしい作家・ジャーナリストなのか、それ以上の者なのか、またどの程度までそう考えられるかを探求するものである。ノックはどの程度まで社会科学者と考えられるか?この問いは恐らく、少なくともノック自身を困らせることはかったかも知れないが、しかし、現代リバタリアン理論の光りに照らしてこれを浮かび上がらせることは重要である。リバタリアニズムは、自由で公正な社会がいかなる形の強制と両立できないものであることを主張する政治哲学である。ほとんどすべての政治思想家は私的な強制(例えば殺人、窃盗)は犯罪であると見なすけれども、リバタリアンは、公の(とくに国家の)機関への強制力の行使にもまた禁止すべきものと拡張しようとした。現代のリバタリアニズムには、過激主義とプラグマティズム、左翼と右翼、アナーキズムとミナーキズムなどという、ある程度の混乱があり、ある論者たちはその混乱を純粋な形では力の浪費と考えた。ノックは、現代の理論家たちが主張しなければならないことよりも優れた、主張しなければならない何かを今なおもっているか?もしもヒューマニズムが、アービング・バビットによって広い意味で定義されたものと考えられるとすれば、確かに、ノックが今なおリバタリアンのうち最もヒューマニスティックであるということは、安全な主張である。しかしながら、このヒューマニズムゆえにこそ、しばしば社会科学のうち最も厳格であると見なされる経済学者は言うまでもなく、ノックを社会科学者と考えることから排除するように見えるであろう。ノックを経済学者と見るためには、われわれは、経済学が人間科学の一分科になるようなやり方で人間の知識を再組織しなければならないであろう。これは、経済学派のうち最も実証的でないと知られるオーストリー学派のほとんどでさえ妨げるようなステップである。この問題は、オーストリー学派が、実証主義を妨げる一方、論理的カテゴリーを注意深く構築することを進行するのに注意深いということではない。というのは、確かにノックと一致する手続きであるから。むしろ、ノックの討論法とオーストリー学派の演繹法との違いの要点が、後者(オーストリー学派)が心理学と人間行動理論から厳密に離れたことにある。「反心理主義」という基準で考える場合、ノックの論文は非科学的であるかのように見える。しかしながら、まさにこの反心理主義は、人間行動の純粋理論における市場過程に基づくことと同様に重要であるが、一般的な社会学の基礎として経済学を悪くするのである。もしもリバタリアン理論に必要なものが、「市場が機能する」という陳腐な言葉をくどくど言うことよりもむしろ、一般的な社会学であるとするならば、アルバート・J・ノックの大きなスタイルの社会理論への復帰こそが、理にかなうものものであろう。