11 0 0 0 OA 鞍と鐙

著者
林 俊雄
出版者
創価大学
雑誌
創価大学人文論集 (ISSN:09153365)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.A53-A97, 1996-03
著者
大出 晁
出版者
創価大学
雑誌
創価大学人文論集 (ISSN:09153365)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.A81-A111, 2000-03

一般に,ヘレニズム時代とはアレキサンドロス大王の死(前323年)からエジプトにおけるプトレマイオス王朝の終焉とそのローマ併合(前30年)にわたる時期を意味するが,ここでもその慣習にしたがうとともに,ローマ時代の呼称でローマ帝国の成立(前27年)から西ローマ帝国の滅亡(後476年)にいたる時期をさすものとする。もちろん,都市としてのローマは前8世紀以来建設されていたし,ローマ共和国も前507年に成立してはいたが,これらふたつの時期を論ずることで,われわれは前4世紀終わりから5世紀後半にかけての時期を扱うことができ,以前の論述につなげることができるからである。まず,この時期における知識形態の重要な特徴について論ずることから考察をはじめることにしたい。
著者
満田 剛
出版者
創価大学
雑誌
創価大学人文論集 (ISSN:09153365)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.A131-A154, 2006-03
著者
大出 晁
出版者
創価大学
雑誌
創価大学人文論集 (ISSN:09153365)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.A1-A23, 1993-03

わたしは,すでに「アリストテレスの回顧的説明パターン」と題する論文において,アリストテレスの説明理論のもつ基本的特徴点について論じた。その主な論点はつぎのようになる。1.アリストテレスが事象を学問的に説明するときの基本的な考えは,説明されるべき事象を結論とする三段論法を与えることであり,かれはこれをその事象の「論証」とよんだ。2.この論証の方法には二種類ある。(a)中項としてかれの言う「原因」が与えられている場合で,「根拠の論証」とよばれる。例:近くにあるものは瞬く。惑星は近くにある。それゆえ,惑星は瞬く。これは「惑星が瞬く」という事象の,「近くにある」ことを原因とするところの論証である。(b)中項としてかれの言う「原因」が与えられていない場合で,「事実の論証」とよばれる。例:瞬くものは近くにある。惑星は瞬く。それゆえ,惑星は近くにある。これは「惑星は近くにある」という事象の,原因とは見なされない「瞬く」ことを中項とする論証である。だが,アリストテレスは,原因の認定については「惑星は近くにあるがゆえに,瞬かない」のであって,「瞬かないがゆえに,近くにある」のではない,と語っているのみで,それ以上の理由づけをしていない。3.この「根拠の論証」と「事実の論証」のうちで,「知識」とよびうるのは,その原因によって論証をおこなう「根拠の論証」のみである。4.このような「根拠の論証」の特徴は,「より感覚に近い事象」(瞬き)を「より感覚から遠い原因」(天体との距離)によって<説明する>点にある。感覚に近く疑いえぬ事象を,感覚から遠く,それだけ疑問視しうる原因によって,説明するために,説明されるべき事象がまず固定され,それにあわせて原因を探しだす「ハメコミ方式」の性格をもつ。それゆえ,原因あるいはそれをふくむ前提がまずおかれて,そこからさまざまな事象が引き出されるという意味での「演繹的」説明とは異なる。5.この「ハメコミ方式」においては,「実現した事象」から「それ以前の原因」への探索は可能であっても,「すでに実現した事象」から「まだ実現していない事象」への推論は許されないという,アリストテレスの考え方に支えられている。「過去への探索」は必然性をもつが,「未来への推論」は「未来事象の不確定性」のゆえに不可能であるというのが,その理由である。そして,この思考法はアリストテレスに限られぬギリシャ的思考法というべきものであり,ギリシャ的な円環的時間観に由来する。この時間観によれば,過去と未来に本質的な差はなく,「過去の教訓」はそのまま未来の予言につながるのである。そこで,わたしは,このような「根拠の論証」による説明論を「回顧的説明論」とよんだのである。わたしがこの論文で補いたい論点は五つあるが,そのうちのひとつは,この2の主張の原因あるいは中項の位置づけに関係し,残りの四つはいずれも5の主張に関係している。それら四つの論点とは,まず,アリストテレスのいう「条件づきの必然性」,後にスコラ学者がnecessitas ex suppositioneあるいはnecessitas ex conditioneとよんだものであり,第二は,アリストテレスの「出来事の同族性」なる概念であって,ここにかれの「過去・現在・未来」に関する独特な考え方を見ることができる。第三は,かれの「目的因」の概念であって,それがわれわれの通常用いる目的論的な意味内容とはなはだしく異なることを明らかにする。最後の論点はギリシャの円環的時間観についての補足である。以下,この順番にしたがって議論をすすめてゆくことにしたい。