著者
チェ ウォンソク
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.3-13, 2011-12-31

本稿は,朝鮮王陵の分布・立地・配置の特徴と,景観の造成・管理に見られる風水的要素について,歴史地理的に検討したものである。また景観の形態をはじめ,王陵の立地・形成をめぐって展開した政治権力集団の様相にも注目している。これらは朝鮮王陵が朝鮮史の産物であり,中国の明清代の陵とは異なる文化要素が存在していることを示している。 朝鮮王陵は都城とその郊外に分布しているが,過半数以上が20-40里以内にあり,特に北東と北西に集中している。これは,新羅や高麗王陵の分布よりも広範である。立地は,小盆地の山麓に造営される傾向にあり,平地や丘陵地に位置する新羅王陵や,山腹に位置する高麗王陵とは異なる。こうした朝鮮王陵の立地傾向は,風水的要素が反映したものと思われる。次に同じ陵域内における王陵の距離は300m 前後が多く,紅箭門(陵入口)から陵までの距離は,おおむね150~200m 前後である。配置は南向が絶対的である。また陵寝は,緩斜面の自然地形に盛り土をして造成され,明堂水は自然地形の水の流れに合わせて作られた。 朝鮮王陵の景観は,王朝の権威かつ象徴であった。王陵の立地選定や遷陵は,王室や王族,王と臣下,臣下が勢力伸張を図る手段となり,彼らはその名分として風水説を利用した。 風水は,朝鮮王陵の造成過程,景観築造に多大な影響を与え,王陵は風水地理の原理にもとづいて位置や配置,陵域景観が造営された。王陵の管理は国の法典で定められ,管理状況は毎年定期的に王に報告された。朝廷においては,王陵の管理をめぐり,風水的原理を固守する風水官僚と,経世的実用論理を重んじる儒臣の意見が対立し,調整される場面も見られた。韓国風水史の視点からみると,朝鮮王陵における風水は,政治集団の社会的属性を反映した言説であったと言えよう。 朝鮮王陵関連の歴史遺産として,王陵を風水的に再現した特殊地図である「山陵図」が注目される。山陵図は,陵域を構成する景観要素は写実的に,山水は風水的に描かれるなど,風水情報が詳しく表現されている。
著者
安里 進
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.195-213, 2011-12-31

琉球王国(中山)では,13~19世紀の600年余に4 王統が交代した。14~15世紀には,沖縄島の北と南に山北・山南という小王国も存在した。これらの王統に関係する王陵が7 基存在する。私の報告では,初期の中山王陵・浦添ようどれ(1273年造営・15世紀初期改修・1620年改修)の発掘調査成果と,首里玉御殿=玉陵(1501年造営)の調査報告書の分析を中心に,琉球王陵の変遷・構造的特質・思想的背景・国際関係などについて検討する。内容は,①琉球の王統と王陵,②浦添ようどれの変遷,③「見せる王陵」から「囲い込む王陵」へ,④王陵のモデルはグスクの宮殿(首里城正殿),⑤王陵はニライ・カナイの王宮,⑥琉球王陵の成立と東アジア。参考文献:安里進『琉球の王権とグスク』日本史リブレット42,山川出版社,2008, 1 版2 刷。
著者
キム サンヒョプ
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.63-86, 2011-12-31

朝鮮王陵の石室玄宮は,初期から造成が行われた。またそれまでの古制が研究・整理され,世宗代には『五礼儀』が編纂された。その後,世祖の遺命により,玄宮は石室でなく灰隔で造成されるようになった。 石室玄宮には単陵と双陵,合葬陵があるが,築造に使用される石材には違いがある。単陵と双陵は,壙中に旁(傍)石と北隅石,蓋石,加置蓋石,門立石,門閾石,門扉石,門倚石などが置かれる。石室の上部には蓋石が置かれ,蓋石の下面は,北隅石と両旁石,門立石などと組み合うよう,加工されている。 合葬陵では単陵の部材に加え,仕切として隔石が設けられる。隔石は中央に窓穴が両側に空けられ,石室中央に南北方向に置かれる。隔石と北隅石や,北隅石と両旁石は,抜けたり倒れたりしないよう,接合部が加工されている。このように,単陵と双陵は蓋石を中心に玄宮が造成され,『五礼儀』編纂時の合葬陵は,隔石を中心に東・西室を分ける玄宮が造成された。 玄宮の下部には床面が設けられるが,この床面は,単陵と双陵の場合は雑石と土で突き固められ,合葬陵では炭粉と三物(漆喰,細砂,黄土を混ぜたもの),銅網などを用いて堅固に造成された。こうした方法は『世宗実録五礼儀』や『国朝続五礼儀』に記載されており,古制の研究により生み出された石室玄宮の発展型と言えよう。 いっぽう世祖の光陵以降,王陵には石室が用いられなくなり,「灰隔」の玄宮が登場する。灰隔とは朱子が著した『家礼』に登場し,朝鮮時代初期における儒教理念の浸透とあいまって広く普及していった。 灰隔の玄宮は,まず壙を掘り,壙の下で炭末に火をつけて焼き,三物で床面を突き固める。次に傍灰を設けるが,その方法は二つに大別される。こうした工法は石室玄宮とは異なるが,概念は同じものと考えられ,旧禧陵の発掘調査によっても確認されている。
著者
松原 典明
出版者
関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)
雑誌
周縁の文化交渉学シリーズ3 『陵墓からみた東アジア諸国の位相―朝鮮王陵とその周縁』
巻号頁・発行日
pp.181-194, 2011-12-31

日本の近世における「王権」の墓制についてその歴史的な系譜と展開を示すことを目的とする。特に天皇家,将軍家,大名家に視点を当て,支配者階級における造墓に対する意識が,古墳時代以来改めて「象徴」として意識されたことを,墓の規模,構造,その変遷,宗教,思想などを通して捉えてみたい。具体的には,近世天皇家と将軍家の墓の規模の比較検討をする。将軍家の墓制については,特に将軍が霊廟として祀られるが,その系譜は,中世禅宗における開山堂,昭堂の系譜にあることを類例など確認しながら示した。さらに,将軍を中心とした実質的な権力下にあった構成員である大名の墓制の実態と,造墓の背景となった,思想,宗教,政治的な関係について類例を示しながら紹介した。結論的には,特に近世初期における大名家墓所造営において遺骸を埋葬する場合,朱子『家禮』の葬制に則った埋葬が行われ,後の供養は仏教的な様式に従ったことを指摘した。近世初期大名家墓所造営における儒教受容の一端を先学の研究に導きられながら明らかにした。