著者
末松 淑美
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.23-34, 2012

同じ語源に由来する話法の助動詞sollen(ドイツ語)、zullen(オランダ語)、shall(英語)の意味論的比較を試みる。本稿は、その第一段階である。辞書および文法書の例文を集めてコーパスとし、用法別の対照表を作成する。コーパスの規模は小さいが、いくつかの傾向をそこから読み取ることができる。たとえば、非認識的用法の1つで、sollenが「主語以外の意志」に由来する必然性を表しているのに対し、zullenやshallはより強く話者の意志を表現していること。いっぽう認識的用法では、sollenとzullenには「伝聞」の用法があるが、shallにはないこと。また、zullenやshallには、sollenにはない「話者の主観的推量」の意味があることなどである。三者の違いを概観し、報告する。
著者
佐藤 真一
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.168-162, 2006

ハイデルベルク大学教授時代に、近代歴史学の方法が伝統的な神学にもたらす帰結について考察を深めたトレルチ(一八六五-一九二三)は、第一次世界大戦のさなかの一九一五年以降ベルリン大学において歴史哲学を講じ、「われわれの思考の根本的な歴史化」の問題に取り組むことになった。その際、「近代歴史学の父」といわれるレーオポルト・フォン・ランケ(一七九五-一八八六)の歴史学をどのように捉えていたのだろうか。本稿では、一九一〇年代に相次いで出版された史学史の著作との関連も視野に入れながら、一般的な通念とは異なりランケのヘーゲルとの近さを強調するトレルチ独自のランケ観を考察する。
著者
松村 洋一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.219-228, 2015

本稿は、明治・大正期の音楽誌以外の雑誌に掲載された、作曲家の伝記情報を扱った記事に関する調査の中間報告である。音楽誌以外を扱う理由としては、当時、それぞれの分野の雑誌はあまり個別化されていなかったこと、また、ほかの人文系の分野に比べて、音楽雑誌の成立、確立が遅かったこともあり、音楽誌以外の雑誌に音楽関係の話題が掲載される場合が多かったことが挙げられる。そして、広い影響力を持った一部の作曲家を理解するには、こうした多義的な視点を持つことが求められよう。本稿の内容としては、記事一覧を作成し、そこから読み取れるいくつかの点を指摘する。たとえば、ヴァーグナーに関する記事の多さや、作曲家の作品ではなく人となりに注目が集まる傾向などである。これらは、文学誌等を材料にすでに指摘がなされているものだが、本稿では、美術誌や、少年誌、婦人誌など、これまでとは異なった材料から裏付けることが出来た。
著者
松野 茂
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p89-100, 1977
著者
宮入 恭平
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.115-126, 2011

ポピュラー音楽は、音楽産業という文化産業がつくりだす商品として消費されている。しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災は、日本のポピュラー音楽シーンにさまざまな影響をもたらすことになった。平穏な日常生活のなかでは自明のものだったポピュラー音楽シーンにおける規範-音楽産業がつくりだす商品としてのポピュラー音楽の消費-は、3.11によって改めて問い直されることになったのだ。3.11が発生してから半年が経過したポピュラー音楽シーンは、3.11以前と比べて、何かが変わったのだろうか?あるいは、何も変わっていないのだろうか?本稿では、時間の経過-3.11以前、3.11発生直後、そして3.11以降-とともに変化を見せてきた日本のポピュラー音楽シーンについて検証しながら、自明のものとなっていたポピュラー音楽シーンの規範について考察する。
著者
大塚 直
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.1-12, 2008

演劇とは何か。この問題をめぐって様々なアプローチが考えられるだろう。だが本稿では、少なくとも伝統的な西洋の戯曲を参照するかぎり、演劇が常に王の退位など法的権力の失効する「例外状態」を扱いながら、そこに正義を洞察するメディアとして機能してきたことに着目する。演劇は、その意味では政治学者カール・シュミットの唱えた「例外状態」説における法の問題と通底する問題性を持っている。このような視座は、とくに旧東ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトとその後継者ハイナー・ミュラーの〈教育劇〉において考察されてきた。では彼らは、極限状況における「正義」の問題をどのように演劇テクストに結実させたのか。さらに、彼らの仕事を嚆矢として出現した新しい現代劇の傾向を「ポストドラマ演劇」と定式化する演劇学者H.-Th. レーマンは、今日の演劇形態のいかなる点に正義/正当性(Gerechtigkeit)を見出しているのか。これらの問題を整理することで、現代における演劇の可能性を捉え直してみたい。