著者
岩﨑 洋介
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.97-111, 2006-03

ジャック・ラカンは1966年に出版されたそれまでの主要論文や講演の記録をまとめた『エクリ』の段階で既にシェーマZ など図形や記号を伴う概念を導入していたが、『エクリ』以降もメビウスの輪やクロス・キャップ、トーラスといったトポロジー的な図形、さらに「マテーム( mathème)」とラカン自身により名づけられた定式や論理学の量記号を援用してきた。そしてその晩年にあたる1970年代、学説的に最も力を注いでいたのはボロメオの輪、ないし結び目を己の学説に導入することであり、その執着ぶりは例えばエリザベト・ルディネスコによる『ジャック・ラカン伝』に窺えよう。 「ボロメオの結び目」とは北イタリアのマジョーレ湖上の島にその名を残すボロメオ家の紋章に由来し、三つの輪、仮に輪a、b、c、とすると、a はb の、b はc のそれぞれ上に部分的に重なる形で位置する時、c がa の上になるように組み合わされた図形を指し、三つの輪の上下関係がa > b > c > a > b…という形で循環している。ラカンも度々指摘するように正確には「結び目」ではなく、三つの「輪」が三すくみに繋がれている図形である。その輪の交叉する部分を取り出した三つ葉のクローバー状の「結び目」もボロメオの輪と同様に言及される。これら図形の重要な特徴は、輪を一つ外すと、残りの二つの輪も互いに外れること、結び目の場合は線が交叉する個所が三箇所あるわけだが、そのうちの一箇所で交叉する線の上下を入れ替えると結び目が解消されただの輪になってしまうことである。こうした特徴を持つ輪は必ずしも三つとは限らず輪の数をいくら増やしても、そのうちの一つの輪を外すと鎖状に繋がっていたそれらの輪は個々の輪に分解してしまうといった図形を考えることは可能であるが、それは輪の数が三未満ではそうした関係は得られず、三が最小値である。 こうしたボロメオの輪自体は明らかにトポロジー的な図形であるが、このボロメオの輪への関心はことに『エクリ』以降に強まったラカンのトポロジーの援用の単なる延長とみなせるのであろうか。 ラカンのトポロジーへの関心は上記ルディネスコの評伝によると1951年に始まるが、『エクリ』に収められた諸編を見る限りでは、場(topos)と場の関係といったトポロジーの出発点となった観点による考察は色濃いものの、メビウスの輪などのパラドクシカルな図形はそれ以降の60年代後半になって盛んに援用されてくる(メビウスの輪が『エクリ』の中では最も後年に書かれた〈 La science et la vérité〉 で軽く言及されてはいるが)。ラカンがボロメオの輪について初めて言及したのは1972年の2月9日のセミネールでのことであるが、集中的に取り上げられ始めるのはその次の年度である1972–73年度のセミネールEncoreの全11回あった講義の内の第10回目(〈Ronds de ficelle〉)以降のことで、丁度マテームと入れ替わり講義中にしきりと描かれる図式となる。すなわちまとめると『エクリ』以降のラカンの図式に関する主な関心は、トポロジー的な図形→マテーム→結び目、という順で移行している。 マテームとは分析家、大学、主人、ヒステリー患者の四つにディスクールを分け、精神分析の立場を明確に位置づけるものであった。これは当時ラカンの属していたフランス精神分析学会( La Société française de psychanalyse)の解消に伴い、1963年に自ら創設したパリ・フロイト学派( l'Ecole freudienne deParis)の基礎付け、また精神分析が新設されるパリ大八大学に独立した学部を設置するにあたり、取分け科学的な知と精神分析の関係に見通しをつけ、いかに精神分析を「教育」しうるかという問いへの根本的な反省が要請されていたという外部的な事情も重なっている。 結び目を考える時、結び目の取り上げられた時期がこのマテームの時期の後にあるということが重要となってくる。ジャン=クロード・ミルネールはラカンの学説を三つの時期に分けているが、1972–73年度のセミネールEncore を第二期から第三期を分かつ位置にあるとしている。それはこの年度の講義でマテームの時代が頂点に達し、それと同時にそれをいわば「脱構築」するものとしての結び目が本格的に導入され始めるからだ。ミルネールに拠れば、第二期のラカンは数学におけるブルバキの影響を受け、その数学言語の形式化に倣い精神分析におけるディスクールの形式化を推し進めたものであったが(ラカンを除いてはブルバキと同じように執筆者が無記名なパリ・フロイト学派公認の雑誌Scilicet においてその傾向は著しい)、1968年の学生運動から70年代にかけての数学におけるブルバキ自体の後退、そして自身の学派内の不和といった外部的な影響もあり、マテームによる形式化及びそれに基づく精神分析の伝授へのさらなる見直しの必要をラカンが感じざるをえない状況で登場し、マテームに替わり盛んに援用されるようになったのが「結び目」であった。そうした見地に立つと、70年代にラカンが執着を示した結び目とはマテーム以前のトポロジー的な図形の援用とは性格を異とするもの、少なくともその単なる延長にあるのではない、と見なさねばなるまい。ラカンが結び目に着目したのも(少なくとも当時は)結び目が数学的に理論化されていないものであったからである。実際、ラカンの結び目とは以下に見るように、トポロジー的な対象として数学に基盤を求めるものではなく、むしろ数学を含めたあらゆる言語の「起源」を射程にいれたものである。
著者
大鐘 敦子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.113-126, 2006-03

十九世紀末に一世を風靡したファム・ファタルの代表『サロメ』といえば、誰しもが思い浮かべるのはオスカー・ワイルドの戯曲である。ワイルドはビアズリーの挿絵にはじめはそれほど乗り気ではなかったと言われているが、そのモノクロの挿絵はワイルドの『サロメ』の妖艶さや退廃的、破滅的、悪魔的側面を全面に押し出して、読者や未来の観衆の関心を引き寄せることになった。しかしこれを遡ること十六年、ギュスターヴ・フロベールが最晩年の短編『ヘロディアス』においてサロメのダンスを初めて言語化することに成功したことや、ワイルドがフロベールに多大な影響を受け、意識的に初稿をフランス語で書いていたことは意外に知られていない。 『サロメ』は、1891年11月から12月にかけてオスカー・ワイルドのパリ滞在中にフランス語で書かれ、1893年にパリで出版された。本国では上演禁止となり、ロンドンでの出版は1894年となった。ワイルドはフランス文学に精通し、パリの文壇や社交界にも出入りし、ジッド、マラルメ、ピエール・ルイスなどと親しく交流して、マラルメの"火曜会"にも二度顔を出していることが知られている。 当時すでにフロベールは他界していたわけだが、ワイルドはフロベールを文学の師として、美学的にも仰いでいたことが書簡に残された証言からわかる。1888年のW. E. Henley 宛の手紙では、英語で散文を書くためにフランスの散文を勉強していることを述べ、「そう、フロベールこそわが師なのだ。そして『誘惑』の英訳が成功したなら、私は第二のフロベールになれるし、それ以上のものになるだろう。」と『聖アントワーヌの誘惑』の翻訳について意欲を燃やしている。また1890年には、Scots Observer の編集者への手紙で美学的問題に触れ、『ボヴァリー夫人』と『サランボー』を引き合いに出しながら、「フロベールは言葉の日常的な感覚において正しいだけでなく、芸術的にも正しかった。そしてそれがすべてなのだ。」と全面的に尊敬の念を表している。投獄中に友人に読書用の本を依頼した際にも、フランス語文献リストの筆頭にフロベールの La Tentation de saint Antoine, TroisContes, Salammbô を挙げている。一方、Pascal Aquien はフロベールとの関係について、サランボーの名前や巫女というアイデンティティー、ユダヤ人たちの議論、「サロメ」と「ヘロディアス」という主人公たちの名前の拝借、『ヘロディアス』の「ヨカナン」「マナエイ」から「ヨカナン」「ナアマン」という命名をしたことなど、かなり影響があったことを指摘している。 『サロメ』に関するワイルドの証言で特にフロベールに関係あるものを挙げておきたい。まず第一に挙げられるのは、1890 年のエドガー・ソルタスによる挿話で、サロメについて書くと宣言していたワイルドが、ある晩ピカデリーのレストランでソルタスと食事をした後、連れ立ってフランシス・ホープのアトリエをたずねたところ、逆立ちしたヘロディアスの版画が、まさにフロベールの作品のように描かれており、 « La bella donna della mia mente »(「わが夢見る麗しき女性よ!」)と叫んだという話。第二は、アメリカの象徴派詩人スチュアート・メリルとムーラン・ルージュに行ったときの挿話で、ルーマニア娘のアクロバット的な逆立ちの踊りを見たワイルドが、執筆中の劇の中のサロメのダンスを踊ってもらおうと思い、「フロベールの物語でのように、あの娘に逆立ちのダンスをしてほしいんだ。」と言ったという話である。どちらも注目されるのは、ワイルドがフロベールのサロメのダンスの「逆立ちの踊り」にとても惹かれていたということである。また、サランボーへの賛美も惜しまず、ビアズリーの挿絵について批判する際に「僕のサロメはサランボーの妹だ」という表現すらしている。 『ヘロディアス』の中でサロメの踊りの初の言語化に挑んだフロベールの先駆性と象徴性を論じた拙論では、その「逆立ちのポーズ」に読み取れるユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への逆転というメタファーを指摘したが、ワイルドが果たしてフロベールのサロメの「逆立ちの踊り」にこうした意味を読み取っていたかは定かではなく、踊りのト書きにも逆立ちのポーズへの言及はない。その代わり、ワイルドのサロメでは「七枚のヴェールの踊り」というメタファーと月のメタファーが全面に押し出されている。ことにワイルドがサロメを一幕物の劇にしたことから、登場人物の科白の文体が重要な位置を占めており、後にその作品の芸術性は、音楽性としてシュトラウスのオペラが証明することになった。以下、本稿ではワイルドのサロメの文体とリズムをフロベールのそれと比較しながら、『ヘロディアス』のサンボリスムから『サロメ』の世紀末文学への変遷をみることとする。
著者
田上 竜也
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.35, pp.18-31, 2002-09

ポール・ヴァレリーにとってナルシスの形象は生涯にわたり特権的な価値を帯びていた。その口切りといえるのは、若年期を過ごしたモンペリエの植物園に葬られる少女ナルキッサの伝説に喚起され、その墓碑銘をエピグラフに記した1891年初出の詩篇『ナルシス語る』である 一[...]どんなに私は嘆くことか、お前の宿命的で純粋な輝きをかくも柔らかく私に抱きかかえられた泉よ私の眼はその死の紺碧のなかに汲んだのだ濡れそぼれた花々の冠を頂いた自らの像を[_】((E,1,82)(1)rエロディアード』に強く触発されたこの詩には、しかしながらマラルメの詩における意識の微細な動きを映し出す意図や、詩句の純化された緊張感は希薄であると言わざるを得ない。夕暮れの月光に照らされる泉、百合や薔薇、ミルトといった花々、サファイアや水晶に形容される水面、ニンフの群れといった光景は、世紀末の意匠として目新しいものではなく、若書きの陳腐な道具立ての域を越えていないとすら言える。けれどもナルシスのモチーフはそうした通俗の次元にとどまらず、その後ヴァレリーのなかで独自の展開を遂げ、さまざまな意味を担っていくことになる。この稿では自意識の構造を示すモデルとしてのナルシス問題系の変遷を、主として1920年前後の著作に焦点を当てつつ辿ることにする。
著者
山本 武男
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.58, pp.155(40)-174(21), 2014-03

Mélanges offerts au professeur Hashimoto Junichi = 橋本順一教授退職記念論文集これまでのあらすじ[翻訳]
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.40, pp.14419-10855, 2005-03 (Released:2005-00-00)

はじめに1 国民的投影 2 至高な王への同一化3 映画と国民国家4 共同体の物語=表象、あるいは〝ファシズムの美学〞5 機械による贖罪補遺1 アウシュヴィッツの不可視性?補遺2 〈国民映画〉と〈国策映画>
著者
岩﨑 洋介
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.97-111, 2006-03 (Released:2006-00-00)

ジャック・ラカンは1966年に出版されたそれまでの主要論文や講演の記録をまとめた『エクリ』の段階で既にシェーマZ など図形や記号を伴う概念を導入していたが、『エクリ』以降もメビウスの輪やクロス・キャップ、トーラスといったトポロジー的な図形、さらに「マテーム( mathème)」とラカン自身により名づけられた定式や論理学の量記号を援用してきた。そしてその晩年にあたる1970年代、学説的に最も力を注いでいたのはボロメオの輪、ないし結び目を己の学説に導入することであり、その執着ぶりは例えばエリザベト・ルディネスコによる『ジャック・ラカン伝』に窺えよう。 「ボロメオの結び目」とは北イタリアのマジョーレ湖上の島にその名を残すボロメオ家の紋章に由来し、三つの輪、仮に輪a、b、c、とすると、a はb の、b はc のそれぞれ上に部分的に重なる形で位置する時、c がa の上になるように組み合わされた図形を指し、三つの輪の上下関係がa > b > c > a > b…という形で循環している。ラカンも度々指摘するように正確には「結び目」ではなく、三つの「輪」が三すくみに繋がれている図形である。その輪の交叉する部分を取り出した三つ葉のクローバー状の「結び目」もボロメオの輪と同様に言及される。これら図形の重要な特徴は、輪を一つ外すと、残りの二つの輪も互いに外れること、結び目の場合は線が交叉する個所が三箇所あるわけだが、そのうちの一箇所で交叉する線の上下を入れ替えると結び目が解消されただの輪になってしまうことである。こうした特徴を持つ輪は必ずしも三つとは限らず輪の数をいくら増やしても、そのうちの一つの輪を外すと鎖状に繋がっていたそれらの輪は個々の輪に分解してしまうといった図形を考えることは可能であるが、それは輪の数が三未満ではそうした関係は得られず、三が最小値である。 こうしたボロメオの輪自体は明らかにトポロジー的な図形であるが、このボロメオの輪への関心はことに『エクリ』以降に強まったラカンのトポロジーの援用の単なる延長とみなせるのであろうか。 ラカンのトポロジーへの関心は上記ルディネスコの評伝によると1951年に始まるが、『エクリ』に収められた諸編を見る限りでは、場(topos)と場の関係といったトポロジーの出発点となった観点による考察は色濃いものの、メビウスの輪などのパラドクシカルな図形はそれ以降の60年代後半になって盛んに援用されてくる(メビウスの輪が『エクリ』の中では最も後年に書かれた〈 La science et la vérité〉 で軽く言及されてはいるが)。ラカンがボロメオの輪について初めて言及したのは1972年の2月9日のセミネールでのことであるが、集中的に取り上げられ始めるのはその次の年度である1972–73年度のセミネールEncoreの全11回あった講義の内の第10回目(〈Ronds de ficelle〉)以降のことで、丁度マテームと入れ替わり講義中にしきりと描かれる図式となる。すなわちまとめると『エクリ』以降のラカンの図式に関する主な関心は、トポロジー的な図形→マテーム→結び目、という順で移行している。 マテームとは分析家、大学、主人、ヒステリー患者の四つにディスクールを分け、精神分析の立場を明確に位置づけるものであった。これは当時ラカンの属していたフランス精神分析学会( La Société française de psychanalyse)の解消に伴い、1963年に自ら創設したパリ・フロイト学派( l’Ecole freudienne deParis)の基礎付け、また精神分析が新設されるパリ大八大学に独立した学部を設置するにあたり、取分け科学的な知と精神分析の関係に見通しをつけ、いかに精神分析を「教育」しうるかという問いへの根本的な反省が要請されていたという外部的な事情も重なっている。 結び目を考える時、結び目の取り上げられた時期がこのマテームの時期の後にあるということが重要となってくる。ジャン=クロード・ミルネールはラカンの学説を三つの時期に分けているが、1972–73年度のセミネールEncore を第二期から第三期を分かつ位置にあるとしている。それはこの年度の講義でマテームの時代が頂点に達し、それと同時にそれをいわば「脱構築」するものとしての結び目が本格的に導入され始めるからだ。ミルネールに拠れば、第二期のラカンは数学におけるブルバキの影響を受け、その数学言語の形式化に倣い精神分析におけるディスクールの形式化を推し進めたものであったが(ラカンを除いてはブルバキと同じように執筆者が無記名なパリ・フロイト学派公認の雑誌Scilicet においてその傾向は著しい)、1968年の学生運動から70年代にかけての数学におけるブルバキ自体の後退、そして自身の学派内の不和といった外部的な影響もあり、マテームによる形式化及びそれに基づく精神分析の伝授へのさらなる見直しの必要をラカンが感じざるをえない状況で登場し、マテームに替わり盛んに援用されるようになったのが「結び目」であった。そうした見地に立つと、70年代にラカンが執着を示した結び目とはマテーム以前のトポロジー的な図形の援用とは性格を異とするもの、少なくともその単なる延長にあるのではない、と見なさねばなるまい。ラカンが結び目に着目したのも(少なくとも当時は)結び目が数学的に理論化されていないものであったからである。実際、ラカンの結び目とは以下に見るように、トポロジー的な対象として数学に基盤を求めるものではなく、むしろ数学を含めたあらゆる言語の「起源」を射程にいれたものである。
著者
Mallarmé Stéphane 原山 重信
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.54, pp.61-71, 2012-03

11. 1875年11月21日 掲載されず12. 1875年11月21日―1875年11月27日13. 1875年11月21日 掲載されず14. 1875年11月21日 掲載されず15. 1875年11月27日―1875年12月11日16. 1875年11月27日―1875年12月11日訳者後記
著者
森 英樹
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.36, pp.1-34, 2003-03

1フランス文学と漢文学との出会い(その八)クロ.___デルと "タオ"森英樹第一章 フランスのカトリック詩人・劇作家ポール・クローデル(1868-1955)は、その26歳から41歳にかけて外交官として赴任した中国に前後三度にわたって滞在した。一度目の滞在は1895年7月から1899年10月にかけて(上海領事代理、福州及び漢口副領事館事務代理、福州副領事)、二度目は1900年末から1905年2月にかけて(福州及び天津領事など)、そして三度目は1906年5月から1909年8月にかけてであった(北京公使館一等書記官、天津領事)。 かれはその随想集『接触と環境』(《Contacts et circonstances》)中のエッセー(→「中国のこと」)においてみずから言う。わたしはその生涯の15年間を中国で過ごした。老いた西太后や光緒帝に謁見したこともある。行進する袁世凱の姿を見かけたこともある。また孫文は知己のひとりであった。わたしは中国と中国の人々とをこよなく愛した。ここにおいて見聞し身近に接触し体験するさまざまの事象がほとんど自分の嗜好に乖くものではない。あらゆる種族や風習や臭気が活気に満ちて渦巻き、沸騰し、共生しているこの国のなかにあって、わたしはみずから水中の魚のごとくに感じていた。中国の人々はわたしにとっていわば"異郷にある同じ神の子ら"(nOSfrére séparés)のように思われた、と(1926年,OEv.en prose.P.1020sqq.)。2 クローデルが中国と初めて接触したのは、かれが21歳のおり1889年のパリ万博において安南の芝居を見たのがそれであったという。文学的方面について言えば、エルヴェ・ド・サン・ドニの仏訳『唐代詩集』(→拙稿NO29et NO30)の存在は無論知っていた。知ってはいたがこれを読み通したらしい明瞭な痕跡は見出せないから、実は披読しなかったのかも知れない。『クローデルと中国的世界』の著者G・ガドッフルもまたクローデルはデルヴェを読んでいないと断定している。 ジュディット・ゴーチェの可憐な『白玉詩書』(一拙稿N・34et 35)は、クローデルはこれを福州時代に携帯しておりみずからその幾首かを翻案した(→《Autres poëmes d'aprés le chinois》)。その2年後に出た翻案詩集(一《Petit poëmes d'aprés le chinois》)は、 Tsen Tsong-mingなる中国人が出版した《唐代絶句百選》なるいささか怪しげな仏訳詩集を種本にしたもので、英訳と仏訳が並記されている。この英訳はクローデル自身のものなのか、それとも余人のものなるか判明でない。アーサー・ウエリーの『中国詩百七十首』は1918年に出ているが、クローデルはこの英訳をも読んでいないとガドッフルは言っている 魅惑的な形象と構成の哲学をもつ漢字については、レオン・ヴィジェルの著書に啓発されながら、『西洋の表意文字』を書いている。これはS.マラルメの『英語の単語』に比較されるべき、単語をめぐる詩的想像と類推を展開させたエッセーである。 ちなみに『史記』を翻訳し、「T'oung Pao」の主幹となり、当時のヨーロッパのシノロジーに君臨して名声の高かったE・シャバンヌ(→拙稿N・29.p.87)はクローデルとはルイ・ル・グラン校の仲間であったが、そうした一連のシノロジストの著作のいずれかをクローデルがとくに精読したという形跡も明らかではない。 クローデルと中国との関わりにおいて顕著な事件は、文学的方面よりは
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-18, 2006-09 (Released:2006-00-00)

序I:科学知という「禁断の果実」Ⅱ:エコール・ノルマル批判Ⅲ:「静かな無神論」:宗教と科学の融合Ⅳ:『ローマ』と聖フランシス:「生の信仰」結論
著者
林田 愛
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49/50, pp.131-153, 2009 (Released:2009-00-00)

Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集 序I: 精神病治療と外科手術II: パターナリズムの文学的表象 : 戦略としての「情報の操作」III: 疾患ではなく患者をIV. 慈父と医師むすび