著者
大鐘 敦子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.42, pp.113-126, 2006-03

十九世紀末に一世を風靡したファム・ファタルの代表『サロメ』といえば、誰しもが思い浮かべるのはオスカー・ワイルドの戯曲である。ワイルドはビアズリーの挿絵にはじめはそれほど乗り気ではなかったと言われているが、そのモノクロの挿絵はワイルドの『サロメ』の妖艶さや退廃的、破滅的、悪魔的側面を全面に押し出して、読者や未来の観衆の関心を引き寄せることになった。しかしこれを遡ること十六年、ギュスターヴ・フロベールが最晩年の短編『ヘロディアス』においてサロメのダンスを初めて言語化することに成功したことや、ワイルドがフロベールに多大な影響を受け、意識的に初稿をフランス語で書いていたことは意外に知られていない。 『サロメ』は、1891年11月から12月にかけてオスカー・ワイルドのパリ滞在中にフランス語で書かれ、1893年にパリで出版された。本国では上演禁止となり、ロンドンでの出版は1894年となった。ワイルドはフランス文学に精通し、パリの文壇や社交界にも出入りし、ジッド、マラルメ、ピエール・ルイスなどと親しく交流して、マラルメの"火曜会"にも二度顔を出していることが知られている。 当時すでにフロベールは他界していたわけだが、ワイルドはフロベールを文学の師として、美学的にも仰いでいたことが書簡に残された証言からわかる。1888年のW. E. Henley 宛の手紙では、英語で散文を書くためにフランスの散文を勉強していることを述べ、「そう、フロベールこそわが師なのだ。そして『誘惑』の英訳が成功したなら、私は第二のフロベールになれるし、それ以上のものになるだろう。」と『聖アントワーヌの誘惑』の翻訳について意欲を燃やしている。また1890年には、Scots Observer の編集者への手紙で美学的問題に触れ、『ボヴァリー夫人』と『サランボー』を引き合いに出しながら、「フロベールは言葉の日常的な感覚において正しいだけでなく、芸術的にも正しかった。そしてそれがすべてなのだ。」と全面的に尊敬の念を表している。投獄中に友人に読書用の本を依頼した際にも、フランス語文献リストの筆頭にフロベールの La Tentation de saint Antoine, TroisContes, Salammbô を挙げている。一方、Pascal Aquien はフロベールとの関係について、サランボーの名前や巫女というアイデンティティー、ユダヤ人たちの議論、「サロメ」と「ヘロディアス」という主人公たちの名前の拝借、『ヘロディアス』の「ヨカナン」「マナエイ」から「ヨカナン」「ナアマン」という命名をしたことなど、かなり影響があったことを指摘している。 『サロメ』に関するワイルドの証言で特にフロベールに関係あるものを挙げておきたい。まず第一に挙げられるのは、1890 年のエドガー・ソルタスによる挿話で、サロメについて書くと宣言していたワイルドが、ある晩ピカデリーのレストランでソルタスと食事をした後、連れ立ってフランシス・ホープのアトリエをたずねたところ、逆立ちしたヘロディアスの版画が、まさにフロベールの作品のように描かれており、 « La bella donna della mia mente »(「わが夢見る麗しき女性よ!」)と叫んだという話。第二は、アメリカの象徴派詩人スチュアート・メリルとムーラン・ルージュに行ったときの挿話で、ルーマニア娘のアクロバット的な逆立ちの踊りを見たワイルドが、執筆中の劇の中のサロメのダンスを踊ってもらおうと思い、「フロベールの物語でのように、あの娘に逆立ちのダンスをしてほしいんだ。」と言ったという話である。どちらも注目されるのは、ワイルドがフロベールのサロメのダンスの「逆立ちの踊り」にとても惹かれていたということである。また、サランボーへの賛美も惜しまず、ビアズリーの挿絵について批判する際に「僕のサロメはサランボーの妹だ」という表現すらしている。 『ヘロディアス』の中でサロメの踊りの初の言語化に挑んだフロベールの先駆性と象徴性を論じた拙論では、その「逆立ちのポーズ」に読み取れるユダヤ教的世界観からキリスト教的世界観への逆転というメタファーを指摘したが、ワイルドが果たしてフロベールのサロメの「逆立ちの踊り」にこうした意味を読み取っていたかは定かではなく、踊りのト書きにも逆立ちのポーズへの言及はない。その代わり、ワイルドのサロメでは「七枚のヴェールの踊り」というメタファーと月のメタファーが全面に押し出されている。ことにワイルドがサロメを一幕物の劇にしたことから、登場人物の科白の文体が重要な位置を占めており、後にその作品の芸術性は、音楽性としてシュトラウスのオペラが証明することになった。以下、本稿ではワイルドのサロメの文体とリズムをフロベールのそれと比較しながら、『ヘロディアス』のサンボリスムから『サロメ』の世紀末文学への変遷をみることとする。
著者
大鐘 敦子
出版者
関東学院大学法学部
雑誌
関東学院教養論集 (ISSN:09188320)
巻号頁・発行日
no.22, pp.1-25, 2012-01

フローベルの歴史長編小説「サラムボー」(1867)は、19世紀末に向けて輩出した「宿命の女(ファム・ファタル)」の系譜に取り上げられ、ワイルドの「サロメ」にも影響を与えたと言われている。「ファム・ファタル」とは、男性の命を左右するつれなき美女(La dame sans merci)と言われているが、サラムボーの女性像の初期形成において、ファム・ファルタ性はどのように形成されているのか。その特徴と問題点を検討する。
著者
大鐘 敦子
出版者
関東学院大学法学部教養学会
雑誌
関東学院教養論集 (ISSN:09188320)
巻号頁・発行日
no.29, pp.29-46,

フローベールの初期作品群には、後期のジャンルを超えた大作家になる以前の様々な作品が40 以上もあり、初期をどう捉えるかいくつかの見解がある。こうしたなか、初期作品における女性像は、後期に描かれるファム・ファタル的な女性像と異なり、ロマンティスムに影響をうけた宿命に屈する女性像たちが中心であった。フローベールの初期作品群におけるファム・ファタル的女性像の萌芽はどのようなものだったのだろうか。
著者
大鐘 敦子
出版者
関東学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

フローベールの長編歴史小説『サラムボー』は、19世紀後半に注目された「ファム・ファタル(宿命の女)」という概念に多大な影響を与えたと言われている。本研究では、従来、統一した転記がなされず、分類も未整理だった『サラムボー』のプランとシナリオの全自筆草稿を、現段階で最も厳密な基準での転記方法で判読・転写するとともに分類整理し、これら初期草稿にみられるファム・ファタル像の萌芽と決定稿までの形成過程をより精密に実証的に捉え直して、新プレイアッド校訂批評版など最新の資料を用い、19世紀ファム・ファタル神話形成の起源の一つとして新たに位置づけた。
著者
大鐘 敦子
出版者
関東学院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

フローベールの最晩年の短編『ヘロディアス』は、「フローベール的文体の極致」としばしば指摘され、膨大な科学的資料に基づいて創作されている。本研究ではこの『ヘロディアス』の文体の錬金術の創造過程を自筆草稿における生成批評研究(内的生成)およびヘロディアス=サロメ神話の間テクスト性の研究(外的生成)を並行して行い、これまでで最も総合的な解明を試みて、『ヘロディアス』を19世紀最大のファム・ファタル神話形成の起源の一つとして新たに位置づけた。