著者
藤崎 康彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.39-55, 2003-03-15

男性,女性の他に「第三のジェンダー」を認識する文化があるという主張が,文化人類学的研究の一部でなされることがある。本稿はその理論的意味を考えることを目的として,具体的な民族誌のレベルで検討を行い,いかなる条件で,またどのような理論的意味合いで「第三のジェンダー」が可能かを考察する。具体的には男でもない,女でもないというカテゴリーがある点で共通な社会である,インドのヒジュラとアメリカ先住民のベルダーシュ,特にナバホ族のそれを検討した。ヒジュラの場合には呪術-宗教的機能が明瞭であり,かつはっきりとしたイニシエーションがある。他と区別される地位が与えられる。これに対してナバホのベルダーシュの場合はより日常的な存在であり,特別に他と区別されるような地位が与えられるようには見えない。しかし全く聖なる性質が認識されていないわけでもない。地位自体がじつは暖昧である。暫定的なまとめとして,むしろ仮説的ではあるが,西欧的な「二元的対立」に基づくジェンダー観を有する文化では,例えば性的に暖味な「間性」は通常のジェンダーカテゴリーには納まりにくく,「聖なる」存在と位置付けられるのではないか。それに対してそのような二元的対立が緩やかで,異なる性/ジェンダー観を持つ社会の場合は,「第三のジェンダー」カテゴリーも認識する可能性があるのではないか,と考える。
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.108-54, 2003

核時代の使徒ーJ・G六徒ラバ1ウドロ『ヴィーナスの狩人』を読むー藤崎 康どうして私の人生を、そうでないかもしれないではなく、けずにいられたでしょうか?そうかもしれないほうにこそ賭ルネ・ドーマル『類推の山』1聖性のゆくえ、あるいはフエイクな神? フランケンシュタイン神話は、科学的合理主義に対抗して、科学の諸概念を、錬金 術の神秘や感情と再結合しようとした、十九世紀のロマン主義的反抗に由来する。 デイヴィッド・J・スカル『マッド・サイエンティストの夢-理性のきしみ』 英国のSF作家J・G・バラードに、『ヴィーナスの狩人』(一九六七年)という、ちょっと類を見ないよう伽 な傑作がある。この短編がとてつもなく面白いのは、バラードが科学と魔術の、あるいは合理と非合理の対決㎜ ・ん を、SFや幻想小説や文明批評の手法をもちいながらも、そうした手法ないし意匠に淫することなく、むしろ107(28)登場人物の心理や意識のひだを精妙に描くことで、きわめてユニークな物語に仕あげているからだ。バラードはこの作品でまた、近代合理主義(理性信仰)という、今やさまざまな揺らぎやほころびを見せているものの、依然として私たちの生活を律している「教義」i一八世紀の西欧で確立した啓蒙思想、すなわち「理性の光」ですべてを吟味しようとする知的態度の延長上にあるーが支配する現代にあって、人知をこえた「聖なるもの」はいったいどんな場所に降りてくるのか、という重大な問いを投げかけている。 ここで、『ヴィーナスの狩人」の読解にはいるまえに、近・現代とはいかなる時代なのかを、おおまかに輪郭づけてみよう。1近代化にともなう都市化、高度な産業化、科学技術の飛躍的な発展、市場経済の圧倒的な拡大、そして大衆消費社会の到来によって、教養、芸術、観光、民俗、健康、エコロジー、美容、セックス、「癒し」等々、文化や肉体にかかわる一切が商品化され、情報化され、日常生活の利便性や快適さがめざましく増大するいっぽうで、地縁、血縁などの旧来の共同体が無残に掘り崩され、核家族化が進行し、伝統的な文 リサイクル化・芸能・芸術が衰退する(それらはキッチュー1まがいものとして再利用される)といった状況を生んだ。 ミ イズム また人びとは、他人への関心や共感力を極端に欠いた自分主義ーそれは「自分探し」「自分らしさ」といっ こまた気味の悪い言葉を生んだーに閉じこもり、濃やかな人間関係を避けるようになった。そしてかれらは、そ よ エ ト スれまで拠りどころにしていた生活規範や行動様式を手放し、いわば「自由」を獲得した代償として、寄る辺なさ、精神的空白にとらわれるようになったー。ごく粗雑にまとめれば、近・現代とは、そういった時代である。(↓それはまた、近代化目工業化のはてに世界が「脱魔術化」され(M・ウェーバー)、宗教が世俗化され、いきおい「聖なるもの」や「崇高さ」が見失われた時代1しかし同時に、非合理的な呪術や終末予言を売りものにする新種の宗教が、あるいはカリスマ待望や過剰なナショナリズムが、合理主義の影の部分に寄生する奇妙な時代でもある。へ,) もちろん、近代化の負の側面は、いまざつと触れたいくつかの間題にとどまらない。たとえば大量生産.大量消費は大量廃棄を生み、排気ガスによる地球温暖化、異常気象、熱帯雨林の破壊と砂漠化といった事態を生じさせた。そして今日の科学主義は、生命創造という「神の領域」さえ侵犯しよ
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.37, pp.90-54, 2003

はじめに1 表現主義映画-カリガリからノスフェラトゥへIIIIIIIVVVI
著者
藤崎 康彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LETTERS (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.54, pp.23-43, 2019-03

台湾では今世紀初め、あるいは前世紀末頃から、政府の施策で大気汚染防止を目的に、寺廟での参詣に際し、香を点し金紙を焼く量を減らす「環保祭祀」が行政主導で推進されている。二〇一七年夏には、これに疑念を呈する寺廟のグループが台北で集会をし、SNSでの情報が拡散していたので、多くの参加者を集め、メディアも注目することとなった。日本でもそれが報じられ、筆者も知るところとなった。筆者は台湾の寺廟でシャーマン的な儀礼などを過去において観察していたので、環保祭祀などが寺廟と信者に及ぼす影響に改めて興味を抱いた。本稿は二〇一八年三月と九月に訪台し、寺廟を訪ねて、観察したときの記録に基づき、寺廟での実際の様子を記述したものである。廟での様々な儀礼的実践と、信者の行動についての記述は、本稿の続編に収め、本稿は事実の確認に徹して記述をした。
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.49, pp.360-320, 2009

はじめに1 理由なき災厄2 アンチ・ミステリー、アンチ・サプライズとしてのサスペンス3 ヒッチコックのミステリー映画4 知りすぎてはいない主人公5 『知りすぎていた男』をめぐって6 多重化するサスペンスの渦7 視線の迷宮 : 『めまい』について8 ヒッチコック的サスペンスの臨界点としての『鳥』9 断片化(=非連続化)されるモチーフ10 食堂"タイズ"の場面をどう見るか?11 ゲームとしての過剰解釈=深読み12 終末論映画としての『鳥』?13 恋愛映画としての『鳥』?14 家族映画としての『鳥』?15 結語にかえてMélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集
著者
藤崎 康
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学
巻号頁・発行日
no.40, pp.14419-10855, 2005-03 (Released:2005-00-00)

はじめに1 国民的投影 2 至高な王への同一化3 映画と国民国家4 共同体の物語=表象、あるいは〝ファシズムの美学〞5 機械による贖罪補遺1 アウシュヴィッツの不可視性?補遺2 〈国民映画〉と〈国策映画>
著者
藤崎 康彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-18, 2009-09

これまでのベルダーシュ研究は、「ベルダーシュとされる諸個人」の(セクシュアリティに関わる)特性や︑それらの諸個人の処遇に関わるベルダーシュという制度の「社会的機能」の考察に比重がかかっていたと思われる。しかし、それらによってはベルダーシュの本質は明らかにされてこなかった。本稿では、性の本質は生殖にあるとする根本的な認識から、生殖に関与しない、あるいはそれから疎外された存在であるベルダーシュによって社会全体の豊饒性がむしろ増大すると期待されていること、すなわち生殖力に関する一種の象徴的逆転こそが「ベルダーシュという制度」の本質であることを論ずる。