著者
カテリーナ オリハ
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.15, pp.31-50, 2017-03

『地下室アントンの一夜』は尾崎翠の他の小説と共通の人物が登場するため、従来の研究では、他の小説との関連の中で検討されてきた。しかし、『地下室アントンの一夜』を他の小説と切り離して独立した作品と捉えた場合、従来の研究で作品理解の前提とされてきた精神病のモチーフから離れることが可能になる。本稿では、語り手「僕」(詩人土田九作)の心的病状に関心を絞るのでなく、詩人の創作上の危機に焦点を当てて論じてみたい。本小説の大きい特徴は、小説の大部分でお互いを語り合い、身の周りの物事を語る「僕」(詩人土田九作)と「余」(動物学者松木氏)という二人の語り手が小説の最後の一節で地下室に降り、初めて直接に対話することである。この「対話」によって、詩を書けない危機にあった詩人「僕」は詩を書けるようになる。本論では、詩人の「詩を書ける」状態と「詩を書けない」状態の各々の状態についてその特質を明らかにし、地下室で開かれた「対話」が、詩を「書ける」ようになるという詩人の変化にどう関わっているかについて論じると同時に、人間の生における「対話」の意味について考察したい。
著者
李 夫平
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.15, pp.167-179, 2017-03

自然音の模倣として言語へ導入される擬声語には歴史的な変遷における語音、語形、語義の変化が生じると考えられる。中国語の擬声語の場合、語音、語形、語義の変化によって通用語や多義語となる現象が見られる。擬声語を共通語の標準に合わせるには擬声語の用字、発音と意味などの要素を考えなければならないため、それらの要素の歴史的な変化状況を調べる必要がある。本論では、「吧」を取り上げ、単音節擬声語の「吧」と「吧」を第一字とする多音節擬声語の歴史的な変化を考察した。結論として、「吧」のような単音節擬声語でも「吧」を含む多音節擬声語でも、通用語などの現象がよく見られる。従って、歴史的な言語の変化に伴って、擬声語の意味などの面で、時代により変化した傾向が見られる。また、変化の過程で通用語現象なども生じるため、擬声語の使用の規則性を見ることは難しい。
著者
趙 暁燕
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.13, pp.157-171, 2015-03

明石姫君という人物は,光源氏が流謫生活を送っていた頃に,明石の浦で受領の娘である明石の君との間で儲けた女君である. 帰京して,政界復帰を果たした光源氏は,辺境での出生,及び地方官の娘腹という明石姫君の出自を「口惜し」と思っている. 本稿で注目するのは,その姫君の出産から袴着までに至る人生儀礼の諸相を語る物語の文脈において,光源氏の姫君に対する「口惜し」という表現が頻出する点である. また,本稿では姫君の裳着という儀礼についても考察を展開する. 特に,裳着において重要な役割を果たす腰結役に着目し,その「腰結役」に込められた象徴的な意味を検討してゆく. 光源氏によって領導される姫君の人生儀礼とは,明石姫君の身に存在する「口惜し」き要素を段階的に取り除く営みとして捉えることができる. 実際に物語では,袴着以降,明石姫君に関して「口惜し」という表現が消失することになっている. そして,袴着の次の段階の人生儀礼,即ち成人儀礼となる裳着において,明石姫君の運命が決定的に変更される契機を迎える. 本稿で注目するのはその裳着における腰結役である. これは,男子の元服における加冠役と同じく,儀礼にとって重要な存在となる. 通常,腰結役は男性が務めるものであるが,明石姫君の裳着については,女性が腰結役であるという点において,留意すべき事例であると考えられる. 女性が「腰結役」を務めることによって生み出されてくる意味とは何か. 本稿では,この「腰結役」となる秋好中宮をめぐって,史料を参照しつつ,物語内部の論理としてそれを考察する. 加えて,秋好中宮の斎宮という経歴にも着目し,その神話的イメージをも探ることになる.
著者
西村 正登
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.8, pp.149-164, 2010-03

戦後のアメリカの道徳教育は、次の三大潮流に集約される。第一は、「価値の明確化」による道徳教育である。これは1960年代~70年代にかけてアメリカ西海岸を中心に主知主義的な教育への反省の上に立って、「学校の人間化」をスローガンにして推し進められたものである。第二は、1970年代~80年代にかけてコールバーグを中心にして発展したモラルジレンマによる道徳教育である。コールバーグは道徳的判断に関する3水準6段階の発達段階を提示し、アメリカのみならず広く世界に道徳教育の理論的枠組みを提供した。第三は、1990年代以降に発展したキャラクター・エデュケーションである。これは学校の危機的な状況を救うためには、まず基本的な道徳的内容を直接子どもに教えることが必要であり、民主主義社会に必要な普遍的道徳的価値を教えることが必要であると説いた。本稿では、この3つの道徳教育の理論と実践を比較しながら考察することにより、「道徳教育で普遍的価値を教えるべきか否か?」という問題を教育の原点に立ち返って吟味し、日本の道徳教育の現状も合わせて考察しながら、今日の道徳授業に必要とされるエキスを洗い出していくことを目的にしている。